第1章 4話 月の裏
そこから先の航路、ナナはもちろんレグルスに存在するすべての乗員が警戒態勢を敷いていた。帝国軍の防衛圏として満足に機能しているのは木星衛生までで、火星以降の状況は現在も不透明である。第一宇宙艦隊、あるいは第二宇宙艦隊が現存すればそれでも無理やりに通すことができるであろう。それほどまでに絶対的な戦力を誇っていた二つの艦隊は現在はこの宇宙空域に存在しない。レグルスも帝国の準主力艦とはいえ、不安は残る。しかし、それよりも木星防衛圏での偵察機との会戦以降、全く警察機を見かけない。何度かスガリに頼んで索敵を戦闘機でより広い範囲を見てもらっているが反応がないらしい。
軍内部の情報はなんとかなる。ナナには養父の力で何とかなる部分もあるが反乱軍の情報は戦いの中で集めるしかない。
「どう? なにか見つかった? もう月が見えてきているのに」
実際に肉眼で見えているわけではないが、広範囲レーダーには既に月の存在が確認できる。月面では今も戦闘が行われているはずではあるが、その音も当然ながら聞こえてこない。敵の艦隊がどこかに潜んでいる、あるいはステルス機がいるというのが考えられる。スガリはコックピットの中で、計器に表示される周辺宙域の索敵結果を何度も確認する。しかし、見える景色は先ほどから一向に変わらない。
「……おかしいですね」
スガリとはレグルスから向かって別方向を探索しているライカの声が聞こえる。その声の落ち着き具合からして敵襲とか緊急を要するものではないということはわかる。きっと、退屈だから話しかけてきたのだろう。宇宙なんてもう何度も見て、基本的には変わりがない。デブリが漂うくらいの違いしかないそれは、初めて宇宙に登ったときには感動できた景色なんだろうけど、日常になれば大したものではない。
「何かあったのか?」
スガリは無意識に、操縦桿を握る手に力を込める。
「恒星間監視用偵察機との会敵が、一度きりってのが、どうにも引っかかるんです。宇宙警察の連中が、こんなに手薄なわけがない。木星防衛圏をうちの艦が無傷で突破できたのですらも、奇跡に近いって話だったのに。警察側の本隊はどこにいるんですかね」
恒星間監視用偵察機、木星圏で会敵したあの機体達は母艦を持たなかった。おそらくは火星から直接、出港したものだろう。確かに、イオでの激戦を考えれば、月へ向かうこの宙域がこれほどまでに静まり返っているのは不自然だ。宇宙警察軍の偵察機は、通常であればもっと頻繁に接触してくるはずだった。
「難しいな……」
考えられる可能性が多すぎる。もちろん、反乱側に余裕がないというのもあるが、スガリを含めたナナ達が最も警戒しているのは艦内に裏切者がいる場合だ。もしもレグルスの位置を反乱軍が完璧に把握をしているのであれば偵察機なんて飛ばすだけ無駄だ。あくまで偵察用であるために戦艦を相手にまともな戦闘にすらならない。なら、位置を把握している戦艦、その航路を予想して行動範囲を避けるのは当然の行為だった。
コックピットの中は一人だ。ゆっくりと色々な事を考えられる。だけど、ライカはこちらと話がしたいらしい。
「やっぱり、そういうことなんですかね」
ライカは頭の良い女性だ。士官学校の出身ではないが、戦場で特にこちらの助けになるように動けるというのが高い能力の証左だった。きっと、戦争も差別ない平和な世の中であれば高等教育をしっかりと受けてふさわしい人と結ばれて楽しく仕事をしていられただろう。スガリは自分自身には興味があまりないが、それは悲しい事だと思う。人にはそれぞれに相応しい場所があって、少なくともライカに戦場は似合わないと思う。
「まあ、上層部に裏切者が残っているのがこうなっては現実的な理想だよ」
軍の上層部、その中に裏切者がいるというのは考えられることであった。ナナともその可能性については既に話をしているが、彼女の考え方は単純で、自分ならそうするから。つまりは軍の上層部で情報を握れる地位に反乱軍側の人間を残されることが最も怖いから。そのクラスの人間なら、レグルスの動きもわかるだろう。相手の動きが把握できているというのは本来、まともな戦争にすらならない。そんな人物が立てた作戦に乗っているのかもしれない。
ただ、それよりも艦内に裏切者がいるほうがナナ達としては嫌だ。
レグルスがまとまって和平に向かわなければならないから。
「月面基地からの応答も、いまだにない。ソフィア幕僚長からの通信も途絶えたままだ。これは」
