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第6話 山の影

熱い。


煙の匂いがする。


視界が赤い。


腕の中の重みが、消える。


「守雄さん!」


誰かが叫んでいる。


伸ばした手が、空を掴む。


――もっと、力があれば。


その瞬間。


世界が、途切れた。



目を開ける。


そこは、自宅のリビングだった。


古いソファ。


低いテーブル。


床に転がる子どもの積み木。


夕方の光が、窓から差し込んでいる。


「……は?」


熊崎守雄は、ゆっくりと起き上がる。


静かすぎる。


冷蔵庫の音がしない。


外を走る車の音もない。


時計の秒針も止まっている。


まるで、時間が凍っている。


「……夢か」


呟く。


違う、とすぐに分かる。


空気が、重い。


視線を感じる。


振り向く。


リビングの奥。


壁と空間の境目が、わずかに歪んでいる。


そこに、


巨大な影が立っていた。


人の形ではない。


四肢を持つ。


分厚い肩。


黒い毛皮。


地面に爪を食い込ませる、巨大な熊。


だが。


それは動かない。


呼吸の音もない。


ただ、そこに在る。


「……何だ」


声が低くなる。


恐怖はない。


だが、本能が警戒する。


熊は、ゆっくりと顔を上げる。


目が、光る。


人間の知性を宿した目。


「境界に触れた者よ」


声は、熊の口から発せられている。


だが、口は動いていない。


空間そのものが響く。


守雄は、一歩も引かない。


「ここはどこだ」


「黄泉前」


聞いたことのない言葉。


だが、意味は理解できる。


生と死の間。


「俺は……死んだのか」


熊の目が、わずかに揺れる。


「まだ、決まっていない」


曖昧な答え。


守雄は、奥歯を噛む。


「子どもは」


問いは短い。


重い。


熊は沈黙する。


その沈黙が、答えに近い。


「勝てば願いは叶う」


熊が告げる。


「戦え」


命令でも、懇願でもない。


ただの事実。


熊崎は、拳を握る。


「誰とだ」


「他の境界者と」


部屋の床が、わずかに波打つ。


水面のように揺れる。


「願いを選別する」


熊の声は低い。


重い。


「選別?」


「叶えるべき願いを、決める」


その言葉に、胸の奥がざらつく。


「ふざけるな」


吐き捨てる。


だが、熊は怒らない。


ただ、見ている。


「願いを持たぬ者は、ここに立たぬ」


守雄は、目を細める。


願い。


ある。


迷いなく。


「子供たちを守る」


時間を戻せとは言わない。


奇跡を求めない。


熊の目が、わずかに柔らぐ。


「その重さが、形を持つ」


その瞬間。


背後の壁が崩れる。


リビングが消える。


青空が広がる。


足元が、黒い石に変わる。


冷たい。


円壇。


その外側に、静止した水面。


遠くに、鳥居の影。


熊は、そこにいる。


先ほどよりも巨大に見える。


円壇の外側に立ち、こちらを見下ろしている。


「それが、お前の象徴だ」


熊崎は、自分の手を見る。


人の手だ。


変わっていない。


だが。


胸の奥に、圧が宿る。


受け止める力。


怒りを溜める器。


逃げない質量。


円壇の向こう側に、空気が揺らぐ。


何かが、現れようとしている。


熊は告げる。


「立て」


熊崎は、静かに息を吸う。


一歩、円壇に足を踏み入れる。


冷たい石の感触。


重さが、馴染む。


「間も無く始まる」


熊の声が、最後に響く。


「退くことはできぬ」


空が、やけに青い。


風はない。


ただ、静止した世界。


守雄は、円壇の中央に立った。


次に現れる影を、待ちながら。

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