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第32話 猿の遊び

円壇の空気が張り詰める。


水面がわずかに揺れた。


その瞬間。


龍彦が踏み込んだ。


床を叩くような一歩。


拳が一直線に葵へ向かう。


だが。


「おっと」


葵は体を傾けただけで避けた。


拳は空を切る。


風だけが頬をかすめた。


「はや」


葵は少し感心したように言う。


「結構いいじゃん」


龍彦は返事をしない。


もう一歩。


距離を詰める。


次は蹴り。


横から払うような一撃。


しかし。


また空振り。


葵は後ろに跳んでいた。


「でもさ」


葵は軽く首を回す。


「それ、真面目すぎない?」


龍彦の目が細くなる。


葵は、ゆっくり構えた。


そして。


龍彦と同じ構えを取る。


「こう?」


足の開き。


肩の角度。


拳の高さ。


全部同じ。


龍彦の眉が動いた。


葵はニヤリと笑う。


「さっきの」


「これでしょ?」


次の瞬間。


葵が踏み込んだ。


龍彦と同じ動き。


同じ拳。


だが。


ドン。


威力は弱い。


軽く胸に当てる程度。


「ほら」


葵は笑う。


「真似できる」


龍彦の拳が震える。


「……舐めてるのか」


「いや?」


葵は肩をすくめる。


「研究」


そう言ってまた距離を取る。


円壇の上を、軽く歩く。


「だってさ」


葵は龍彦を見ながら言う。


「君」


「分かりやすい」


龍彦の足が動く。


再び突進。


今度は速い。


拳、蹴り、連撃。


だが。


どれも当たらない。


葵は避け続ける。


時々。


同じ動きを真似る。


拳。


蹴り。


踏み込み。


少し遅く。


少し軽く。


まるで


からかっているように。


龍彦の呼吸が荒くなる。


葵は笑う。


「怒った?」


返事はない。


だが。


空気が変わる。


葵は続ける。


「でもさ」


声が少し低くなる。


「そんな必死になる?」


龍彦の拳が止まる。


一瞬。


葵はその隙を見逃さない。


「分かるよ」


「俺もさ」


軽く頭を掻く。


「そういうのあったし」


「頑張ってるのに」


「誰も見てない感じ」


龍彦の目が揺れる。


葵は笑う。


「会社とかさ」


「あるよね」


「一生懸命やってんのに」


「評価されないやつ」


龍彦の拳が握られる。


葵はわざとらしく首を傾げた。


「君」


「そういうタイプでしょ?」


沈黙。


円壇の上に、


張り詰めた空気が流れる。


葵は続ける。


「だからさ」


「そんな顔してんだよ」


龍彦の足元の水が


わずかに揺れた。


「……黙れ」


低い声。


葵は笑う。


「図星?」


龍彦が踏み込む。


今度は迷いがない。


拳が一直線に伸びる。


葵は避ける。


だが。


その拳は止まらない。


次。


次。


次。


連撃。


葵は初めて少しだけ距離を取った。


「おー」


小さく笑う。


「怒ってる怒ってる」


龍彦の目が、


はっきりと怒りに染まる。


葵はそれを見て、


静かに呟いた。


「やっぱり」


そして言う。


「君さ」


「怒ると強くなるタイプだよね」


その瞬間。


龍彦の中で何かが弾けた。


「――ふざけるな!!」


空気が震える。


円壇の水面が揺れる。


遠くで


雷鳴のような音がした。


葵の目が細くなる。


「……お」


龍彦の瞳の奥に、


金色の光が


一瞬だけ灯った。


葵はその光を見て、


静かに笑う。


「いいね」


少しだけ構える。


「それ」


「面白くなってきた」


円壇の空気が重くなる。


まだ龍ではない男と、


本気を出さない猿。


その戦いが、


今、


本当に始まろうとしていた。

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