第1章 7話 言葉の力
ナナはそのままリノを引き連れて、リリィのいる独房へと向かう。窓の外には、赤く不気味な光を放つ火星が、まるでこの宇宙に広がる戦乱を象徴するかのように浮かんでいた。先ほどまでレーザー砲が入り乱れ、多数の命が散る音がしていた。現在はソフィア幕僚長に占領したサルトリアを任せ、ナナ達は木星へと戻っている。この時点で木星へ戻されるのは、まだナナを利用しようとしているのだろう。だが、ソフィア幕僚長よりも優先させられるとは思わなかった。
様々な思惑が入り乱れているのだろう。そんなものはこの宇宙の中ではどれだけ小さなものか。そう笑うように静かに暗い景色が広がる。ただただ静かに。しかし、その静寂は、突如として割り込んできた通信によって破られる。
「艦長、通信がジャックされています。一方的に映像と音声が流れます!」
通信士官の焦った声が響く。だが、その声も途中で新たな音声に掻き消され、耳には入らなくなった。混戦した不愉快な音がナナの鼓膜を震わせ、嫌な気分にさせる。リノは即座に、手元のタブレットをナナに差し出した。その画面に視線を向けるため、ナナが動かした手に独房の認証が反応し、重いドアがゆっくりと開いた。独房の中に、リリィはいた。リノが部屋を出てから一歩も動かず、じっとこちらを見つめている。せっかくナナと会えるというのに、その顔に感情の揺らぎは見えない。
タブレットの画面には、地上の喧騒が映し出されていた。何万という民衆が、ざわめきながら、一つの場所に集まっている。その場所は、おそらく火星だろう。火星の中でも、特に独立運動や恒星自治主義思想が盛んなダッカニア特区か、あるいはレインルールだろうか。戦況レポートは既に頭に入れていた。帝国第六艦隊は空母三隻、戦艦十隻の大艦隊。その周りにも重巡、軽巡、ステルス機などの完全体ではないナナの第九艦隊とは比べ物にならないほどの戦力があった。しかし、攻略地点が違う。
帝国の目的は工業都市レインレールの破壊。しかし、そことサルトリアの大きな違いはそこに潜む民意。反乱軍は徹底してそのレインレールの地上での防衛を固め、反対に第六艦隊は多少は無理をしてでも人口成層圏の穴を突破しなければならない。第六艦隊は戦力は抱えているが、人口成層圏をどこからでも突破できる強襲揚陸艦は備えていないために、反乱軍の主力パイロットや指揮官の作戦により人口成層圏を突破できたものから順番に敵の大戦力を相手にすることになった。ナナも、明確にレインレールの攻略を成功させる方法は見つからないでいるからそれは仕方ない。
しかし、圧倒的に有利な戦場であろうとも帝国軍をエウロパ以来、特に独立運動の盛んだった火星の民衆がその肉眼で見える場所で反乱軍が勝利を収めたのはデータに表示される戦果以上の戦局に及ぼす影響があった。その火星での激しい防衛戦を終え、反乱軍の主力となる大物たちがこの地に集結しているらしい。警察内部の詳しい階級制度や勲章は知る由もないが、映像に映る者たちの顔つきやたたずまい、そして彼らが放つオーラは、一般の兵卒とは明らかに一線を画していた。彼らは、静寂の中で新たな変化を求めていた。
その静けさを打ち破り、壇上に姿を現したのは一人の男だった。眼鏡をかけ、顔つきも体つきもがっしりとしている。その風格から、軍の出身か、あるいは警察の重役であることがうかがえる。しかし、彼の顔は火星ではよく知られているようで、民衆は声をあげるのを堪えながら、それでも興奮を抑えられないようだった。彼の一歩は、まるで地響きの予兆のようだった。その重く、しかし揺るぎない足取りは、これから語られる言葉が、どれほどの重みを持つかを物語っていた。帝国の支配が、壊れていく音がする。
『太陽系に住まう全ての人々、平等で自由な世界を望む全ての人々。私はドクトリン』
その名前を聞いても、思い当たるものはない。しかし、この場に立っているというのはさすがに大物だろう。有名人であるはずなのに、まったく聞き覚えもないというのは不思議な話だった。ナナはその顔を少しでも記憶しようと強く画面を見つめる。
