蒼宮編_#2
霜月のある日に行われた朝儀。
さまざまな議論が進む中、帝は突如、咳払いを一つし、公卿たちの集中を自分に向け、皆の視線が集まったことを確認すると。
「皆のものに聞いてもらいたい。東宮は来年、十五になる。三ヶ月後の如月の吉日に元服させたいと思う」
それを聞いた公卿たちは、口々に感嘆の声を上げる。それを手で制し、帝は言葉を続ける。
「本当なら、藤の大臣の姫君を迎えたいが、何分幼すぎる。そこで、東宮女御に中務卿の姫宮、涼子女王を入内させることとする」
藤の大臣は、あまりの衝撃に手にしていた扇を落としてしまった。
まさに寝耳に水。
自分の預かり知らぬところで東宮女御について、話し合いがなされていたのかと思うと、腹の虫が暴れまわる、顔を真っ赤にした大臣は異を唱えようとした。
それを遮るように帝は大臣が言葉を発するより、先に。
「これは決定事項である。皆のもの、よく心得ておくように。それでは、後のことは任せた」
と言い放ち、その場を去った。
追いかけて問いただしたい気持ちはあったが、まだ朝儀中とのこともあり、退席するのも憚られ、藤の大臣はその場を動けず、怒りばかりが膨らんでいった。
◇◆◇◆◇◆◇
弘徽殿までの廊下。
足を踏み鳴らし歩く男がいた。
その顔は凄まじい形相をしている。
部屋へ着くなり、不作法に御簾を上げ、威圧的な態度で。
「葉桜女御はおるか」
「はい、兄上様。どうされましたか?」
のんびりとした声音で、東宮生母である葉桜女御は応えた。
「そなたはこの後宮で何をしていたのだ」
藤の大臣は理由も告げず、物凄い剣幕をぶつけてきた。
「そなた、東宮に中務卿の姫宮が入内することを知っていたか」
葉桜女御は、心底驚いた様子で。
「兄上様。その話、初めて聞きましたわ。もう宣旨が出ておりますの?」
藤の大臣は怒りを込めた声音で。
「突然、朝儀の場で、たくさんの公卿がいる前でだ。高らかに宣言しおったわ」
その言葉を聞いた葉桜女御は複雑な表情をした。
だが、藤の大臣は怒りで、妹のそのような表情には気づかなかった。
「まったく、帝は何を考えているのだ。我らが後盾したからこそ、即位できたということを。その恩を忘れたとしか思えん所業だ」
その言葉を聞いた葉桜女御は、一瞬、ハッとし我に返り、兄に同意するよう頷く。
「我ら一族をないがしろにしおって、許せぬ」
そして、左大臣はそう言い捨てると、苦虫を噛み砕いたような顔をした。
「そうですわ。兄上様。帝は何か勘違いをされているよう。兄上様のおかげで、今の政事が回っているというのに」
葉桜女御は眉をひそめ、信じられないという表情を見せた。
妹から、帝は間違っているという言葉を聞いて、藤の大臣は怒りから満足そうな笑みを浮かべ。
「そうだな。後宮の事はそなたに任せた。せいぜい、中務卿の姫宮を可愛がって差し上げるのだ」
それから、不敵な笑みに変わり。
「我が娘が入内できる年齢に達するには、今少し、時間が必要だ。それまでの間を埋める。我が意を汲む公卿たちの中から、当たり障りのない姫を探すとしよう」
そう言い終えると、先程とは打って変わって、上機嫌な様子で、藤の大臣は弘徽殿を後にした。
その姿を見送る葉桜女御の瞳は深い悲しみに揺れていた。
◇◆◇◆◇◆◇
朝廷が東宮妃内定の報で、俄かに騒がしくなっている頃。
中務卿宮邸では、綾宮と姫が琴をかき鳴らしていた。
綾宮が姫へと向ける眼差しは、どこまでも穏やかで、慈しみが降り注いでいる。
幼き日に死別した母親を思い、泣き暮らしていた綾宮が、手に入れた幸せ。
それが壊されてしまうかもしれないという不安に、彼女の心は蝕まれ始めていた。
たまに遠い目をする、心此処にあらずな母親を心配そうに見つめる、姫の視線に気付かないほどまでになっていた。
(お母様、どうされたのかしら?最近、ご様子がおかしいわ)
なぜか、母親の姿を見ると嫌な胸騒ぎがしてならない。
表面上はつとめて、平静に見える母親の姿。
いつもと変わらない姿で微笑んでいるのに、なぜ、そんなふうに思ってしまうのだろうと姫は悲しくなる。
◇◆◇◆◇◆◇
月の輝く夜。
書物に目を通す、中務卿宮のもとへ、神妙な面持ちの姫が来た。
「お父様。お話があります」
宮は読んでいた書物から顔を上げ、姫へと視線を移した。
「ちょうど良かった。私も姫と話がしたかったよ」
と慈しみあふれた笑みを向ける。
姫は大きく息を吸い込み、意を決したように言葉を発した。
「お父様。私、お母様を見ていると不安な気持ちになるのです」
姫は宮へ悲しみに傷ついたような眼差しを向けて。
「ふだんと変わらぬ笑みを向けて下さっているはずなのに」
言葉を詰まらせた姫を労るように。
「そなたの不安になる気持ちは痛いほどわかる」
宮も悲しそうな表情を浮かべた。
「姫よ。そなたに心配をかけてしまってすまない」
姫は頭をふる。
「お父様。私はお二人の娘よ。何かあれば心配するのは当たり前ですわ」
少しはにかんだような笑顔を向けた。
宮は姫の言葉を微笑ましく思ったが、綾宮の事情をまだ話す時期ではないと考えていた。
「今は詳しいことは言えぬが、いずれ話す。姫よ、少し時間をくれぬか?」
しっかりと視線を合わせて話す。
父親の真摯な思いを感じとった姫は納得したように頷いた。
「わかりましたわ、お父様。話して下さるまで待ちます」
父親を安心させるように笑顔を浮かべて言った。
「そういえば、お父様の話は何?」