第四回 雄藩の興りと水野忠邦の失敗
明治維新で様々な音頭をとった雄藩たち
彼らが雄藩足り得た起源とは!?
そして、老中水野忠邦の失脚の原因とは!?
揺れ動く日本経済を制したのは…
日本の藩の中で、明治維新後の日本で、主導権を握ることが出来たか否かは、維新まえの藩政改革で成功したかどうか、であろう
これは、藩政改革(Ⅱ期)の話である(Ⅰ期は寛永のききん後)
藩政改革(Ⅱ期)は、天明のききん後に行われた
安政時代の前後である
各藩は、藩校をつくったり、特産品の専売を行ったりして、何とか財政の建て直しを行おうとした
もちろん幕府も例外ではない
農村から都市へ流入してきた農民達を村へ返す「人返しの法」(町人以外を町から叩き出す)を実施したり、棄捐令(御家人の借金を帳消しにする)や出版統制令等をだし、建て直しを図った
この時、水野忠邦が株仲間の解散を実行して失敗するのだが、まずはその失敗を詳しく見ていこう
そのためには、まずは株仲間の変遷を見なくてはならない
17世紀後半、幕府は黙認→江戸には十組問屋(十の問屋の連合)が存在
18世紀前半、初めて吉宗が公認→物価を操作するため
18世紀後半、田沼が積極的に公認→運上、冥賀を納めさせる→大坂に二十四組問屋が存在(二十四の問屋の連合)
19世紀半ば、株仲間解散→水野忠邦
水野は、江戸の物価が上がっているのは、株仲間の価格操作が原因であるとして、解散させた
水野は、自由市場にして、価格を下げようとしたのだ(独占市場は大概物価高になる)
しかし、これは検討違いであり、逆に物価高騰を招くこととなる
当時の江戸は、人口が減少(約30%減少)しており、あまり良い市場とは言えなかったのだ
それに対して西日本は、大幅な人口増加(約60%増加)が起こっており、需要が拡大していた
そのため、産地からの商品は、わざわざ時間と金がかかる大坂→江戸に流すよりも、直接西日本にながすほうが良かったのである
そして、大坂の二十四組問屋は、少ないなかから必死に商品を集め、江戸に回送していた
しかし、水野は、この必死な問屋が売り惜しみをして、価格を吊り上げていると誤認し、株仲間を解散させたのである
これにより、江戸に入る商品の量は更に減り、大幅な物価高騰をまねいたのだ
この判断は、平常時ならばよかったのだろうが…
さて、つぎであるが、何故この時期に藩政改革が必要になったかというと、農民達の生活にも貨幣経済が浸透し、次第に資本主義的な生産へと移行して行ったからである
農村の生産が
農村家内工業→問屋制家内工業→マニファクチュア(工場制手工業)へと移り変わっていき、それに上手く対応した藩が、後々雄藩となったのである
そして、藩政改革(Ⅲ期)では、特に中・下級武士の活躍が目立つ
薩摩藩は、調所広郷が、蘭癖と言われた島津重豪の援助を受けて、500万両あった借金を整理してしまった
その手口は、500万両を250年掛けて返す。という物であった
事実上の帳消しである
かの有名な呉服屋である越後屋の主人が、息子に「大名貸しだけはするな」と言ったのも、こう言うことを見越していたからかも知れない
さらに黒砂糖の専売を強化
更に極めつけは、密輸である
当時の長崎貿易の代金は、金銀の流出を防ぐために、俵物(フカヒレ、干しアワビ、いりこ(ナマコの干物))と呼ばれる海産物で支払っていた
その俵物は、船で蝦夷地から長崎まで運ばれていたのだが、薩摩藩は、その船ごと俵物を海上で買い上げ、薩摩まで運び、琉球経由で清(中国)へと流していたのである
なぜならば、この時期の琉球貿易は、饅頭を送ったらポルシェが帰ってくるほどの内容であり、とても美味しかったのだ
もちろん違法、というか幕府に喧嘩を売るような行為である
もちろんバレる寸前にやめたが
長州藩は、村田清風という人物が中心となり、下関に越荷方という機関を作り、財政を建て直した
越荷方とは、産地から、大坂に送るよりも安い手数料で、西日本への販売を請け負った機関であり、莫大な利益を生み出した
肥前は、鍋島直正が日本で初めて大砲等を造るために、鉄を溶かす施設、反射炉を造り、均田制(地主の土地を小作人へと分配する)を実施し、財政を建て直した
もちろん失敗した藩もあり、その代表が水戸藩である
原因は藩内の利権が脅かされる保守派であるが
このあと、この失敗の責任を追及され、水野忠邦は失脚するのである
今回はここまでとさせて頂きます
次回にご期待ください
次回は、
濃厚に溢れ出す戦争の気配
蠢く朝廷
進む幕府のシナリオ
そしてドイツとイギリスが行った代理戦争とは!?
暗躍するプロイセン…
こうご期待!!
読んでいただきありがとうございました
また次回もよろしくお願いします
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