第七回 長州征討と幕府終了のお知らせ(仮)
更新が遅れてしまい申し訳ありません
最近忙しくて(´▽`;)ゞ
とりあえず、お楽しみください
下関砲撃事件のあと、イギリス等が四国艦隊を結成し、下関を砲撃
これを占領した
これにより、幕府は多大な補償金を支払うこととなる
この時に、下関の片付けをしたのが外国人からお金をもらった下関の住民なのだから驚きである
さすがに、これには幕府も動かない訳には行かず、第一次長州征討が起った
もっとも、長州があっさりと降伏したために、戦闘は起こらなかった
イギリス等が結成した四国艦隊は、というと、そのまま兵庫へと来航し、兵庫沖で大砲をぶっぱなしたのだ
天皇に対する脅しである
これにより、修好通商条約に勅許が出された
加えて、兵庫の代わりに神戸を開港し、改税約書が定められた
改税約書とは、1866年にきめられた
イギリス側の代表はパークスであった
これを機に、輸出超過から輸入超過へと変わっていったのだ
つまりは、貿易赤字となったのだ
内容は、従価税(品物の単価につき)20%だったのだが、従量税(重さにつき)5%となった
大幅な関税の引き下げである
貿易は、この年から赤字となった
長州藩は、というと、高杉晋作や、桂小五郎が、攘夷は不可能と判断し、クーデターを起こす
そのおりの軍事力は奇兵隊であった
この時に、藩内の恭順派を追い出した為に、藩の方針は、倒幕へと傾くのだった
それが原因で、第二次長州征討が発生した
しかし、幕府は苦戦することになる
この時に、坂本龍馬が小型の軍艦に乗り、幕府の軍艦と渡り合ったのだ
幕府側の苦戦には原因があった
諸藩は、幕府からの召集で動いたので、モチベーションが低かったのだ
対する長州は、、負ければ改易、お家断絶となり、長州藩が無くなるのだ
そのしわ寄せは、もちろん農民にくる
よって、モチベーションが非常に高かったのだ
幕府側の征討拠点は、小倉だったが、そこまで攻めこまれてしまう
正直言って、幕府はこの戦争を止めたかったのだが、なかなか終わりどころが見つからない
戦争とは、始めるのは簡単だが、止めるのは難しいのだ
ちょうどその時、将軍家茂が死んでしまう
幕府はこれ幸いとばかりに、家茂の喪に服すとして、戦争を終わらせたのだ
そして、1866年、坂本龍馬の仲介で、仲の悪かった薩摩・長州が同盟を組んだ
これが薩長同盟であるそれぞれ、薩摩が武器を、長州が米を交換したのだ
その輸送を、坂本龍馬の海援隊が行った
そして、時の天皇、公武合体派だった孝明天皇が死に、まだ10歳の明治天皇が即位、過激派の三条実美や岩倉具視の手駒となるのだった
さて、この時に土佐藩では前藩主である山内豊信が実権を握っていたのだが、彼に対して大政奉還を将軍に奏上する事を提案したのが、かの有名な後藤象二郎であった
もちろん原案はご存知の通り、坂本龍馬率いる海援隊の船中八策である
ちょうど幕府側もどうすれば徳川家を守れるか模索している所だったので、これに飛び付いたのだ
もちろんただ政権を返すだけならば、首を縦には降らなかったろう
徳川側にはあるもくろみがあった
それが、公儀政体論である
とりあえず幕府側としては、武力による討幕だけは回避したい
ならば、幕府を自ら潰してしまえば、討幕派は幕府(徳川家)を討ち、朝廷に政権を返すという目的を失う事となる
つまりは、徳川家は諸藩のトップから只の一諸侯になるのである
これでは徳川家を討つ大義名分は得られない
徳川家にとって大事なのは、そのあとで、大名による連合政権を、徳川がリードして結成し、運営するのならば、幕府があってもなくても結果は変わらないではないか
と考えたのだ
この当時、徳川家の石高は三百万石であり、他の諸侯を圧倒していた上に、(他の諸侯でもっとも高くて百万石だった)日本全国の経済的な重要拠点を領地として持っており、日本経済を牛耳っている状態だったのだ
それから、慶喜はフランスからの援助をうけ、幕府財政の建て直しに努めることとなる
そして1867年、前年に同盟した薩摩・長州両藩は、時は満ちたとして、武力討幕を決意したのだった
その情報を掴んだ幕府は、1867年に大政奉還の上表を出した
これで我が徳川家は只の一大名ですよ、とした訳だ
これで幕府終了のお知らせ(仮)である
いち早くカードを切った徳川!!
意地でも徳川を潰したい朝廷!
朝廷から徳川へと突き付けられた条件とは!?
次回、(おそらく)停滞の江戸時代が終わり、激動の明治時代へと突入する