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第18話 信じたかった人

まぶたの裏が、白かった。


光ではない。


霧のような、

ぼんやりした白。


狐塚美沙はゆっくり目を開けた。


天井が見える。


見慣れた天井だった。


「……あれ」


声が出た。


自分の声なのに、

どこか遠く聞こえる。


体を起こす。


ベッド。


小さな部屋。


ワンルームのアパート。


机の上には、

コンビニのレシートと

読みかけの雑誌。


全部、見慣れている。


「……夢?」


美沙はぼんやり呟いた。


記憶が、少し曖昧だった。


仕事から帰った。


駅前で買い物をして。


それから──


そこから先が、思い出せない。


頭の奥が、少し重い。


考えようとすると、

うまく掴めない。


代わりに、


胸の奥に


妙な感覚が残っている。


ざらつくような、


不快な、


思い出したくない感覚。


美沙は首を振った。


「……やだな」


無理に思い出す気になれない。


嫌なことは、


思い出さない方がいい。


それが一番楽だ。


美沙はそうやって

これまで生きてきた。



部屋の中は静かだった。


静かすぎる。


外の音がない。


車の音も、

人の声も、

風の音も。


何も聞こえない。


「……?」


美沙は眉をひそめた。


窓を見る。


カーテンの隙間から

光が入っている。


昼?


いや、


明るすぎる。


でも、


時間の感覚が分からない。


時計を見る。


針は止まっていた。



その時だった。


声が聞こえた。


「外へ」


美沙は振り向いた。


誰もいない。


「……え?」


また声。


今度ははっきり聞こえた。


「外へ」


男とも女とも分からない声。


近くから聞こえるのに、

部屋の中には誰もいない。


美沙は少しだけ笑った。


「なにそれ」


怖い、というより、


不思議な感じだった。


夢なら、


まあいいか。


そう思った。


夢の中なら、


嫌なことも起きない。


現実より、

ずっと安全だ。



美沙はベッドから降りた。


足は普通に動く。


痛みもない。


玄関まで歩く。


ドアノブに手をかける。


その瞬間、


胸の奥が少しだけざわついた。


なぜか、


ここから先に行くと


何かが変わる気がした。


でも、


引き返す理由もない。


美沙はドアを開けた。



外に出た瞬間、


世界が変わった。


「……え」


思わず声が出る。


そこにあったのは、


街ではなかった。


道路も、


電柱も、


建物もない。


広い空間。


空は青い。


春みたいに澄んでいる。


風は吹いていない。


でも、


空気が静かすぎる。


目の前には、


巨大な黒い円形の舞台があった。


直径五十メートルほどの石の円。


黒曜石のように光っている。


その周りには、


浅い水が広がっている。


川のようだが、


流れていない。


完全に止まっている。


美沙はゆっくり歩いた。


足音が、


妙に大きく響く。


水面の向こうを見る。


遠くに、


鳥居のような影が見えた。


石段。


光。


その向こうは、


はっきり見えない。


「……ここ」


美沙は呟く。


何かを思い出しそうになる。


でも、


まだ形にならない。


その時、


頭の奥に


言葉が流れ込んできた。


場所の名前。


意味。


ルール。


ここは、


黄泉前。


死の手前。


生と死の境界。


戦い。


勝者。


願い。


敗者。


消える。


美沙は黙ってそれを受け取った。


理解した、というより、


最初から知っていたような感覚だった。



美沙は円壇を見上げた。


「……戦うの?」


誰に聞いたわけでもない。


でも、


答えは分かっていた。


ここにいる人は、


みんな


何かを抱えている。


消えないもの。


忘れられないもの。


美沙は少しだけ笑った。


「……そっか」


自分の胸の奥にも、


ある。


名前をつけたくない、


あの感情。


怒りなのか、


悲しみなのか、


それとも


ただの困惑なのか。


美沙はまだ言葉にできない。


ただ一つだけ、


思うことがあった。


どうして?


それだけだった。



美沙はゆっくり歩き出した。


黒い円壇へ向かって。


理由は分からない。


でも、


ここに来たなら、


進むしかない。


その歩き方は、


どこか軽かった。


まるで、


冗談みたいに。


でも、


その目だけは


少しだけ


冷えていた。

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