第5話 それは本当に間違いだったのか
朝は、変わらず訪れた。
窓から差し込む光も、廊下に響く足音も、昨日と何も変わらない。
王宮という場所は、個人の事情など意に介さず、常に同じ速度で動き続ける。
それは、正しいことだった。
リシェルは静かに身支度を整えながら、その事実を確認する。
鏡に映る自分は、いつも通りだった。
髪も、姿勢も、表情も、乱れはない。
ただ一つ違うのは——
もう誰も、それを「当然」として見ないということだけだ。
「……」
言葉にはしない。
必要がないからだ。
部屋を出る。
廊下を歩く。
すれ違う使用人たちが、一瞬だけ動きを止める。
そして、すぐに頭を下げる。
だがその動きには、微妙な遅れがあった。
ほんの一拍。
それだけで、十分だった。
——認識が変わっている。
リシェルはそう判断する。
昨日までは「王太子妃候補として当然の存在」。
だが今は、「扱いに迷う存在」。
それだけの違い。
合理的だ。
誰も間違っていない。
彼女は歩みを止めず、進む。
食堂に入ると、視線が一斉に集まった。
小さなざわめき。
だがすぐに収まる。
誰も、直接は何も言わない。
それもまた、合理的な対応だった。
リシェルは決められた席へ向かう。
椅子を引き、腰を下ろす。
動作に無駄はない。
いつもと同じ。
だが。
給仕の動きが、わずかに遅い。
視線を合わせない。
距離を測るような気配。
——観察。
リシェルはそれらをすべて拾い上げる。
そして、結論を出す。
——問題はない。
状況が変われば、人の対応も変わる。
それは自然なこと。
むしろ、これまでが過剰だっただけだ。
食事が運ばれる。
味も、温度も、問題ない。
だが。
どこか、違う。
何が違うのかは、明確ではない。
ただ、昨日までと同じはずなのに、同じではない。
それを、リシェルは分析しようとする。
原因は環境の変化。
要因は人間関係の再構築。
結論として——
「……影響は軽微」
小さく呟く。
その時だった。
「リシェル様」
声がかかる。
顔を上げると、同じ席についていた若い貴族令嬢が、恐る恐るこちらを見ていた。
以前、何度か会話をしたことがある相手だ。
「何かしら」
「その……昨日のこと……」
言葉を選んでいる。
不用意な発言を避けようとしているのがわかる。
リシェルは待つ。
急かす必要はない。
「……大変、でしたね」
結局、その言葉に落ち着いた。
無難で、曖昧で、しかし配慮のある言い方。
リシェルは一瞬だけ考え、答える。
「そうね」
それ以上でも、それ以下でもない。
事実として受け取る。
令嬢は少しだけ困ったように笑った。
「でも、あの……殿下のお言葉も、一理あるのでは、と……」
言ってしまってから、しまった、という顔をする。
だが、遅い。
言葉はすでに出ている。
リシェルは、その内容を検討する。
——一理ある。
それは、自分も同じ結論に至っている。
だから。
「ええ、その通りだと思うわ」
あっさりと認める。
令嬢が目を見開く。
「え……?」
「王妃には、柔軟さが必要でしょう。私は、その点で不足していた可能性がある」
淡々と述べる。
そこに感情はない。
分析結果の提示。
それだけ。
「そ、そう……なのですね……」
令嬢は戸惑っている。
予想外の反応だったのだろう。
もっと怒るか、否定するか、あるいは悲しむか。
だがリシェルは、どれもしない。
それが、さらに相手を困らせる。
「……」
沈黙が落ちる。
気まずさが広がる。
だがリシェルは、それを埋めようとはしない。
必要がないからだ。
しばらくして、令嬢は小さく頭を下げた。
「……失礼いたしました」
「気にしなくていいわ」
短く返す。
会話は終わった。
リシェルは再び食事に視線を戻す。
だが。
ほんのわずかに、思考が引っかかる。
——なぜ、戸惑ったのか。
相手の反応が、理解しきれない。
自分は、正しい結論を述べただけだ。
それなのに。
なぜ、あのような表情をしたのか。
考える。
そして、仮説を立てる。
——感情の問題。
論理ではなく、感情の領域。
だがそれは、優先度が低い。
すぐに思考を切り替える。
今は、現状の把握が重要だ。
婚約は解消された。
立場は変わった。
ならば。
——次に何をするべきか。
その答えを出す必要がある。
だが。
その問いに対して、すぐには答えが出なかった。
これまでの人生で、考える必要がなかったからだ。
進む道は、常に用意されていた。
選ぶ必要はなかった。
だから。
今、初めて。
リシェルは、自分に問いかけることになる。
——私は、何を望んでいるのか。
だがその問いは、あまりにも曖昧で。
そして。
彼女には、まだ答えられなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は「納得」と「違和感」が同時に進む回でした。
主人公自身が婚約破棄を“理解してしまう”ことで、
逆に読者側に違和感が残る構造になっています。
そして少しずつ、
「この主人公は自分で何かを選んだことがない」
という本質が見え始めています。
もしここまで読んで少しでも面白いと感じていただけたら、
ブックマークや評価をいただけるととても励みになります。
次話では、この“違和感”がはっきりと形を持ち始めます。
引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