『訳あって、我々は今、宇宙警察の協力を得て腐敗した帝国に対して蜂起を行った。愚かなる帝国は、血統と秩序の名の下に、生命と自由を抑圧し続けてきた。彼らは我々を『臣民』と呼び、皇帝陛下の『子』と呼ぶ。だが、彼らは我々の意見に耳を傾けることなく、自らの利権と保身のために、この星を、この宇宙を汚してきた。軍と結びついた政治は、経済不況に対して他の惑星に重税を課して対応するという愚かな行為に走った。我々はそれを許さない。人類史における第六の夜明け、金星をはじめ、地球、水星、火星の連合的革命団体。第六インターナショナルの設立を、ここに高らかに告げる!」
一瞬の静寂の後、ざわめきが広がる。ドクトリンはゆっくりと手を広げ、聴衆を、そしてタブレットの向こうにいる全ての存在を包み込むかのように語り続けた。
『旧き世界の秩序は、今日を持って終焉を迎えた。その秩序主義と軍事国家主義は瓦解寸前なのだ! そのことは現在の太陽系惑星の状態を見ればわかるだろう』
その声は、ナナを引き込んでいく。いや、ナナだけではない。リノも、スガリも、ジガルシアも、この艦にいる全員も、いや、この宇宙にいる全員がこの演説を聞いて、その力強い声、表情、そして言葉に、抗い難いほどに魅せられていった。
『さあ、同志たちよ! そして、我々の言葉を聞く、すべての人類よ! 現在の不平等を打破し、我々と共に自由で満たされた未来へと歩もう! 我らと共に、真の平和への道へ進むのだ! 我々は、世界を変革する。この宇宙に、第六インターナショナルの旗を打ち立てるのだ! 栄光ある未来は、君たちの心の中にこそある!』
ドクトリンの演説が終わると、通信は途絶えた。その衝撃的な内容は、聞く者に考える間を与えることなく、革命の熱狂を瞬く間に広げていった。金星をはじめとする第六インターナショナルを支持する地域は、この演説を新たな時代の到来を告げる福音として受け止め、熱狂に包まれた。そして、未だ態度を決めかねている人々や地域に対しても、その強いメッセージは深く、そしてこびりつくように刻み込まれていった。
ドクトリンの演説が終わった後、ナナはタブレットを握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。彼女の胸中には、激しい葛藤が渦巻いていた。
これまでの彼女の認識は、甘かったのかもしれない。宇宙警察による蜂起は、帝国に平等を求め、交渉するための、いわば是正のための行動だと考えていた。しかし、ドクトリンの演説は、その認識を根底から覆した。これは、単なる是正ではない。旧き秩序を破壊し、全く新しい時代を創造しようとする、革命の潮流だった。
「……彼らは、ただの反乱軍ではない。彼らは、新しい時代を創造しようとしている」
ナナは、リノに聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いた。彼女の心臓は、激しく脈打っていた。それは恐怖ではなく、新たな戦いの予感に胸を震わせる鼓動だった。帝国を浄化するのではなく、帝国ではない新たな秩序を求め、それを創造し始めている。それは恐ろしく死者の多いシナリオだろう。それを肯定するほどに金星本土や他の惑星での差別行為は苛烈になっていたのか。ナナは五歳の頃から木星で生活をしていたせいで現地の詳しい状況は知らなかった。そのことが自分の知らないことが、とても怖く感じる。
ナナは、自らが戦うべき相手が、単なる反乱軍ではなくなったことを悟った。これから始まるのは、思想と思想がぶつかり合う、終わりの見えない戦いだ。二十二年前の戦い、そして恒星自治主義の台頭。全ての時代は過去の出来事によって紡がれ、人の行動は自然のままに過去により決定され、それらが次の未来を創る。帝国が生まれたことも、差別主義が生まれたことも。この戦争が起こったことも。
しかし、ナナは考えるのを止めなかった。歴史の必然に身を委ねることは、彼女の理想に反する。帝国は弱い、ならばナナ自身がやるしかないという使命感が、彼女の心を奮い立たせた。たとえ、この先がどんなに険しい道であろうとも、彼女は自らの理想を貫き通すことを決意した。
「ジガルシア、すぐに映像にわずかにでも映った人物の詳細を調査させなさい」