ナナは、腕を組み、深く考え込んでいた。彼女の青い瞳が、モニターの光を反射して鋭く光る。二つの考えを並走させる必要があるナナは、常に考え続けなければならない。スガリは、全身に嫌な汗が滲むのを感じた。この静寂は、嵐の前の静けさなのか。それとも、既に嵐が過ぎ去った後の、不気味な残り香なのか。
「各員、警戒を怠るな! 月の防衛圏に到達次第、全艦戦闘態勢へ移行する!」
ナナの命令が、艦内に響き渡る。レグルスは、月面のクレーターの影を縫うように進み、やがて木星からは見えない月の裏側へとその巨体を滑り込ませた。
その頃、ナナ達のレーダー索敵範囲から遠く離れた、反乱軍の月面基地。月の宇宙港を制圧した反乱軍の部隊のほとんどは既に別の地域へ向けて出発している。現在も残存する帝国軍、ソフィア=グリューネヴァルトの部隊が抵抗を続けているが、降伏も時間の問題だろう。ならば、ほとんど資源も残されていないこの地域に大きく戦力を割くのは得策ではない。そもそも、反乱軍にはあまり時間的余裕がないのだ。帝国の第一宇宙艦隊が木星本土に戻ってくるまでに、戦争開始当初の目的である木星本土を攻撃して民意により帝国から和平を提案させる。
もちろん、第一宇宙艦隊以外の帝国軍の戦力を相手に木星本土まで攻撃をかけることができればの話だ。
無数のモニターが並ぶ薄暗い司令室の中央で、反乱軍月面都市サルトリアの防衛を任されたリリィ=アマサワは、静かに椅子に座っていた。彼女の指先が、ホログラムで映し出された戦況図の上を滑る。そこに表示されているのは、月へと向かう帝国艦隊の動きと、月面での宇宙警察軍の防衛ライン、そしてレグルスが映っている。
「……ナナ=ルルフェンズを大将とする艦が、木星防衛圏を突破し、月へと向かっている、と」
リリィの声は、冷たく、しかし確かな響きを持っていた。周りにいる人間は戦闘が近づくにつれて冷静になっていく彼女の姿を見て、肝を冷やす。普段のリリィをしっていればこそで、優しくて明るい女性であるはずの彼女はまるで人が変わったかのように冷たい目でモニターを見つめる。彼女の隣に立つ副官が、緊張した面持ちで報告を続ける。
「はい、リリィ少尉。帝国内部からの情報です。ルルフェンズということはルルフェンズ閣下の娘でしょうか」
副官の言葉に、リリィは薄く笑みを浮かべた。それは、嘲笑でもなく、驚きでもない。まるで、全てを予見していたかのような、深淵な笑みだった。リリィはナナの事を名前は知っていた。もちろん、会ったことは無い。帝国軍にいた際には配属された部隊も違うし、士官学校時代も在籍が被ることはなかった。
しかし、ある人が彼女のことばかりを話すものだから名前を覚えてしまった。
「ルルフェンズ……ナナ=ルルフェンズか。しかし、金星の出身だというのを聞いたことがある」
リリィは、指先でホログラムのナナの艦隊をなぞる。果たして、自分はこの少女を相手にして月を守りきることはできるだろうかと考えてみた。それはきっと、最終的には運命に委ねられたものになる。戦力ではこちらのほうが上であるが、そうであるならば防衛側の方が有利だ。念のために増援を要請するべきかを考える。
いや、大丈夫だろう。手堅く、防衛に徹すればいい。戦艦をここで無理に沈める必要もないだろう。
そもそもその若さではまともな戦闘すらも今回が初めてだろう。戦場というのはいつになっても慣れないが、やはり経験値が有ると無いでは全く違う。リリィはかつて、冥王星での戦闘に参加した過去がある。その際にはまだ下士官として前線で言われたとおりに動くだけの仕事だった。だが、上官の動きをしっかりと見られたことは凄く勉強になる。その時と比べるとやはりナナ=ルルフェンズは甘いと言わざるを得ない。
仮にこちら側が偵察機を大量に保有しているとは言え、基本となるのはレーダーによる位置の把握。しかし、それに対してあまりにも無防備で、旗艦の位置が既にこちらの知るところにある。本来ならジャミングを放つところだが、それも放棄している。だから、こちら側としては無駄な偵察機を飛ばさなくて済む。
「では、こちらの動きが伝わっていた可能性があるのでは?」
宇宙警察の蜂起、それはもちろん第一宇宙艦隊がこの太陽系から遠く離れていることが前提であった。しかし、それでも警察と軍では戦力が違う。警察も戦力は持っているものの、戦いなんて宇宙に進出して海賊行為や麻薬の売買を行う反社会勢力ぐらいしか相手にしていない。それに若い頃から優秀な人間はほとんどが士官学校を卒業してから軍の上層部へ登るために帝国軍に入る。同じ戦力でも、正規の帝国軍に、反乱軍が正面からぶつかって勝てるわけがない。
