絡みつくもの
押している。
確実に。
蛇ノ目久美子は後退している。
足元の水が大きく揺れる。
呼吸も、わずかに乱れている。
(いける)
馬淵真人は止まらない。
直線。
踏み込み。
拳。
衝撃。
彼女の体がさらに下がる。
背後の影が揺らぐ。
細い影が、三つ、四つと増えかける。
だがまだ完全ではない。
「終わらせる」
声が荒れる。
自分でも分かる。
限界が近い。
脚が震えている。
肺が焼ける。
それでも走る。
止まれば、絡め取られる。
最後の踏み込み。
全力。
一直線。
蛇の間合いに入る。
拳を振り抜く。
当たる。
確かな手応え。
彼女の体が大きく揺れる。
水面に波が走る。
(勝った)
そう思った瞬間。
空気が変わる。
冷たい。
静か。
背後の影が、完全な形を取る。
一本。
二本。
三本。
四本。
五本。
六本。
七本。
八本。
八岐。
影が円壇を覆う。
視界が狭まる。
足が――動かない。
違う。
動かせない。
止まったわけじゃない。
絡みつかれた。
見えない。
だが確実に、全身が縛られている。
「……速い人ほど、絡みやすい」
蛇の声。
すぐ近く。
馬は歯を食いしばる。
力任せに前へ出る。
だが、
前に出るほど締まる。
走る癖が、
拘束を強くする。
「止まれますか」
問い。
止まれない。
止まったことがない。
止まるという選択を、
考えたことがない。
力を込める。
突破する。
そう思った瞬間、
足元の水面が一気に凍るように固まる。
動きが完全に止まる。
膝が折れる。
視界が揺れる。
蛇は目の前に立っている。
息は乱れていない。
感情も見えない。
ただ、静かだ。
「終われない人は、終わらせられます」
拳が、胸に触れる。
強くない。
だが、
内部に響く。
力を奪うのではない。
前に出る意志を削る。
足が動かない。
走れない。
初めて、
「止まる」感覚を知る。
(……ああ)
終わる。
そう理解する。
悔しさはある。
だが、怒りはない。
ただ一つ、
胸に浮かぶ。
(最後まで、走りきれなかったな)
光が、体を包む。
拘束が緩む。
力が抜ける。
蛇の影が静かに消えていく。
最後に見えたのは、
青い空。
風のない世界。
そして、
静かに立つ蛇の姿。




