第23話 正しさを壊す者
「……それ、意味あるの?」
不意に、横から声が差し込まれた。
リシェルのペンが止まる。
顔を上げると、いつの間にか隣の机に一人の女性が腰掛けていた。
年の頃は三十前後。
簡素な服装だが、動きには無駄がない。
視線は、リシェルの書いた紙に向けられている。
「信頼の破綻に関する考察、ね」
読み上げるように言う。
その口調には、わずかな軽さがあった。
「……誰ですか」
リシェルは静かに問う。
警戒ではない。
確認。
「マルタ」
短く名乗る。
「ここの記録補助やってる」
それだけ。
だが。
その立ち方、視線、距離感。
ただの補助ではない。
リシェルはそう判断する。
「……何かご用でしょうか」
「いや」
マルタは肩をすくめる。
「ちょっと気になっただけ」
紙を指で軽く叩く。
「それ、頭で理解しようとしてるでしょ」
リシェルは一瞬だけ思考を巡らせる。
否定する理由はない。
「ええ」
「無理よ」
即答だった。
迷いも、遠慮もない。
リシェルの思考が、止まる。
「……なぜ」
自然と問いが出る。
マルタは小さく笑う。
「信頼ってね、考えて作るもんじゃないの」
椅子の背にもたれ、続ける。
「積み重なるもん」
一拍。
「で、壊れる時は一瞬」
その言葉に。
リシェルの中で、何かが引っかかる。
積み重ね。
破綻。
だが。
それをどう扱うのか。
まだ見えない。
「……では」
リシェルは言葉を選ぶ。
「壊れた後は、どうするべきなのでしょうか」
「どうもならないこともある」
あっさりとした答え。
だが。
そこで終わらない。
「でも」
マルタは少しだけ視線を細める。
「壊れた理由を間違えると、次も同じことになる」
その言葉は、静かに重かった。
リシェルは、そこで理解する。
——これは。
記録の話ではない。
経験の話。
「……あなたは」
少しだけ言葉を探す。
「実際に、それを見てきたのですね」
「見てきたし、やってきた」
即答。
躊躇はない。
「ここに来る連中、みんなそうでしょ」
軽く言う。
だが。
その言葉の裏には、確かな重みがある。
リシェルは、静かに頷く。
確かに。
ここは、そういう場所だ。
マルタは続ける。
「さっきの案件」
少しだけ顎を上げる。
「再契約、って言ったでしょ」
「ええ」
「間違ってないよ」
その言葉に。
リシェルの視線が、わずかに動く。
だが。
「でもね」
一拍。
「遅いのよ」
はっきりと言う。
リシェルの思考が、止まる。
「……遅い」
「そう」
マルタは頷く。
「信頼が壊れた後に、契約でどうにかしようとしても」
一拍。
「もう、聞かない」
その言葉。
リシェルは、理解する。
先ほどの若い男。
『もう、信用できない』
あの一言。
それがすべてだった。
「……では」
リシェルは、さらに踏み込む。
「壊れる前に、対応するべきだったと」
「そういうこと」
マルタは軽く指を鳴らす。
「でもね」
少しだけ笑う。
「壊れる前って、一番わかりにくいのよ」
その言葉に。
リシェルの中で、先ほどの案件が重なる。
沈黙。
視線のズレ。
言葉にされない違和感。
あれが。
壊れる前。
「……」
リシェルは、ゆっくりと息を吐く。
そして。
初めて。
自分の思考の外側からの視点を、受け入れる。
「……私は」
言葉を選ぶ。
「結果と構造を優先していました」
「でしょうね」
即答。
マルタはあっさりと頷く。
「でもそれだけだと、人は見えない」
一拍。
「壊れる前も、壊れた後も」
その言葉が。
静かに刺さる。
リシェルは、目を閉じる。
そして。
理解する。
——自分は、遅れている。
壊れた後の処理はできる。
だが。
壊れる前を、見ていない。
それが。
今の限界。
リシェルは目を開ける。
そして。
マルタを見る。
「……教えていただけますか」
その言葉は、自然だった。
これまでの彼女なら、言わなかったもの。
マルタは少しだけ目を丸くし。
そして、笑った。
「いいよ」
軽く答える。
「その代わり」
一拍。
「頭だけで考えるの、少しやめな」
その言葉に。
リシェルは、わずかに考える。
そして。
「……努力します」
正確に答える。
マルタは満足そうに頷く。
「それでいい」
そう言って、立ち上がる。
そして。
軽く手を振りながら、去っていく。
リシェルは、その背中を見送る。
胸の奥に、これまでとは違う感覚があった。
不安ではない。
戸惑いでもない。
——広がり。
理解するべき領域が、広がっている。
それを。
初めて、はっきりと感じていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
新キャラ「マルタ」が登場しました。
主人公とは真逆のタイプとして、
“正しさだけでは足りない”部分を強く突いてくる存在です。
ここから、主人公の成長はさらに加速していきます。
もしここまで読んで面白いと感じていただけたら、
ブックマークや評価をいただけるととても励みになります。
次話では、このマルタとの関係が、
主人公にどう影響していくのかが描かれます。
引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




