第1章 1話 星を越えて
まさに星が落ちる、そんな戦闘から既に半月ほどの時間が経過していた。オルディアス帝国の本土である木星、その前線防衛の最重要基地である木星の第一衛星であり四大ガリレオ衛星の中では最も本土に近いイオに備える大要塞。ここが落ちるようなことがあれば、地獄の陸上戦が木星の中心市街地で行われることになるはずであった。しかし、現在はかつての荘厳な、まさに帝国の軍事力の象徴とも言えるほどの強大さは失われたものの、防衛能力はいまだに有した基地であり、創設されて以降の七十六年の間に要塞が陥落したことも、木星本土における陸上戦が行われたことは無かった。
そして、その防衛の最大の功労者こそが、帝国軍准将に本日付で任じられたナナ=ルルフェンズその人であった。
「これがアステリオス勲章か……。いったい何の役に立つのかしら。こんなもののために命を落とすことになると考えれば、安っぽいものよね」
純金で作られたそれを、ナナは冷たい視線を向けながら適当に放り投げた。ひらひらと、ぷかぷかと、周りについた赤と青、白いリボンが揺蕩う。もちろん、そんなことを地表で行えばどうなるかわからないが、勲章はただひたすらに無音で宙に浮いている。ゆっくりと回転しながら、艦内の指令室を漂っていた。どこか冷たい煌きが、その空間に浮かび上がる。赤色、青色、緑色。様々な電子の光源が散りばめられた指令室で、その色を次々と変化させていく。
しかし、艦隊指令室の誰一人として、それを拾おうとはしなかった。緊張がそうさせるのをとどめていたのだ。張り詰めた空気、ナナだけが退屈そうに右や左を見ているけれども、窓の外には無機質な宇宙港の光景が広がっているだけで面白みも無かった。そして、発艦準備の中でナナが具体的にできることはない。
ただ、この椅子に座っていることが今のナナに課せられた役目だから。
結局、その勲章はひとしきり漂い、近くの壁に軽くぶつかり、またナナの手元に戻ってくる。その動きがどこか無機的で、無情に思えた。手に取ったナナは、それを力なく胸元に固定した。より一層の輝きを増すことなんて無かった。勲章が何の意味を持っているのか分からない。それでも、少しでも自分の意見が通るのなら、それでいい。ただでさえ軍の中で所属している艦隊司令部の中で軽んじられているのだから。それが実力や経験の無さであるのならばそれは受け入れる。しかし、どうにもならない、今更では変えようもないことが最も大きな理由であり、それがナナの痛みであった。軍における作戦遂行能力や作戦立案の能力に出自とか血統そういうものが大事とは思わないのだが、軍の上層部や官僚はそうではないのだろう。
「お前の気持ちはわかるが、これで少しでも軍の中枢に意見できる機会を貰えたんだ。それなら悪くなかったんじゃないか?」
准将という階級は、帝国に置いては名誉階級であると言われる。権力と結びついて肥大化する軍では階級という名誉だけを与えるが権限は与えないという方法で軍の内部で調整を行っていた。帝国のプロパガンダや洗脳教育の賜物であろうか。昇進して良い階級を得るために、戦場で敵の兵士を殺害し、より効率よく命を奪う作戦を考える。そんなことが正しいとはナナも思わない。だが、この昇進でナナの言葉に将としての意見という重みが加えられた。
「あんなに命をかけた泥沼の戦闘を七十時間近くも続けて?」
ナナが反論すると、彼は少し黙ってから話を逸らした。もちろん、彼の言うことが正しいことはナナも理解している。しかし、まだ足りない。具体的に言えば、軍上層部から繋がる政権中枢へのパイプとナナ自身が任される戦力の二つ。それを手に入れるためにも、本日付で与えられた任務をしっかりと果たさなければならない。既に勲章の授与を終えて木星の軍用宇宙港であるカルイバルキンにて離陸準備を整えている。
「とにかく、命令には従わざるを得ないだろ。文句を言っていないで準備しろよ」
「うるさいわね。こっちはとっくに準備できてるの」
「そんな姿勢を見せるな。常に一部隊を率いた隊長としての自覚を持てと言われていただろ。今ここの部屋にいる奴らは全員、お前に命を預けてるんだぞ」
副艦長であるスガリ=アナスタシアが呆れながらそう言ったが、ナナはそれに返す言葉も持たず、ただ舌を突き出すのみであった。このような関係がもう十年近くも続いているが、二人はつかず離れずの天体のような関係を続けている。もう士官学校に入学してから十二年もの時間が経ってしまった。
