第八回 幕府終了のお知らせと諺、引かれる戊辰戦争の引き金
幕府が潰れ、新しい政府が生まれた
だが、戦いは終わらない
徳川を潰しにかかる明治政府!!
揚がる錦旗!!
生まれる諺!!
政府が仕掛けた戊辰戦争…
意外と単純な策略(?)にはまった徳川方は、戦闘を始める
大政奉還の上表により、幕府終了のお知らせ(仮)となったわけだが、朝廷側としては、この事は想定内の出来事であった
朝廷内の薩摩・長州は、討幕の密勅を得るために12月9日にクーデターを実行
親幕派公家を追放した
その後、幼い子供の天皇からの勅命を取り付けたのだ
そして、その後出されたのが王政復古の大号令である
これが、正式な幕府終了のお知らせである
これより、政治体制を天皇中心の体制に改体するというものであった
ただし、徳川抜きで、という一文が付くが
簡単に言うと、幕府・摂政・関白の廃止
新しく三職を置くと言うもの
つまりは、徳川は朝廷に政権を返したとか抜かしてるけど、天皇様が中心なのだから当たり前じゃん
と言うわけである
しかも、朝廷側は徳川へと更なる追い討ちを掛ける
その会議は、小御所会議と言われるものであり、簡潔にいうならば、徳川討伐会議とも呼べるものであった
参加者は、新しい三職であり、メンバーとしては、
総裁・有栖川宮(和宮の元許嫁)
議定・諸藩大名や貴族
参与・諸藩の士
であった
この小御所会議で決められたことは、まずは、辞官納地である
辞官といっても、幕府の将軍職の事ではない
余り知られてはいないが、代々の将軍たちは、朝廷の一員でもあったのだ
その位は内大臣であり、朝廷内でも相当に高い位である(徳川家康は、もっと上)
納地とは、読んで字のごとく、領地の一部(経済的な要所)を天皇様、つまりは朝廷に差し出せ
という内容だった
後に徳川中心の連合政権を作ろうともくろんでいた慶喜にとって、これはとても呑めるような内容ではなかった
まぁ朝廷側としても、不安要素でもある徳川家をほっとく訳にもいかないので、当然呑めないような内容を突きつけた、と言うことは想像に難くないだろう
とにかく慶喜は、当然この要求を拒否
大阪城まで帰ってしまった
朝廷側としても、一応は朝廷内の高官であった慶喜を、理由もなく攻めるのは世間体が悪い
朝廷側は、慶喜がとても呑めないような内容を突きつける事によって、大義名分を作ったのだった
慈悲深い天皇様は、徳川家にチャンスをお与えになったにも関わらずに、畏れ多くもその提案を蹴りおった!天皇様がせっかく歩み寄ろうとされたのに、徳川はそれを断ったのだ
という事である
そしてついに1868年1月、ついに鳥羽・伏見の戦いが勃発
偽物の錦旗の影響もあり、モチベーションの低かった幕府軍は敗北してしまう事となるのだった
小話ではあるが、小御所会議の際に、討幕反対派であったのは、土佐の山内らであった
山内としては、徳川家存続の為に大政奉還を薦めたのだから当然と言えば当然である
山内家は、徳川家に取り立ててもらった家だからである
この会議に、西郷隆盛は隣の部屋にて待機、交渉のブレーンとして働いていた
会議には西郷の身分が足りない為に代役が参加
そんな西郷は、あれこれと理由をつけて、なんとか辞官納地をやらせまいとする山内を黙らせる為に、
短刀一本でおどせばけりがつく
と言ったと言われている
そして、この鳥羽・伏見の戦いの様子から、
勝てば官軍、負ければ賊軍
ということわざが生まれたのである
(少し前までは京を追われていた長州が、今は官軍として戦っているから)
しかし、この鳥羽・伏見の戦い、つまり、戊辰戦争はいきなり起こった訳ではない
もちろん始まりの火種があった
それさえも、朝廷、詳しくいえば薩摩・長州が仕掛けた事であった
薩摩・長州は徳川に対して戦争を仕掛けたいが、こちらから仕掛けるのは風聞に悪いし、あり得ない
なんとかして相手方から仕掛けさせる必要があるのだった
そこで薩摩は、桑名藩の藩士にたいして、自藩の藩士をけしかけさせる(バカにさせる)という行動に出た
当時の薩摩は田舎の代名詞であり、桑名は都会的な藩だったのである
桑名藩の藩士は、薩摩藩士を芋侍とバカにしていたのである
そんな風にバカにしていた奴等からバカにされ、ぶちギレた桑名藩士は、薩摩藩邸に放火
それに報復するという形で始まったのが、戊辰戦争である
簡潔にいうならば、
薩摩藩士「バーカバーカ、のろま~」
桑名藩士「なにおぅ!?あんの芋侍がッ!!見ておれっ!!」
↓
桑名藩士「わしらをバカにした報いじゃ、くらえっ!!」
~薩摩藩邸に放火~
薩摩「お宅よくもやってくれたね、やり返させて貰うよ」(しめしめ、プライドばかり高いバカが上手く引っ掛かったぞ)
ということである
(多分に意訳が含まれています)
更に、天皇家に伝わるとされている錦旗、つまりは錦の御旗が薩摩・長州側に上がったものだから、その時の士気の下がりようは凄かったらしい
天皇様に逆らった逆賊とされてしまったのだから仕方がないと言えばそれまでであるが
因みにこの錦旗は、本物ではなく、薩摩・長州の想像で作られたものであり、本物は、天皇家に伝わるとされているだけであり、実在しない物であった
しかし、大事なのは、
この旗が揚がったという事実であり、本物は誰も見たことがないと言うことも相まって、絶大な効果を発揮したのだった
それほどまでに、この時代の天皇のネームバリューは大きかったのであった
以上、第八回でした
錦旗は偽物
桑名藩士は脳筋
明治政府は悪どい
という話でした
明治政府の対応は正しいんですけどね
わざわざ内乱の芽を残す必要は無い訳ですし
次回作にご期待ください
では、また…