通信で指示を出すと、ジガルシアからすぐに返事が届いた。数名のおそらくは反乱軍の幹部クラスの人物がドクトリンと同じ場所にいた。平等主義であろうともさすがに階級というものを否定はできず、その人物たちがおそらくは反乱軍の主力である。ならば、敵がどのような人物であるかを知っておくのかはこれから先の戦いで重要になる。その声を聞いた開いたドアの先にいるリリィが笑った。
「そんなことをしなくても、私が知っている限りのことを教えてやるよ」
挑発的なその眼差しを、ナナは冷静に受け止めた。リリィの言葉を鵜呑みにするつもりはないが、わずかな情報でもあれば、この混迷した状況を読み解く助けになる。ナナは、その言葉に乗ることに決めた。リリィの立場では知っている情報もそこまで多くはないだろうが、それは仕方がない。
「そう、じゃあ頼むわ。本当ならもちろん、待遇を良くしてあげる」
リリィはそう言うと、口角を上げて一人の名前を呟いた。リノは嫌な予感がしていたのにリリィを黙らせなかったことを後悔した。
「シデン=ロードロウ」
その名前に、ナナはもちろん思い当たる人がいる。顔が、声が、体温がすぐに記憶の中から蘇る。その名が、この革命の最前線で、しかも敵であるリリィの口から語られた事実に、ナナの頭は混乱し、心は激しく動揺した。まっすぐに立っていることすら辛くなるほどの衝撃だった。まだ頭が理解を拒んでいる。すぐにリリィが動いた。
「がふっっ」
リノは、迷いなく振り上げた軍靴のつま先で、リリィの頬を思い切り捉えた。長い足が、まるで鞭のようにしなやかに、しかし信じられないほどの勢いでリリィの顔にぶつかる。鈍い、骨が砕けるような音とともに、リリィの口から大量の血が流れ出した。舌を切ったのか、それとも顎を砕かれたのか、もう話を続けることはなかった。
「シデン先生は、エウロパで亡くなったんじゃ」
ナナの震える声に、独房の中は重い沈黙に包まれた。彼女は、尊敬する師が死んだと信じていた。それどころか、その死に自らの責任を感じ、心の奥底で苦しんでいた。しかし、リリィの口から出たその名が、その信念を根底から揺るがした。
リノは、砕かれた顎から血を流すリリィを一瞥する。保安部隊に連絡し、リリィに猿轡を点けさせる連絡をいれる。他の捕虜にも監視の目と耳を届かせなければならない。今はこの艦が纏まって動かなければならないときに、変な事を吹き込まれるのは困る。その指示を終えると、すぐにナナの隣に駆け寄った。
「それは、軍が公式に発表した情報です。しかし、戦場で何が起こったのか、我々には知る由もありません。ですが、彼女の言うことをまっすぐに信じることはできません。あなたを混乱させたいだけかもしれない。だから、落ち着いてください」
やはり、まだまだナナは甘い。このままではリノの帝国構想にずれが生じる。
「リノ中尉。リリィ=アマサワを拘束しました」
保安部隊に所属するペルトローネが、リリィの身体の自由を完璧に奪った状態で声をかけてくる。彼女の口には猿轡がはめられ、両手足は拘束帯で固く縛られていた。砕けた顎から流れる血は、すでに固まり始めていた。
ナナは平和の象徴とならなければならない。そのためには、彼女の心を揺るがすあらゆる要素を排除する必要がある。リノは、ナナの盾となり、彼女が理想を追求できる環境を整えることを自らの使命としていた。
ペルトローネが敬礼を終え、リリィを連れて去っていく。重い独房のドアが、再び静かに閉まる。ナナは、その閉ざされたドアを見つめたまま、微かに震える手でリノの服の裾を掴んだ。
「リノ……私は……本当に、シデン先生が……」
言葉に詰まるナナに、リノは静かに、しかし力強く語りかけた。
「彼のこともジガルシアの調査でいずれわかります。ですが、仮に生きているのならそれを素直に喜びましょう。反乱軍に見方をしていても、あなたの士官学校時代の恩師であったことは紛れもない過去の事実です。エウロパで亡くなっていたほうが良かったとは、私の知る平和を愛するナナ=ルルフェンズは考えないはずです。きっと、あなたの思い通りに平和をこの太陽系にもたらすことができれば、再び会えるはずですよ」
やはり、リノはよく舌が回った。リノはこんなことしかない自分が嫌だった。