第2章 13話 崩れる火星
ウォルフライエ、すなわち反乱軍が誇るエース機。その名は、今や第六艦隊を火星軌道で打ち破った英雄の名として刻まれている
スガリの脳裏に浮かび上がるは、第六艦隊の壊滅的な敗北の記録。その戦いの中心で、圧倒的な存在感を示したのが、目の前に佇む黒きアンドロマキア、ウォルフライエであった。ウォルフライエは、その全ての性能が極めて高い水準で均衡しており、彼が駆る技術試験機トランジスタと瓜二つだった。僅かに機動性において優位を占める程度であろうか。それ故に、スガリには痛いほど理解できた。この漆黒の機体を操るパイロットは、自身を遥かに凌駕する存在であると。なぜなら、第六艦隊の熟練したパイロットですら、彼には敵わなかったのだから。
「いかにも、その通り」
オースティンの声が、スガリの通信機に静謐な冷たさをもって響いた。その声には一切の感情が宿らず、ただ獲物の価値を吟味する、研ぎ澄まされた刃のような響きがあった。捕食者と獲物。しかし、スガリには逃げることは許されない。この場で敵を打ち倒すか、さもなくば死か。二つに一つしか道はなかった。
「地上防衛システムの沈黙は、貴殿の仕業であろうか。作戦の全容は承知していないが、その手腕は見事としか言いようがない。しかし、この戦いもはや終幕を迎える。近衛兵団の到着を待つことなく、貴殿を始末せよとの命令が下された。いざ、参る」
オースティンは逡巡することなく、即座に攻撃を再開した。ウォルフライエは、スガリの予測を遥かに上回る超絶的な速度で、砂塵の中を縦横無尽に駆け巡る。頭の中にはある程度の情報があったが、それでもこの速度は予想外であった。スガリ自身、もはや目でウォルフライエの動きを完全に追い切れていない。
どうやら、敵はスガリの弱点をかなり深く理解しているらしい。オースティンは一定の距離を保つことなく、詰めたり離れたりを繰り返しながら、遠距離からの攻撃を巧みに繰り返した。発射地点が異なれば、かなりの速度を誇るレーザー砲であっても若干のタイムラグが生じる。その僅かな時間を、スガリがコックピット内で衝撃に備える時間に充てざるを得ず、その間にオースティンは次の攻撃地点へと移動を済ませ、再び猛攻を仕掛けてくる。
トランジスタのセンサーは、その残像を完全に捉えることができず、オースティンの機体は幻影と化してスガリの周囲を翻弄した。ソーントンとの戦闘で多少の損耗を被ったトランジスタに対し、相手は万全の状態である。スガリは、この灼熱の赤き火星こそが自らの死地となることを、静かに覚悟した。それは、軍人である以上、避けられない運命であった。
だが、安易な死は許されない。
「行くぞ、トランジスタ」
オースティンの駆るアンドロマキアは、両肩に装備された高出力ビーム砲を間断なく連射した。鈍重なトランジスタには、この猛攻を回避することは不可能だ。スガリは苦渋の決断を下し、ロケットランチャーの弾頭をまるで迎撃ミサイルのように連続して撃ち放つ。無数のランチャー弾頭は、放たれるビームと次々と激突し、眩い閃光と轟音を伴う爆発を巻き起こした。
舞い上がる砂塵は視界を奪い、戦場は混迷の極みに達した。機動力で劣るトランジスタにとって、この状況は圧倒的に不利である。だが、最早戦場の状況を自由に選べるような余裕はなかった。僅かにでも相手の焦燥を誘い、想定を狂わせなければ、スガリの行く末は死である。しかし、それによって時間を稼ぐことができれば、それで本懐を遂げたことになるだろう。
だが、圧倒的な性能差と実戦経験の差は、如何ともし難い。オースティンの放つビームは、ダメージは少ないながらも確実にトランジスタの装甲を焼き、溶断していく。スガリは必死の形相で機体を操縦し、一撃ごとに増していく衝撃の波に耐えた。彼の機体は、その本来の設計用途を遥かに超えた激戦の果てに、限界を迎えようとしていた。右腕の関節部からは黒煙が立ち昇り、左脚の装甲は無残に大きく抉られている。
「最早、終わりですね」
オースティンは、幻影のごとくトランジスタの背後に回り込み、腰部に携えた近接用ビームダガーを静かに抜いた。その切先が狙うは、コックピット。一撃にして決着をつけるつもりであった。スガリは、絶望的な窮地に追い込まれる。