木星歴463年。太陽系の支配を完成させたオルディアス帝国はその軍事力と経済力をもって次なるターゲットを太陽系の外に定め、拡張戦略を始動させる。第一次作戦の目的は散乱円盤天体に存在するエリス、セドナに前線基地を築くことであった。帝国軍の基地であるエウロパに集結した帝国宇宙艦隊の主力である第一艦隊と、膨大な数の開拓民たちは、帝国の新たなフロンティア開拓を担う人々として送り出されていった。しかし、表向きは順調に見えるこの拡張計画の裏で、帝国内部の亀裂が次第に深まりつつあった。
木星本土における長きにわたる不況や政治不安に対するため、帝国は太陽系内の惑星及びその衛星に対しての拡張戦争を繰り返すことになった。木星における莫大なエネルギー資源を求めて移住を始めたにも関わらず、ついに帝国の人口増大に木星は悲鳴をあげていたのだ。あいつぐ戦争と、その勝利により帝国軍の政治的権力は増大し、軍の上層部では自らが木星の政治問題を解決するという思想から、木星本土の出身者や士官学校の出身によるエリート主義が蔓延していた。その一方、出自などを理由に軍への入隊、及び昇進を果たせずにいた者たちを中心に構成された治安維持組織である宇宙警察は腐敗した軍と政治の後始末に追われ、次第に不満が増大していた。
そしてついに、木星歴468年12月8日。宇宙警察は蜂起を果たす。帝国内の重要拠点である火星、地球、月などの宇宙港を次々と制圧し、帝国軍最大の基地であるエウロパ、そこに滞在していた帝国軍艦第二、第三艦隊を急襲。壮絶な戦闘の末、一週間に及ぶエウロパ戦役は宇宙警察軍の勝利に終わった。帝国艦隊は多くの将校を失い、致命的な打撃を被ることとなった。多くの宇宙空母、宇宙戦艦がその体を無重力に預けることなく沈んでいった。
帝国軍上層部、現在はその対応に追われている状況ではあるが、肥大しすぎた軍は頭からつま先までの意志疎通にも時間がかかる。だからこそ、こういう状況でナナ達が大きな戦果をあげることができれば、こちらの言うことも少しは通りやすくなるということだ。軍の人間が何人も死んだのは確かに嫌だが、同時にチャンスでもある。
「……命令書、まだ見てないだろう。早く確認しておけ」
「もう、頭に入ってるのに」
ナナが掌をパッと開くと、空中に無機質なモニターが映し出される。そこには無駄に形式ばった命令書が記されていた。この命令書、電子上のデータであるはずなのに判子の名前や順番、位置なんかに意味はあるのだろうか。戦いしか知らないナナにはわからない。細かいことは、もうどうでもよかった。
「今回の私たちの任務としては、月面でまだ戦闘を続けていらっしゃるソフィア幕僚長の救援に向かうことです。我々の帝国軍第九艦隊の編成は航空戦艦が一隻。巡洋艦が四隻とその他の駆逐艦が十隻。敵はおそらく月面の宇宙港を制圧しているでしょうから我々の目的としては敵の航空艦隊の撃滅と、月面の宇宙港を解放することの二点です」
ナナの隣から、リノ=セルヴェリオの声が艦内全域に伝わるようにスピーカーを通じて届いていく。この艦も先の戦役でかなり激しい戦闘を経験したはずだが、優秀な整備士たちが配属されたおかげか、設備に現時点で不具合は生じていない。一切の雑音なくリノの声が響き渡るとき、艦内の野郎共はわずかにテンションがあがる。ほとんどの船員がナナではなくリノについてこの船に上がったから当然ではある。これなら敵航空艦隊を殲滅し、月面の制空権を取り返せるかもしれない。士気は上々ではある、ただ、面白くはなかった。
「ふん、つまんないの。みんなリノばっかりちやほやしちゃって」
ナナがそう言うと、六歳も年上のリノはまるで姉のように笑いながら、ナナを宥める。十八歳で士官学校を卒業して軍に入って以来、四年以上もお世話になっているから、ナナはリノを本当の姉のように思っていた。どこか本音が見えないところも、なんだか姉のように感じる。
「そんなことはありませんよ。みんなナナが大好きだから命をかけるんです」
「ふん、ならいいけど。それより、まだ発艦信号はこないの?」
ナナが指令室全体に伝わるように声を放つ。その高くて女性らしい声は、半円形になっている指令室では声は良く響いていた。すぐさま通信担当の士官が立ち上がり、慌てた様子で答えた。
「いえ、まだです! しかし、航空重巡用艦を始めとした他の艦には出撃用のライトが点灯しているように見えます! まもなく離陸するかと」
その報告を聞くや否や、ナナはすぐさま目の前にモニターを開いて外の様子を確認する。そこには確かに、出撃用のライトを点けてプロペラを駆動させている他の艦の姿があった。軍のルールとしては出撃準備の前に連絡をするはずだ。ましてや、今回の責任者であり上官でもあるナナに何の報告もない。他の艦の艦長はきっとナナをよく思ってはいない。これほどまでに差別が徹底されているのかと、もはや悲しくなる。やはり、これは間違った考え方であるとナナは思う。
