第19話 自分の中の未完
記録を終えた後も、手はしばらく動かなかった。
ペン先は紙の上に止まり、次の一行を待つように静止している。
だが。
——書くべき言葉が、見つからない。
リシェルはゆっくりとペンを置いた。
今回の案件は、終わっていない。
決着も、結論も出ていない。
だが。
確かに“何か”は動いた。
それを、どう扱うべきか。
思考が、わずかに滞る。
「珍しいな」
声がかかる。
ユリウスが、机の向かいに立っていた。
「手が止まっている」
「……整理に時間がかかっています」
「そうか」
それ以上は問わない。
だが、視線は外さない。
リシェルは少しだけ考え、口を開く。
「今回の案件は、未完です」
「そうだな」
「ですが、変化はありました」
「それもそうだ」
短い応答。
だが。
その先を促している。
リシェルは続ける。
「では、その変化は、どのように扱うべきなのでしょうか」
問い。
これまでの彼女なら、しなかった種類のもの。
ユリウスは一瞬だけ目を細める。
「どう扱うか、か」
少しだけ考え、そして言う。
「記録するしかないだろう」
単純な答え。
だが。
「結果が出ていなくても?」
「結果が出ていないからこそ、だ」
一歩近づく。
「関係ってのは、結果だけじゃない」
机に軽く指を置く。
「途中でどう動いたかも、重要だ」
リシェルは、その言葉を受け止める。
途中。
変化。
未完。
それらが、意味を持つ。
それは。
——これまでの自分には、なかった視点。
「……では」
ゆっくりと口を開く。
「未完の関係も、記録する価値がある」
「ある」
即答。
迷いはない。
リシェルは、静かに頷く。
そして。
その言葉が、別の方向へと繋がる。
——未完。
その言葉が、胸の奥に引っかかる。
思考が、自然と向かう。
婚約破棄。
あの出来事。
あれは、終わったのか。
それとも。
——未完なのか。
リシェルの手が、わずかに動く。
だが、ペンは取らない。
これは、記録ではない。
思考だ。
「……もし」
言葉が、少しだけ遅れる。
「関係が終わっていたとしても」
一拍。
「理解が不十分であれば、それは未完と考えるべきでしょうか」
ユリウスは、しばらく答えなかった。
リシェルを見る。
その視線は、いつもより少しだけ鋭い。
「……お前の話か」
短く言う。
リシェルは否定しない。
「……一部は」
正確に答える。
ユリウスは小さく息を吐く。
「終わった関係を、どう定義するかだな」
椅子を引き、腰を下ろす。
「形式として終わっていれば、それは終わりだ」
事務的な答え。
だが。
「ただし」
一拍。
「理解していなければ、整理はされていない」
その言葉が、静かに落ちる。
リシェルは、目を閉じる。
整理。
理解。
それらが、繋がる。
婚約破棄。
あの時、自分は。
——理解していなかった。
理由は聞いた。
分析もした。
だが。
——本当に理解していたか。
その問いに。
今は、はっきりと答えられない。
「……なら」
ゆっくりと目を開ける。
「私の中では、まだ終わっていないのかもしれません」
その言葉は、静かだった。
だが。
確かに、本音だった。
ユリウスはそれを聞き、少しだけ視線を逸らす。
「そういうこともある」
否定しない。
肯定もしない。
ただ。
事実として受け取る。
それだけ。
リシェルは、ゆっくりと頷く。
そして。
再び、記録に視線を落とす。
今回の案件。
未完の関係。
だが。
変化はあった。
それを。
残す。
リシェルはペンを取る。
そして、書く。
「——未完の関係における変化の記録」
その一文は。
今回の案件だけでなく。
自分自身にも、向けられていた。
書き終える。
ペンを置く。
胸の奥にあった違和感が、少しだけ形を持つ。
まだ、完全ではない。
だが。
確かに。
前に進んでいる。
リシェルは静かに立ち上がる。
次の仕事へ。
次の関係へ。
そして。
——自分の未完へと。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は「未完」というテーマを主人公自身に繋げた回でした。
仕事を通して、
他人の関係だけでなく、
自分の過去も少しずつ見えてくる構造になっています。
もしここまで読んで、
この物語の深さや広がりに興味を持っていただけたら、
ブックマークや評価をいただけるととても励みになります。
次話では、新たなタイプの案件が登場し、
主人公の別の弱さが浮き彫りになります。
引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




