第六回 貿易と幕府政略、攘夷の行方
急変した貿易状況
幕府と朝廷の思惑、そしてバーター取引
ついに下された攘夷決行命令!!
攘夷派は現実を知った…
圧倒的な黒字で始まった日米貿易だが、良いことばかりではなかった
主な輸出品目は、生糸、養蚕紙、茶であった
輸入品目は、毛織物、綿織物、軍事関係品だった
が、大幅な貿易黒字を生むという事は、大坂や江戸に送られるべき商品が大量に海外へと出ていった事を示す
それに伴い、品不足が起こり、物価高騰へと繋がった
これはまずいと、幕府は関税の引き上げを行おうとするが、協定関税の為に失敗
そこで幕府は五品江戸回送令を出す
これは、特に不足している雑穀、菜種油、蝋、呉服、生糸を、一度江戸の問屋を通してから外国商人に流すと言うもの(江戸で余ったものを流すということ)だったが、日米両方の商人の反対にあい、失敗
そして、最も問題になっていたのは、金の海外流出であった
当時の日本での金銀の交換レートは、金一:銀五だったが、諸外国は、金一:銀十五だったのだ
なので、外国商人たちは、銀貨を持ち込み、金貨と交換
それをまた海外へと持ち帰り銀貨と交換を繰り返す事で莫大な利益を得ていたのだ
それに対応するために、幕府は粗悪(金の含有量が低い)な万延小判を鋳造したのだ
確かに金の海外流出量は減ったが、小判の価値が下がり、物価高騰へと繋がった
その結果、当時の庶民や下級武士たちは生活苦にもがく事となる
そして、
生活苦
↓
貿易が原因じゃね?
↓
無勅許で貿易を始めた幕府が悪い
↓
幕府役人や外国人を襲撃
となったのだ
そしてそのあと、1862年、生麦事件が起こるのだ
その頃の幕府は…
井伊直弼、脱藩浪士により、桜田門外の変で死亡
下手人の浪士達は、尊皇攘夷論を唱え、殺人を天皇の為と自己正当化をしたのだ
次の老中、安藤信正は、公武合体を唱えた
公は朝廷、武は幕府である
つまりは、政略結婚である
14代将軍家茂と、孝明天皇の妹である和宮を結婚させ、その子を15代将軍にしようと目論んだのである
これが実現すれば、天皇の血が入った将軍に楯突くのか
と言えるようになるのである
それを、期待したのだ
尊皇と攘夷を切りはなそうとしたのだ
が、子供はできなかった
それに加え、あまりにも露骨だった為に、
朝廷を利用するとはけしからん!!
となり、火に油を注ぐ結果に
そのあと、安藤は、坂下問外の変で襲撃されるのである
が、安藤は生き延びた
しかし、そんな安藤に、世間は冷たかった
武士が襲われ、負けて、あまつさえおめおめ生き延びるとは、武士の風上にも置けない!!
ということなのだ
評価でいえば、死んだ井伊の方がよかったのだ
これにより、安藤は引退
幕府の老中職が空くが、なかなか人が決まらない
簡単に言うと、
下手に老中になると命を狙われるんじゃね?
↓
命を張る人が居なくなる
↓
幕府、手詰まり
というわけである
誰もが命あっての物種だと考えたのであろう
このあと、文久の改革があったりするのだが、割愛させていただこう
次だが、幕府には早速問題が起こっていた
和宮を結婚させるのに、もちろん朝廷は、ただで頷いた訳ではない
幕府のとバーター取り引きをしていたのである
和宮をあげるから攘夷を決行してね
と言う事である
約束をした出前、無理とは言えない幕府
わざわざ家茂が京都まで、決行日時を伝えに行くが、家茂は真っ暗な部屋で何時間も待たされたり、公家にグチグチ嫌味を言われたり、結局会えなかったりしたのだ
何はともあれ、幕府は、全国に攘夷の決行命令を出したのだ
待ってましたとばかりに長州藩は下関を通る外国船を砲撃した
そして、文久の改革後、江戸からの帰路で、イギリス人四人と、薩摩の大名行列がぶつかった
薩摩藩士は、不敬として三人を斬殺、逃げた一人も追いかけて殺害した
薩摩側からすれば、当然の事であるが、イギリスはぶちギレた
そして、1863年の7月、薩英戦争が起こるのだ
イギリス艦隊が薩摩の町を砲撃、薩摩側も砲台で応戦、イギリス軍艦にもダメージを与えたが薩摩側の砲台は壊滅
イギリス水兵が占領しようと上陸するも武士の抵抗により壊滅的な被害を受けた
これにより薩摩は攘夷を断念
イギリス側も、幕府よりも見所があるとして、お互いに接近することとなる
そこからの薩摩は速かった
8月18日の改変では、薩摩・会津の公武合体派は、朝廷から長州・急進派公家を追放した
こののち、薩摩は寺田屋で、薩摩藩の攘夷派(誠忠組)を弾圧(寺田屋事件)
同時期に、池田屋事件も発生
新撰組が行った
長州は、リベンジとばかりに兵を京都へ派遣
薩摩・会津・桑名藩と禁門の変(蛤御門の変)が起こった
今回はここまでとさせて頂きます
次回もよろしくお願いします
お読みくださりありがとうございました
また次回もよろしくお願いします
次回の内容はまだ未定ですが、関係のある内容となるかと…