蒼宮編_#5
屋敷へ着いた宮は、牛車を降り、綾宮の許へ急いだ。
普段と変わらない彼女の姿を見れば、この嫌な胸騒ぎは消えてくれると信じて。
だが、その期待は風前の灯火になってしまった。
綾宮の部屋へ行く途中の廊下で。
それは姫の首に綾宮の白く美しい両手が絡みついていたからだ。
宮は自分の周囲だけ一瞬、風が止まったような錯覚を覚えた。
「私の愛しい姫。宮が私に与えてくれた幸せの象徴。あなたが一の宮に汚されてしまうくらいなら、私の手で」
綾宮の言葉を聞いている途中で、宮はハッとした。
そして、その言葉を遮るように。
「ダメだ、綾宮」
宮は言葉を発すると同時に綾宮を自分の許へ、思いっきり抱き寄せた。
その際、勢いのあまり、尻餅を着いてしまったが、腕の中におさめた綾宮はしっかりと庇いながら、その衝撃を受けた。
そして、姫の方へ視線を向けると、ケホッケホッと喉元を抑えながら、前屈みになりながら咳込んでいた。
「いやぁー、離してー。榊宮。あなたまで私を辱めるつもりなの」
子供のように手足をばたつかせ、泣き叫ぶ彼女は、宮が中務卿宮と呼ばれる前の名を口走る。
それを聞いた姫はむせび泣き始めていた。
「お、お母様」
宮は歯を食いしばり、綾宮を抱く腕に力を入れた。
「綾宮、これはすべて夢だ。そなたは悪い夢を見ていただけだ」
悲痛な面もちの宮は腹の底から絞り出すように綾宮へ話しかけた。
「夢?」
暴れていた綾宮が動きを止め聞き返した。
「そうだ。すべて夢だ。そなたは悲しい夢を見ていただけ。怖い夢なら忘れたほうがよい。誰もそなたを責めぬから」
るせない瞳の宮は力なく笑いかけ、綾宮の頭を撫でた。
父親の言葉を聞き、泣いていた姫は、怒りを覚えた。
向かう場所がない怒り。
姫は袖の中に隠れて見えない震える両手を思い切り握りしめていた。
必死に耐えるように。
(悪い夢? お父様は何を言っているの?)
首もとにあてられた手の感触はまだ生々しく残っていた。
綾宮を抱きしめたまま、宮は姫のほうへ視線を向ける。
傷ついた表情をした娘の姿が映った。
小さな肩を小刻みに震わせ、声を押し殺して泣いている。
その姿に宮の瞳からは、うっすらと涙がにじんできた。
(心を強く持たねば、私まで綾宮の闇に引きずられてはいけない。このままでは、姫は幸せになれない)
綾宮は焦点の定まらない瞳を宮に向けて、まるで暗示をかけるように
「榊宮? この悪い夢は眠ってしまえば、すべて消えるかしら? 私、もう何も考えたくない。何も感じたくないの」
そして、一呼吸おき、胸の中に秘めていた思いを吐き出すように静かな声で
「女に生まれてこなければ良かった」
宮の顔から姫へ視線を移し、一瞬だけ、いつもの綾宮の微笑みを浮かべたように見えた。
ゆっくりと瞳を閉じて、体を宮に預けるよう意識を手放していった。
彼女の中に残っていた、一握りの最後の正気が飛んでいく。
まるで、それを見送るかのように宮と姫は綾宮から視線を逸らさず、見つめ続けた。
二人の瞳を流れていた涙は止まり、綾宮を凝視する。
胸が痛いのかさえ、わからない喪失感を二人は感じた。