旅立ち その2
魔法使いの少年シュナンと、彼が手に持っている、言葉を話す不思議な杖ー。
都からやって来た、奇妙な師弟は、魔の山の霧深い山道を、歩いて行きます。
彼らが、かなり山奥まで来た、その時でした。
歩いている彼らの頭上から、声が聞こえてきました。
シュナンが驚いて上を向くと、そこには木々の間に張り巡らされた、巨大な蜘蛛の巣がありました。
そして、その中心には、人の大きさくらいある、これまた巨大な、怪物グモが、鎮座していました。
なんと、その怪物グモは、人の言葉で語りかけてきます。
地上を行くシュナンを、その頭上に張られた巣の上から、不気味な複眼で見下ろしながらー。
「坊や、いったい、何処へ行くんだい?ここから先は、地獄の一丁目だよ」
シュナンの持つ師匠の杖が、弟子に向かい、語りかけます。
「化け物蜘蛛、アラクネの一族だ。気をつけろ、シュナン」
シュナンは目隠しした顔でうなずくと、上空を見上げて、冷静な声で、大蜘蛛に向かって言いました。
「この山にいるという、メデューサの子孫に、会いに来たんだ。何処に行けばいいか、教えてくれないか?」
怪物グモは、その言葉に、鼻を鳴らして答えます。
「フンッ、あんたも、英雄気取りの一人って訳かい?ペルセウスの故事に倣って、メデューサを退治に来たんだろうがー。よく周りを見てごらんよ。それが、お仲間の成れの果てだよ」
シュナンが、自分の周りを見てみると、草むらや木々の根元に、点々と、人骨らしきものが転がっていました。
他には鎧や、かっては、鏡の様に磨かれていたであろう盾なども、いくつか落ちていました。
一つ目が刻まれた、魔法の杖が、シュナンに囁きます。
「英雄ペルセウスの、真似をしようとしたらしい。もっとも、メデューサの近くにも、行けなかったようだが」
シュナンは頷くと、目隠しで覆われた顔を上げて、再び、真上の木々の枝間に張られた、巨大な蜘蛛の巣に鎮座する、怪物グモを見つめました。
「僕は、彼女を退治する気なんてない。ただ、ある目的の為に、力を借りたいと思っている。それは、彼女のためにもなる事なんだ。どうか、メデューサの居場所を教えてくれ。この山の何処にいるのかを」
すると、シュナンの頭上に張られた、巨大な蜘蛛の巣から、彼を見下ろす大蜘蛛は、その不気味な複眼を、怒りの色に染めて言いました。
「人間の言うことなんか、信用出来ないね。静かに暮らしてるだけの、あたし達を、自分の都合で殺そうとする連中なんかー」
そして、彼女ー。
魔の山の大蜘蛛アラクネは、口から細い糸を吹いて、シュナンを攻撃しました。
はるか頭上から、アラクネが吹き出した糸は、シュナンの身体に絡みつき、たちまち彼は、白い糸でぐるぐる巻きになってしまいました。
顔まで白い糸に覆われて、これでは呼吸も、ままなりません。
しかし、こんな状態であるにも関わらず、彼の身体は微動だにしておらず、苦しんでいる様子も、一切ありません。
まるで、杖を持った白い彫像の様になったシュナンの姿を、木々の間に張られた蜘蛛の巣の上から、訝しげに見下ろす、大蜘蛛アラクネ。
一瞬、彼が息絶えたと思ったアラクネでしたが、すぐにそれは、間違いだと気づきます。
なんとシュナンは、蜘蛛の糸によって完全に顔が覆われているというのに、口を僅かに動かして、何かの呪文を唱えていたのです。
そして、次の瞬間ー。
シュナンをぐるぐる巻きにしていた蜘蛛の糸が、一斉に弾け飛び、燃え上がりました。
アラクネの複眼に、まばゆい光と衝撃が走ります。
そして、シュナンの身体から発せられた炎は、彼を拘束していた糸を素早く伝わって、たちまち、頭上の木々の間に展開されていた、アラクネの巣全体に広がっていきます。
「な、なんてこったいーっ!!」
悲鳴をあげる、化け物蜘蛛アラクネ。
彼女が、木の枝の間に、天幕のように作り上げた巨大な蜘蛛の巣は、今や、炎の海と化していました。
それは遠目で見ると、木々の間の宙に浮かんだ、大きな火の玉の様でした。
「う、ぐううーっ!!あ、熱いっ!!」
自分を取り囲む、熱気と煙に耐えられなくなったアラクネは、ついに自ら、身体の周りの太い蜘蛛の糸を切り、中空に浮かんだ巣から、不様に地上に落下しました。
ドスンッという大きな音と共に、大蜘蛛アラクネは、真下に立つシュナンの足元付近の草地に、落下したのです。
地面に落ちたアラクネが、呻きながら上を仰ぎ見ると、彼女の正面に立つシュナンが、冷徹な表情で杖を持ち、こちらを見下ろしています。
