第1話 不思議な世界
何処からか声がする。
遠い。
けれど、確実に自分を呼んでいる。
「――思い出して」
誰なのかわからない。
目を開けているのか閉じているのかも分からないまま、
意識だけがゆっくりと浮かび上がってくる。
暗い。
夜明け前のうっすらとした明るさしかない。
自分の手がある。
指を動かす。
遅れて感覚が返ってくる。
足もある。
立っている……のかもしれない。
「ここは……」
言葉にした瞬間、声が自分のものだと気づく。
自分の声なのに、少し遠い。
「あなたは誰?」
また声。
優しくもなく、冷たくもない。
ただ、問いかけてくる。
――私は。
そこまで考えて、止まる。
私は誰だろう。
名前が出てこない。
記憶が霧の向こうにある。
胸の奥がざわつく。
怖い。
でも、不思議と泣きたくはならない。
「思い出して」
その言葉と同時に、足元が揺れた。
視界に色が戻る。
白い天井。
見慣れたカーテン。
机。
本棚。
――自分の部屋だ。
私はゆっくりと自分の手を見る。
輪郭が、はっきりしている。
さっきまで朧げだったのに。
「……優子」
ぽつりと名前が浮かぶ。
小鹿 優子。
高校二年生。
――そうだ。
私は。
そこまで思い出した瞬間、胸の奥に痛みが走った。
何か強い衝撃を受けたような気がする。
「……あ」
息を吸う。
冷たい空気が肺に入る。
でも、ここは部屋だ。
怪我もない。
制服姿のまま立っている。
なのに。
「ここは、私の部屋じゃない。」
分かる。
これは本当の部屋じゃない。
空気が静かすぎる。
時計の音がしない。
窓の外から、車の音も聞こえない。
ただ。
「外に出て」
また声。
今度は、自分の内側から。
拒否しようと思えばできたはずなのに。
私は、なぜかドアノブに手をかけていた。
扉を開ける。
眩しい。
晴れ渡る空。
春先のような青空。
風は吹いていない。
静止した世界。
目の前には、
黒い円壇。
直径五十メートルほどの、光沢を帯びた石の舞台。
足元には、うっすら水が張っている。
けれど波はない。
その外側には、浅い川のようなものが広がっている。
流れていない。
ただ、向こう岸が見える。
鳥居のような影。
石段。
光。
「……ここは」
言葉にした瞬間、
頭の奥に流れ込んでくる。
理解。
説明。
拒否できない情報。
――ここは黄泉前。
――最後まで勝てば願いが叶う。
――負ければ消える。
心臓が跳ねる。
消える?
誰が?
私が?
視線の先。
円壇の向こう側に、人影が立っている。
まだ顔は見えない。
「……戦うの?」
声が震える。
私は、戦いたいわけじゃない。
勝ちたいわけでもない。
ただ。
胸の奥に、ひとつだけ。
はっきりと残っているものがある。
――誰も、これ以上傷つかないでほしい。
その願いが浮かんだ瞬間、
足元の水面が、わずかに揺れた。
「円壇に上がれ」
どこからともなく声が響く。
拒否できない。
体が勝手に動く。
黒い石の上に足を踏み入れた瞬間、
空気が変わる。
目の前の人影が、ゆっくりと輪郭を持つ。
戦いが始まる。
でも私は。
拳を握らない。
構えない。
ただ、立つ。
「……やめてほしい」
小さく、そう思った。
その瞬間。
世界が、ほんの少しだけ、静止した。
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