だが、その一瞬の隙、オースティンの油断が命を救った。スガリは機体の損傷した左脚を無理矢理に接地させ、その反動を利用して機体を僅かに跳躍させた。次の瞬間、彼は右腕のロケットランチャーを自らの機体に向かって発射した。爆風がトランジスタとウォルフライエの間に生じ、オースティンの機体がわずかに後退する。
「ほう……自爆攻撃か」
オースティンは冷ややかに呟く。しかし、スガリの意図は自爆ではなかった。彼は瓦礫の影に身を潜めながら、トランジスタの残存機能を全て分析し、最後の抵抗を試みた。
「そんなことするかよ」
スガリは、残された僅かな武装と推進力に全てを賭けた。彼はトランジスタの推進システムを一時的に過負荷状態にし、制御を失ったかのように機体を不安定にさせた。オースティンはその挙動を不審に思い、追撃を僅かに躊躇する。その一瞬の躊躇こそが、スガリが求めていたものだった。
スガリはトランジスタの右腕を切り離し、中に残っていた最後のロケット弾頭を推進剤にして、まるで巨大なロケットのように弾き飛ばした。弾頭は不規則な軌道を描き、ウォルフライエのセンサーを欺きながら、高速で接近していく。その軌道はスガリにも予想できない。
「何?」
オースティンは驚愕し、ビームダガーを構えたまま咄嗟に回避行動をとる。しかし、それはスガリの狙い通りだった。彼はその隙を突き、瓦礫の陰から飛び出し、ウォルフライエの懐に飛び込んだ。そのままビームダガーを握るウォルフライエの腕を捕らえ、圧力をかける。この状態になれば、トランジスタの方が力は強い。ウォルフライエの腕を軋ませ、圧し折らんとした。
「くそっ!」
両者はもはや武装を持たない格闘戦へと突入する。近距離で居続ける限り、ウォルフライエのレーザー砲は放たれることはない。トランジスタの残された左腕で、ウォルフライエの胴体にしがみつき、オースティンの動きを封じようとした。だが、オースティンは一瞬にして状況を理解する。
「いい考えだ、だがもう一手が足りない」
オースティンが、ウォルフライエの左腕に装備されたビームサーベルを起動させる。スガリはさすがにもう一つの武器が隠れていることは想像していなかった。だから、仕方ないと自分のことを鼻で笑う。
「良い勝負だった」
オースティンが、まるで心から感動したかのように笑う。彼はビームサーベルを振り上げ、スガリの機体を両断しようとした。その時、スガリは最後の賭けに出た。彼はトランジスタの頭部にあるカメラアイの光量を最大にし、至近距離からオースティンのコックピットに向けて放った。強烈な光が、オースティンの視界を焼き、一瞬、完全にホワイトアウトさせる。
「ぐっ……!」
その一瞬の隙に、スガリはトランジスタの右脚を、ビームサーベルが振り下ろされる軌道上に差し込んだ。サーベルは轟音を立ててトランジスタの脚を焼き切ったが、その衝撃でウォルフライエの姿勢が僅かに崩れた。スガリは機体の残骸を盾にし、オースティンから距離をとる。
彼は満身創痍の機体を操り、瓦礫の中へ逃げ込んだ。もはや戦闘は不可能だ。残された任務は、生き延びること、ただそれだけだった。
「……見事なものだ。そこまでして生き延びようとするか」
オースティンはすぐにウォルフライエを動かす。ぼろぼろのトランジスタに追いつくことは難しくないが、相手のことだから何を考えているのかは想像しきれない。だからこそ、ウォルフライエで飛んだトランジスタに乗り、地面に押し付けた。
「くそっ」
スガリはせめて、地下にいる反乱軍の火星防衛軍の指令室に被害を与えようと、少しでもそれに近い場所へ飛び込むつもりだった。しかし、それも失敗した。爆発はしないようにエンジン部分を除き、なおかつもう動けないようにトランジスタの足が削られていく。
「いい勝負でした。命までは取りませんよ」
オースティンの美学に則った判断だった。最後にモニターなどが内蔵されたトランジスタの頭部にビームダガーを突き立てる。その瞬間、オースティンのビームダガーがトランジスタに突き刺さる直前、彼の機体のセンサーが、新たな熱源を捕捉した。それは、火星の空から流星のごとく降下してくる、近衛兵団が登場する強襲揚陸艦ノーチラスであった。