彼の身体を覆っていた蜘蛛の糸は、一本残らず燃やし尽くされており、それにも関わらず、シュナン少年の着ている服には、黒焦げ一つありませんでした。
シュナンは彼女に、大きな眼の付いた杖を突きつけて言いました。
「メデューサの館の場所を、教えてくれ。そうすれば、これ以上は何もしない」
しかし、地面でのたうちながら、魔法使いの少年を、その複眼で睨みつけていた大蜘蛛アラクネは、恐怖に打ち震えながらも、振り絞るような声で言いました。
「誰が、人間の言うことなんか、聞くもんか。こ、殺すなら、さっさとやりな。はばかりながら、このアラクネ姐さんは、仲間を売ったりはしないのさ。あの娘は、山奥で静かに暮らしてるんだ。そっとしといておやりー」
その言葉を聞いた、目隠しをした魔法使いの少年は、持っていた杖を一振りしました。
すると、どうでしょう。
彼の魔法によって、周囲のあちこちで燃えていた炎が、一斉にかき消えたではありませんか。
上を見ると、燃え落ちたアラクネの巣から、木々に拡がった炎も、完全に鎮火しています。
もっとも、あちこちに焼け焦げた後は、残っていましたが。
シュナンは、周りの炎が鎮まったのを確認すると、マントをひるがえして、地面に横たわるアラクネに背を向け、その場を去って行きます。
シュナンの持つ魔法の杖が、彼にささやきます。
「殺さないのかね?」
不思議な少年シュナンは、首を軽く振って、師匠である、その杖に向かって答えます。
「無益な殺生は、しません」
そうしてシュナンは、後ろを一切振り返らず、霧深い山道を、再び歩き出しました。
地上に落とされ、恐怖に打ち震えるアラクネを、後に残してー。
地面の草むらの上にうずくまるアラクネは、その去りゆく彼の後ろ姿を、畏怖と恐怖の眼差しで見送ります。
彼女の複眼に様々な角度で映る、魔法使いの少年の後ろ姿は、やがて白い霧の中に消えていきました。
しばらく山道を登ると、シュナンは、少し開けた場所に出ました。
そこは一面の花畑になっており、大小様々な色や形の花々が、競い合う様に咲き誇っていました。
そして、杖を持ったシュナンが、花畑を横切ろとしたその時でした。
花々の間から、光る物体がフワリと浮かび上がり、シュナンの目隠しをした顔の前で、ぴたりと止まりました。
「妖精だ」
シュナンの持つ、魔法の杖が、言いました。
シュナンが良く見ると、その光る物体は、透き通る翅を持つ、手の平ぐらいの大きさの、小さな少女の姿をしています。
少女の身体は、胸と腰のみを僅かな布で覆っており、そこから健康的な手足が、すらりと伸びていました。
その小さな少女は、蝶の様に翅をはばたかせ、煽情的な笑顔を浮かべて、シュナンの眼前を、くるくると舞う様に飛び回ります。
「旅人さん、旅人さん、どこへ行くの?」
翅で宙を飛ぶ、小さな少女は、目隠しをしたシュナンの顔の前を旋回しながら、悪戯っぽい声で、彼に話しかけます。
シュナンの持つ杖は、再び弟子に、囁く様に助言しました。
「チャーム(魅了)の魔法を、使うぞ。気をつけろ」
シュナンは頷くと、目の前をひらひらと飛ぶ、妖精に向かって言いました。
「僕は、この山に住んでいる、メデューサの子孫を捜しているんだ。良かったら、教えてくれないか?」
小妖精は、シュナンの質問には答えず、翅から鱗粉を撒き散らしながら、くるくると飛び続けます。
「旅人さん。メデューサに会えば、石にされて死ぬだけよ。それより、わたしと遊びましょうー」
しかしシュナンは、妖精の撒き散らす、幻惑の効果のある鱗粉や、彼女の魔法の言葉には惑わされずに、言いました。
「ごめん。君と遊んでいる暇は、無いんだ。どうか、メデューサの居場所を、教えて欲しい」
彼を誘惑しようと、魔法の力を使いながら、その目の前を飛んでいた妖精は、シュナンが自分の術に、中々、かからないのにイラついて、さらに激しく翅を動かして、鱗粉を撒き散らします。
しかし、シュナンの様子が、いつまでたっても変わらないので、とうとう諦め、捨て台詞を吐いて、その場を去って行きます。
「ふん!あんたの事なんか、知らない。顔も目隠しで覆ってるし、どうせ醜男なんでしょ。勝手にすればいいわ!それじゃねーっ」
そう言うと、小さな妖精は、シュナンに背を向けて、再び身体を発光させながら、花畑の中に消えて行きました。
シュナンは、妖精が、その姿を消した花畑を見つめると、フゥッと息を吐いて、再び歩き始めます。
なるべく花を踏まないよう、慎重に花畑の間を歩くシュナンの後ろ姿は、やがて前方に見える、霧に包まれた、林の中に入って行きました。
[続く]