第一回 情報と幕末と徳川・明治両政府
今回は一般的に無能扱いされている幕府の真実と明治新政府についてです
まだ触り程度ですが
第一回目である今回の題材は、人気のある幕末のお話しとなります
ところで、よくテレビや、タイムスリップ系の小説等で、幕末という単語はかなりの知名度を誇っていると思う
しかし、だ。
実は幕末という単語は、幕府が倒れる寸前から出来上がった言葉であり、長州藩が下関で外国船相手に砲撃をやらかした頃には幕末所か幕府という言葉さえ一般的では無かったようだ
当時の武士・庶民問わず、幕府の事を「お上」や「公儀」と呼称していたのだ
話が逸れたが、皆さんはよく、幕府が潰れたのは幕府の能力が低く、諸外国と不平等な内容の条約を結ばされ云々
という内容が多いと思う
しかし、幕府の能力は決して低くはなかったという事をここに記しておこう
なかには、実際に不平等条約を結ばされてるじゃないか、や、ペリーが来たときはてんやわんやなったらしいじゃないか等々言う方もいらっしゃるかもしれない
だが、幕府側は、ペリー艦隊の規模、目的、司令官の名前、いつ、どこから出港したのか…など、必要な情報は既に得ていたし、不平等条約も、不利ではあるが、不平等ではないと言うのが最近の主流である
まず、何故幕府がペリー艦隊の情報を知り得ていたかというと、情報ソースは長崎の出島に唯一商館を構えることが許されていた欧州国家、オランダであった
当時、オランダ商館長は、幕府に対して「オランダ風説書」というヨーロッパでの出来事を事細かに記した報告書の提出を義務付けられていた
この「オランダ風説書」には、ナポレオンの状況や経済、政治の様子などが記されていた
そのなかに、ペリー艦隊の記述があったのである
そして、不平等条約であるが、ここでは条約を結びはしたが、何も取られていないというポイントが大切になる
ほとんど同じ内容の条約を、トルコも結ばされているが、トルコは条約以外にも色々とられていたのである
中国に至っては話がこじれて戦争となり、負けて香港を取られる羽目になったのだ
それと比べると大分マシであることがわかると思う
よって、幕府側が無能では無かったことがわかると思う
では、何故無能のレッテルを貼られてしまっているのか
それは、当時の機運と明治新政府が行ったネガティブ・キャンペーンが関係してくる
ます、機運としては、幕府の弱腰の外交姿勢が、武士達の考え方だと情けなく見えたというのもあるし、外国との貿易により生活が圧迫された事に対する反発もあったのだろう。詳しくはまた別の機会にでも書こうと思う
そして、明治新政府のネガティブ・キャンペーン
これは一体どういう事なのか
この、ネガティブ・キャンペーン自体は現代でも行われているし、遥か古代の時代にも行われていた
分かりやすく言うと、一代前の権力者をけちょんけちょんに貶すことにより、自分たちの評判を上げる、という手段である
前任とはここが違う、前任はここがダメだったと、おとしめることによってシーソーのように自分たちをよく見せるというテクニックである
良くも悪くも、歴史は勝者が作るものなのである
ここでこの題材には一応のピリオドを打たせて頂くこととします
また次回でお会いしましょう
ありがとうございました
いかがでしたか?
徳川幕府は無能ではなかったんですね
次回、首相になる前の伊藤博文の意外な職業?
新撰組の起こした不祥事!!(ドラマでは大概ぼかされる)
こうご期待…