葉桜女御編_#1
鳴き渡る 歌読み鳥よ 梅の香が 誘うまにま 傍に居寄れば
葉桜女御
◇◆◇◆◇◆◇
──中宮様がお見えです。
夫の子を産んだ私に優しい笑顔を向け、労いの言葉をかける。
──ありがとう。あなたが皇子を産んでくれて、本当に喜ばしいことだわ。
──立派に育てて、将来は帝になる皇子なのだから。
どこまでも美しく。どこまでも透明な心を持つ、決して何者にも冒されない、この国で一番高貴な女性。
たとえ世界がひっくり返ったとしても、私には適わない女性。
そう思い知らされた時、私が抱いていた黒き渦が、とても惨めでちっぽけなものに思えた。
中宮様の秘めたる思い。
──すべてはあの方のために。私たちは存在しなければならない。
◇◆◇◆◇◆◇
桜色から葉桜色へ移り変わる季節。
左大臣家の姫が入内してから三ヶ月が過ぎようとしていた。
ある晩、梅壷の渡り廊下から月を眺める女性の姿があった。
まるで今にも月へ帰ってしまいそうな風情を漂わせた。
儚い美しさを身に纏う女性。
月の光に照らされ、光沢を放つ流れる黒髪。
その表情は扇に隠れ、見えなくとも袖から零れる美しさは隠せない。
そこへ足音を忍ばせ、近づく男がいた。
「宮よ」
呼ばれた女性は声のする方へ振り返り、穏やかな微笑みを浮かべ
「今夜はもういらっしゃらないのかと思いましたわ」
男は宮と呼んだ女性へ慈愛に満ちた眼差しを向け。
「仕方のないこととはいえ、左大臣の言いなりになって、そなたとの時間を削るつもりはない」
そう告げた声音には少し怒気が入り混じっていた。 そんな男の様子にやれやれと宮は困ったような笑みで。
「私のことは気になさらないでって、あれほどっ! んんっ」
次の言葉を紡ぐ前に宮の唇は男の唇で塞がれてしまった。
しばらくの間、男と宮は互いの唇を貪り合う。
そして、唇がはなれると、男は熱を帯びた名残惜しそうな瞳を向けた。
宮は恥ずかしそうに頬を赤く染め、男の胸に顔をうずめ。
「このような場所で恥ずかしいですわ」
蚊の鳴くような声で呟く。
そんな宮の姿に更なる愛しさを募らせた男は優しい笑顔で。
「誰に気兼ねすることもないぞ。そなたはもっと堂々としておればよい。中宮という立場にいるのだから」
◇◆◇◆◇◆◇
時を同じくして。
弘徽殿の廊下で一人の少女が月を眺めていた。
「今日は帝のお渡りはないのかしら?」
切ないため息を吐き呟く。
そんな少女の様子に目を細めながら、お付きの女房が答えた。
「葉桜女御様。帝は昨日も一昨日もおみえでしたのよ。今日は女御様の体を気遣われて、夜のお渡りを控えられていると思いますわ」
その言葉に葉桜女御と呼ばれた少女はポッと頬を染めた。さらさらと流れる黒髪が葉桜女御の白い肌を撫でる。
白百合のような凛とした美しさはなくとも、かわいらしい牡丹の花を思わせる雰囲気を纏う彼女。
女房の言葉にうっとりと夢見るような表情をした。
(何も知らない私に帝は壊れものを扱うように優しく、そして時には雄々しく求めてくださる)
帝とのことを思い出しては熱く早鳴る胸。
幼い頃から蝶よ花よと育てられた葉桜女御にとって、自分に皆の愛が向けられるのは当たり前のことだと思っていた。
葉桜女御にとって入内とは、生まれた時に決まっていた未来。
そのために幼き日より、和歌、琴、古今和歌集の暗記など、帝の后になるための最高の教育を受けてきた。
そんな葉桜は入内したら、すぐ中宮になれるものだとばかり思っていた。
それを父親である太政大臣に文句を言えば、今中宮は帝が即位が決まる前より連れ添われた方で、非の打ち所のない完璧な女性のため、下手な出だしができないとぼやいていた。
帝に対しての不満はない。何もしない父親に対しての怒りと女御という身分、そして自分よりも高い地位にいる女性の存在が許せずにいた。
女房たちを下がらせた葉桜は。
「帝は東宮を経ずに我が一族の力で即位されたのよ。なら、我が一族の力で中宮を廃后にすればよいのに。なぜお父様はそうなさらないの? あの女がいるせいで、私は中宮になれないのよ! 本当に忌々しい女だわ」
中宮に対して抱いたものは彼女が初めて経験した思い。
自分を大切にしてくれる世界の中で育った彼女。
世間を知らない。
そして人の気持ちも。
「帝も大変よね。私を中宮にしたくても、あの女が邪魔をして。そうだわ。私、いいことを思いついた」
何も知らない口から紡がれる無邪気な悪意。