「ちっ、間に合わなかったか!」
オースティンは不満を露わにしながら、スガリへの追撃を中断し、近衛兵団への迎撃へと切り替えた。スガリはトランジスタの損傷を確認しながら、瓦礫の中に身を隠す。彼の任務はまだ終わっていない。近衛兵団の破壊の手から機密兵器を守り抜くという、最も困難な任務がこれから始まるのだ。だが、もう動けなかった。あまりにもトランジスタが受けた衝撃が多く、何度も頭部がコックピット内でぶつかり血がだらだらと流れている。意識も薄れてきていた。すごく、穏やかな気持ちだった。
オースティンは踵を返し、近衛兵団の乗るノーチラスへと向かっていく。その動きは滑らかで、砂埃の中を舞うように加速した。
「司令官、オースティンです。敵のアンドロマキアを無力化しました。近衛兵団が降下を開始しましたので、迎撃に移ります」
ラズロの通信に、オースティンは静かに報告した。
「よくやった、オースティン! 奴の命は……」
「取っておりません」
オースティンの言葉に、ラズロは一瞬、絶句した。
「なぜだ!?」
「彼は私の攻撃を回避するために、機体の武装と装甲を捨てた。そして格闘戦を挑んできました。その判断力と覚悟は、戦士として称賛に値するものです。命まで奪うことは私の美学に反する」
オースティンにとって、戦闘は単なる殺戮ではない。それは己の技量と美学を証明するための儀式であった。スガリの決死の覚悟は、彼の戦士としての心を動かしたのだ。
その頃、火星軌道上でフォボスの特務艦からノーチラスを護衛していたナナは、通信のやり取りを傍受していた。彼女が絶対的な信頼を置くスガリが、オースティンというエースと交戦し、重傷を負ったことを知った。
「スガリ……!」
ヨワルテポストリは満身創痍だった。多重シールドは完全に崩壊し、機体の各所から火花を散らし、シリンダーからは蒸気が噴き出している。フォボスからの集中砲火を一手に引き受けたその姿は、もはや鉄屑同然だった。
ジガルシアからの撤退命令も無視し、ナナはヨワルテポストリを火星へと向けた。
「ナナ准将! 何を無茶な! 機体は持たない!」
「大丈夫よ、ジガルシア。この機体は、まだ飛べる」
コックピットで制御を握るナナの表情は、決意に満ちていた。彼女は平和のために戦場に立った。今もそれを信じている。しかし、自分の感情が分からなくなっていた。これまでは、敵も、味方も誰も死なないように、可能な限り被害を減らすことを考えてきた。どうしようもなく戦争は被害者や死者が生まれるものだけれども、自分が考え続け行動すれば、なんとか被害を減らせると思っていたのだ。
だが、スガリが殺されかけたことを理解した瞬間、自身の身体が制御できなくなっていた。ふつふつと、内側から熱い何かが込み上げてくる。
ヨワルテポストリの残骸が、流星のように火星の空へと突入していく。その軌道は、スガリが待つ、制御塔の瓦礫の真上へと向かっていた。
「戻ってください! ウォルフライエには勝てません」
ジガルシアの判断は正しいだろう。そもそも、あのウォルフライエは、近衛兵団の乗るアンドロマキアを数機ぶつければなんとかなる。それが正しい判断のはずだ。既にノーチラスが突入に向けて動き始めている。少しでも平和な解決のために残された時間は多くない。
「ただ、私だってそんなに強くはない」
ナナはそう呟いた。ジガルシアの耳には、これまで聞いたことのない声が響いていた。ここ数ヶ月ほど、ナナ=ルルフェンズは平和のために戦いを続けていた。傑物、その言葉が最も似あう人物だった。
だが、本来はまだ二十二歳の大人にもなりきれていない少女ではある。
間違ったことであろうとも、それを理屈だけで否定できるわけじゃない。感情に任せて、怒りに任せて敵を打ち倒す。そう考える。
「うるさい、あいつを倒さなきゃ気が済まないのよ」
そして、その声に導かれるかのように、決意を新たにした。
「スガリを助ける。そして、この戦いを終わらせる」
火星の大地に、新たな激闘の幕が静かに開かれようとしていた。