「くそっ、そんなことばっかり。だからエウロパ戦も負けるのよ。本当に嫌になる」
ナナは不満げに舌打ちし、椅子の背にもたれかかった。勢いが良すぎたせいか、椅子がギシギシと軋む音を立てた。指先で肘掛けをトントンと叩きながら、周囲をぐるりと見回した。指令室にいる部下たちは皆、緊張した面持ちで次の指示を待っている。スガリは呆れて、また溜息をついていた。
リノが手渡したマイクをナナは手に取ると、怒りも込めて艦内命令を発した。
「オルディアス帝国艦隊司令部准将ナナ=ルルフェンズより」
艦内通信でナナの声が響き渡る。
「全乗員に告ぐ。本艦レグルスは、これより木星宙域を発進する! 全乗員、即刻第一種警戒態勢に移行せよ。目標、宙域α-12に停泊する敵航空艦隊の撃滅、およびソフィア幕僚長率いる第一部隊の救援を最重要任務とする!」
指令室に緊張が走り、すぐさま「了解!」という力強い声が返ってきた。指令室の中に緊張が走るとともに、全員が目の前の任務に集中していく。先ほどまでの緩んでいた空気が引き締まる。リノは、やはりナナの声は司令官としてあまりにも魅力的だとそう感じながら、空気を壊さないために口角があがりそうなのを防いでいた。
ナナは小さく満足げに頷き、椅子に深く腰を下ろした。右手を軽く振り下ろし、その命令を全員に伝える。
「出撃!」
木星歴468年12月25日、オルディアス帝国の第九艦隊は木星を出港した。
「艦長、通信が切れました。他の艦はすべて人口成層圏に突入したようです」
レグルスが木星を離れてしばらく、月への航行中に、他の艦隊との通信が途絶した。周囲のノイズが消え、艦内は静寂に包まれる。その瞬間を、ナナは待っていた。通信士官がそのことを告げる。ここからが勝負だ。
ナナはマイクを手に取り、大きく息を吸い込んだ。その表情は、先ほどまでの不満げなものとは異なり、張り詰めた決意と、わずかな不安が入り混じっていた。指令室のクルーたちが、何事かとばかりに彼女に視線を集中させる。スガリが心配げな眼差しを向け、リノは静かにその成り行きを見守っていた。
「ナナ=ルルフェンズより全乗員に告ぐ。今、私たちは、月へと向かう途上にある。目的は敵航空艦隊の撃滅、およびソフィア幕僚長率いる第一部隊の救援である。しかし、それはあくまで帝国軍艦隊司令部准将ナナ=ルルフェンズとしての目的である。たった今、我が艦も人口成層圏へと突入し、他の艦との通信は途絶した。だからこそ、今、これから私とその目的のために命を懸けてもらうためにも、真実を語ろうと思う」
ナナは一呼吸置き、指令室にいる乗員一人ひとりの顔を見渡す。整備室にも、個室にもこの艦には多くの乗員が載っている。目の前にいる彼ら彼女らの先に全員の瞳と耳があるということを意識しながらナナは言葉を紡ぐ。彼らの瞳は、戸惑い、警戒、そして期待に満ちていた。彼女の言葉は、静かだが、艦内に響き渡る。
「私は君たちと同じく金星の出身である。木星出身者により劣った人種とみなされ、差別され、苦汁をなめさせられ続けてきた金星の生まれである。だが、それでも私も君たちと同じく帝国の軍に入り、こうして今も帝国軍の命令に従っている。それはかつては金星のためになると考えていたからである」
ナナの声に力がこもる。彼女の瞳は、未来への確固たる意志を宿していた。
「しかし、こうして反乱軍、いや被差別層の不満が爆発した結果としての反乱による戦争。彼ら彼女らの恨みは深く、重いものであろう。一方で帝国としても太陽系の支配を盤石とするためにも反乱軍の存在などを認めさせるわけにもいかない。このままであればどちらが勝ったとしても待つのは勝者による敗者への虐殺である」
スガリとリノ以外の乗員の顔は、驚きとそれ以上の興奮に包まれていく。
「私はそのどちらも望まない。そして、乗員の皆もそうであると思っている。私はこの先のない戦争を止めたい。帝国と反乱軍、どちらが勝者となっても、平和は訪れない。必要なのは、互いを認め、共に生きる和平の道だ。この作戦の先、私の進む道は、帝国が望む道ではないかもしれない。だが、私が信じる、この宇宙に真の平和をもたらすための道だ。あなたたちは、私と共にこの道を進んでくれるか? 私とそして皆の故郷、金星のために」
ナナは、クルーからの返事を待つ。その顔には、彼らが自身の理想を受け入れるかどうかの、静かな緊張感が漂っていた。しかし、ナナが話を終えたことを認識したかのように数秒後に大きな歓声が湧き上がった。
木星歴468年12月25日、ナナ=ルルフェンズと彼女に率いられたレグルスは平和への道を歩み始めた。