第三回 天皇と明治新政府、教育の名残
よろしくお願いいたします
今回は、
天皇の東京行幸の真実
何故、現代日本の教育カリキュラムに、実際に使えないような英語「reading」が高校、大学入試に存在するのか!?
皆さんは、天皇のことをご存知だと思う
言わずと知れた日本国民の象徴である
が、しかし、明治維新後の日本では、天皇とははっきりしたものではなかったのだ
農民の中には「天皇?おらまだ食ったことねぇよ」と、真顔で言うものが居たほどである
それほどまでに天皇とは当時は不透明な存在であったのだ
それを、明治新政府は、行幸という行為を盛大に執り行う事によって、天皇の可視化を図ったのだ
もちろん新政府側も、ただ天皇は偉いのだ、と民衆に伝えたいだけではない
もちろん政治的な思惑もあった
明治新政府は、日本の政治の、大幅な進路変更を行おうとしている最中であった
今まで右を向かせていた人々を、いきなり、一斉に左に向かせるようなものである
当然反発も出るだろう
それを抑える為の、天皇の可視化である
天皇を祭り上げ、神格化することにより、抵抗する人々に、この国は、天皇様の物であり、お前らは天皇様の土地て暮らしているのだ
そんな天皇様がトップの明治新政府が行おうとしている政策に反発して、弓や刀を向ける事は、天皇様に刀を向けることと同義だぞ
と言うわけである
そして、天皇の居住地が京都なのに政府が東京に有るのはおかしいので、行幸も兼ねて天皇の居住地を東京へと移した(当時はまだ東京府であった)
行幸の最中は、道の周りに民衆が押し掛け、天皇を一目見ようとした
見えたのは馬車と馬ぐらいのものだろうが
そして、天皇の一行が通りすぎた後の道に落ちている、泥まみれの小石を争うように拾って行ったのだそうだ
「天皇様が通った後の小石をもっていれば、家内安全五穀豊穣だ」というわけである
この当時はまだ、現代のような人気ではなく、利益を求めるような俗物的な信仰だったのである
まぁ、当の天皇は、京都から離れたくないと駄々をこね、側近達の「ちょっと旅行するだけですから」と、半ば騙されて行幸に出たらしいが…
さて、もうひとつの題目である、readingが存在するわけ、であるが起源はやはりこの明治維新期まで遡る
当時は、その国の文化の進行具合で、3つの区分わけが行われていた
まず、
欧米、ヨーロッパ諸国は文明国
日本、トルコ、中国、朝鮮は半開国
アフリカ諸国は未開国
と分けられていたのだ
これは、その国が内包する文明の野蛮さを表したものとなっていた
なので、日本は文明国へと上がるために、追い付き追い越せと、ひたすら外国の進んだ文化や技術を取り入れた
その時設定されたのが、模範国家(モデル=ステート)である
これは、その国の政治体制などの、良いところをそのまんま使用するという方法であった
つまりは、翻訳中心の学問が発達したのだ
つまりは、readingのことである
そして、まだまだ語り足りない事が沢山あるのだが、ひとまずはここで線引きをさせていただくとしましょう
また次回でお会いしましょう
ありがとうございました
ここまで読んでいただきありがとうございました
次回は、幕末の動乱と戊辰戦争
でお送りしたいと思います
では、これで。
ありがとうございました