だから、反乱軍は周到な準備を重ねた。特に金星を中心としたいわゆる被差別層の軍人に対してできるだけ綿密な調査を行い、蜂起の計画を知らせた。リリィ自身もその誘いに乗ってエウロパに攻撃が開始されたタイミングでそこから逃れた側である。これまで苦労を共にした同士たちを殺害する手助けをすることは心が痛んだが、軍人であるならば常に戦場で散る可能性に怯えているべきだからと自分を納得させた。ナナ=ルルフェンズはその提示された選択により得た情報を利用してイオの要塞を効率的に防衛して成りあがったのか。ならば相当な傑物だ。
「どうだろうか、彼女がそこまで帝国に忠誠心を持っているとは思えないが、ルルフェンズ閣下の関係者であれば別だ。しかし、金星の出身でありながらルルフェンズを名乗っているのが不可解だ」
「リリィ少尉は、蜂起計画を知らされた際には迷いはありませんでしたか?」
突然、普段は無駄な言葉をしゃべらないことが美徳だと感じさせるほどに無口な彼が質問をしてきた。
「私は、そうだな。一晩ほど悩んでから決断をしたよ」
この戦争は金星人を含む被差別層に真の自由をもたらすための、正しいものだとリリィは思う。
ただ、そう思わない金星人がいるのも当然だし、それを批判はしない。ナナはどちら側だろうか。帝国軍の制服を着ていながら、金星出身という異質な存在。そんな存在がこれから向かう敵艦には集まっている。差別を受けながらもなお、帝国に属して戦うとはどんな理由があるのだろう。
リリィの視線は再びホログラムのナナの艦隊へと戻る。ナナという若い軍人は何を抱えているのだろう。どのようにして金星出身でありながらルルフェンズの家に入った。どのようにして士官学校に入った。どのように成長して、今はこうして敵としてこちらへと向かってきている。謎が尽きない。
「彼女は、帝国の中でも異質な存在だ。血統主義と出生主義が蔓延るあの組織の中で、ルルフェンズ閣下の関係者であることを踏まえても金星出身でありながら、その実力で将官の地位にまで上り詰めた。並大抵の才覚ではないだろう。士官学校時代の成績はトップクラスであるはずだ」
リリィの口調には、ある種の敬意が滲んでいた。それは、敵将に対する純粋な評価であり、同時に警戒の念でもあった。将という立場を預かるには、そもそも軍に入る時点で一定の能力の証明が求められる。具体的に定められているものであれば、士官学校を首席から五番以内の成績で卒業することだ。エリート思想が生み出した構造であるとはいえ、これで少しは血統だけでなく実力により軍を引き締める効果を持っている。
かつて士官学校にいた身としてはその凄さが思い知らされる。全ての方向に抜群の能力を示す必要があるうえにリリィと同世代の首席はまともな人間とは思えないほどに壊れていた。軍に入ればみんなあんな人間だろうかと怯えていたほどだ。ナナもまた、そうした壊れた天才の一人なのかもしれない。だからこそ、リリィは彼女を危険視する。彼女のような異端の天才が、一体何をもたらすのか、予測できないからだ。
「私だって同じ金星人同士での殺し合いなどしたくはない。しかし、その才覚が、我々の解放の邪魔になるのなら、排除するまでだ。この月面で、その真価を見せてもらおう。撃墜部隊、出撃準備。目標、宙域月面十二度地点に存在するナナ=ルルフェンズの艦隊だ。万全の態勢を持って臨め」
こちらも決して万全な態勢ではない。流れてきた情報よりもレグルスの装甲がぶ厚いようにレーダーから感知したモニターには映っている。更に、帝国軍に裏切者がいるように、警察側も金星を始めとして一部の人間による蜂起でしかなく、正式な統治を行えているわけではない。全太陽系に対して帝国からの解放を目的とした自治組織の設立と、帝国への宣戦布告が行われればいずれ国のようになっていくだろう。しかし、不安は尽きない。
ただ、その準備も着々と進められているために一部の戦力が金星に集まっている。リリィがこの月面防衛を任されているのも一時的なもので、上官はその宣言に対して同席しなければいけないためここを預かった。
「シデン先生、私は必ず、月面の基地を守って見せますよ」
リリィの命令が下されると、司令室は一気に活気づいた。彼女の言葉は、反乱軍の兵士たちにとって、絶対的な指針となる。月面の仮設基地から数機の戦闘機と二隻の航空戦艦、重巡、軽巡を合わせて二十隻の巡洋艦が発艦した。警察艦隊は月の影から静かに飛び出し、ナナのレグルス艦隊へと向かっていった。