蒼宮編_#7
あれから、どのくらい泣き続けていたのだろう。
屋敷の者たちは、姫が泣きやむまで部屋へ近づかないよう松風に言い含められていたのだろうか、気配をまったく感じない。
呼べば来てくれるかもしれないが、今の姫は誰かを呼ぶ気が起こらなかった。
もう少しだけ、一人でいたい。流す涙はなくとも、もう少しだけ、一人でいさせてほしいと。
気がつけば、外はいつの間にか日が傾き始めていた。
赤く染まる空は、ただ静かに大地へ光を降り注ぐ。
ぼぉっと部屋の壁を見つめていた姫を包み込むようにその夕日が部屋まで差し込む。
それから、しばらくして、その日差しは黒い影に遮られた。
部屋の入り口に視線を向けると、そこには宮が立っていた。
「姫よ。少し話をしないか」
そう言うと宮は、姫の目の前に座った。
泣き続けていたため、姫の目もとは腫れ、その瞳はまるでウサギのように赤く染まっていた。
とても痛々しいほど憔悴している姫の姿。
一瞬だけ宮は目を逸らしてしまいそうになり、なんとか思いとどまったが、直視するまで少しの間が必要だった。
乱れ渦巻く思いを落ち着けるように宮は深呼吸をして、ゆっくりと姫の瞳に自らの視線を合わせた。
そして、ふとあの日の綾宮を見ているようだと思った。
(あれから一体どれだけの時が過ぎたのだろう、時間は彼女の闇を消せなかった。今は少しでも姫をその闇に染めないためにも、私に何ができるのだろう)
宮は胸の内の迷いで重くなった口からやっとの思いで言葉を紡いだ。
「まず結論から話そう。私はこの入内話を断ろうと考えている」
父親の口から出た意外な言葉に焦点の定まらない瞳は大きく見開かれて、姫は驚きの表情を浮かべた。
それを見た宮は、優しい表情になる。
「傷ついているそなたに入内を無理強いするつもりはない。帝は話の分かる方だ。何かしら責任を取らなければならなくなったとしても、今の職を返上して、皆で宇治へ隠遁生活をしてもよいではないか」
姫を安心させるように宮は豪快に笑って見せた。
そんな父親の気遣いが素直に嬉しくて、姫の瞳には先ほどの悲しみに染まっていた涙とは違う、暖かな滴がにじんだ。
「お父様。ありがとうございます。その言葉とお気持ちだけで十分ですわ」
(お母様が記憶をなくされてしまって傷ついているのは私だけじゃない)
姫は下ばかり見ていた視線をゆっくりと父親の瞳に合わせる。
(もしかしたら、いいえ、私よりもお父様の悲しみは深いはず。それなのに私の気持ちを優先しようとしてくれた)
その気持ちだけで本当に十分だと姫は素直に思った。
だから、その言葉が出たのだ。
前へ進むための決意の言葉。
「お父様。私、東宮様のもとへ参ります」
あの日、お母様の中の私が消えて、この屋敷に居場所がなくなったと嘆いていた、でも最後まで自暴自棄にならなかったのは、今まで両親から注がれた惜しみない愛情のおかげかもしれない。
だからこそ、私ができる二人への恩返しは、いつかできる大切な存在へ、その受けた愛情を与えることだと。
そう考えられるようになってきた。気持ちはまだ追いつかないけど大丈夫だ。
お父様の言葉が私の背を押してくれたから。
宮の唇はわなわなと震え、その目にうっすらと涙がにじんでいた。
(綾宮。私たちの娘はこんなにも大きくなっていたんだね)
君にもその姿を見せてあげたかったと宮は瞳を閉じて静かに涙を流した。
「ありがとう。姫よ」
父親からかけられた言葉に止まっていた姫の涙がまた溢れ出してきた。
意を決したように姫は、父親の胸に飛び込み、思い切り泣いた。
宮はその小さな肩を優しく抱きしめた。
◇◆◇◆◇◆◇
のちに蒼宮と呼ばれる女性の幸せな少女時代は幕を下ろした。