ペガサスの少女 その8
ここは、地中海南岸に面した、辺境の海ー。
少し前まではボンゴ族が支配していた、この海は、今では海獣クラーケンの、根城となっていました。
海獣クラーケン。
彼は、海神ポセイドンの眷属のうちの一体であり、軟体動物の様な皮膚の、鼻や口のないのっぺりとした顔を持ち、更にそこには、丸く光るまぶたの無い二つの目が、不気味に輝いていました。
頭の下からは、タコに似た長い触手が、何本も生えており、細長い龍の様な身体からは、退化した翼と、鋭い鉤爪を持つ、両手両足が突き出ています。
その身体の全長は、小山の如き大きさで、海の王者である鯨を、片手でわしづかみに出来るほどでした。
彼は北部の海を、散々、荒らし回った後で、潮の流れに乗って、この海までやって来て、ボンゴ族を追い出し、住みついてしまったのです。
クラーケンは海の中を漂う様に泳ぎ、時にはその触手や鉤爪で、大型の魚を捕らえて食べたり、迷い込んで来た人間の乗る船を、面白半分に沈めていました。
彼は海神の眷属であり、海の中では、ほとんど無敵でした。
ボンゴ族も最初は、族長のボボンゴを先頭に、この怪物に戦いを挑んだのですが、善戦むなしく敗れ去り、やむを得ず、ペガサス族の支配する海辺の近くに、住まいを移したのです。
さて、今や、この豊かな海の支配者となったクラーケンは、ゆったりとその巨体をうねらせて、太古の夢を見ながらまどろみ、海の上に漂っていたのですが、そんなある日、彼のつるりとした顔についた、丸く光る瞼のない二つの目が、奇妙な侵入者を捉えます。
それは、カヌーの様な小さな船に乗った、人間の若者でした。
紺色のショートマントを羽織り、手には奇妙な形の、魔法使いの杖を持っていました。
そして、大変、奇妙な事に、彼は顔の半分を、目隠しで覆っていたのです。
若者の乗った小舟は、木の葉のように揺れ動き、海の上にその大きな頭の一部だけを突き出したクラーケンは、瞼のない気怠げな目で、その船の漂う様を見つめます。
すると、その波間に漂う小舟の上から、杖を持つ魔法使いの少年が、彼に向かって、よく響く声で、話しかけてきました。
「ポセイドンの眷属、クラーケンよ。あなたに、頼みがある。どうか、この海から去って欲しい。あなたが、この海を支配し始めたせいで、元々、この場所に住んでいた種族が、ここに住めなくなり、移動先の土地で、他の種族との間で争いが起きている」
シュナンは、目隠しをした顔を、海に浮かぶクラーケンの顔に向けながら、話し続けます。
「あなたが、この地を去ってくれれば、追い出された種族が、ここに戻る事が出来る。そうすれば、悲惨な争いは、防げるだろう。あなたは、世界のどんな海でも、たとえ深海の底でも、生きていけるはず。どうか、か弱い我らを哀れと思って、ここから去ってもらえないだろうか?心からお願いする。偉大なる海神の眷属よ」
クラーケンは、シュナンの声を黙って聞いていましたが、やがて耳障りな音と共に、潮を頭の上からピュッと吹き出し、テレパシーを使い、シュナンの頭の中に、直接、話しかけました。
<<ふざけるな小僧っ!!たかが、人間の魔法使いの、指図は受けんわ。わしは、神の子だぞ。地面に這いずる虫ケラが、どうなろうと、知ったことか>>
揺れる船の上のシュナンは、悲しげに、首を振ります。
「そんな考えでは、お互いに共存する事は出来ない。力と力の争いになるだけだ。まるで、地獄の様なー」
プライドを傷つけられたのか、クラーケンの裸眼に、怒りの光が走ります。
そしてクラーケンは、そのタコのような触手の一本を振り上げ、シュナンの乗る小舟に向かって、叩きつけました。
バシャーンッ!!!
<<共に生きる気など、無いわーっ!!この虫ケラがーっ!!>>
クラーケンの強烈なテレパシーと共に、海中から突き出された、その触手による一撃で、シュナンの乗っていた小舟は、粉々に破壊されました。
波間に漂う船の破片を、しばし、見つめるクラーケン。
彼は、船を砕いた衝撃で、シュナンは、海に投げ出されたのだと思いました。
しかしー。
「どうやら、話し合いは、無理の様だな」
クラーケンの頭上から、先ほどの少年とは違う声が、聞こえてきました。
クラーケンが頭上を見ると、先ほどまで船の上にいた、魔法使いの少年シュナンが、マントを翻し、宙に浮いていました。
シュナンは空中に浮かびながら、その手に持つ杖に、話しかけます。
「やはり、作戦通り、行くしかないですね」
シュナンの持つ師匠の杖が、答えます。
「ウム、気をつけろよ。我が弟子よ」
先程、クラーケンが聞いた声は、師匠の杖が放った声だったのでした。
頭上から自分を見下ろし、手に持つ杖と、平然と会話をしながら宙に浮いている、シュナンに対して、クラーケンの怒りが爆発します。
<<この小童がーっ!!!>>
その瞬間、クラーケンの数多くの触手が、海から水しぶきを上げて飛び出して、上空に浮かぶシュナンに、一斉に襲いかかりました。
自分に次々と襲いかかる、大木ほどの大きさの触手を、シュナンは、間一髪でかわします。
そしてシュナンは、クラーケンの触手攻撃を次々とかわすと、ヒュンッと空中を移動して、クラーケンから少し離れた場所の宙に浮きながら、クラーケンを挑発するように見下ろします。
クラーケンは怒りのあまり、目を真っ赤にして、その巨体を動かし、シュナンに襲い掛かろうとします。
波しぶきを立て、その龍の様な身体をくねらせて、シュナンが、上空に浮かぶ地点に向かって泳ぐ、巨獣クラーケン。
宙に浮くシュナンは、クラーケンが巨大な波を立てて、自分を迫って来るのを見ると、サッと身を翻し、クラーケンに背を向けて、空を飛んで逃げ始めました。
<<逃さぬ!!小僧めっ!!>>
激昂したクラーケンは、泳ぎながら、空飛ぶシュナンを追いかけます。
巨大な波しぶきを立てながらー。
追うクラーケンと、逃げるシュナン。
上空から見ると、その姿は、小さい豆粒みたいな空飛ぶ羽虫を、巨大な大蛇が、体をくねらせながら海中を泳ぎ、後を追っているみたいに見えました。
そしてクラーケンは、怒りのあまりか、自分が徐々に己れの領域である深い海から、海岸近くの浅瀬の海の付近へと、近づいている事に気付きませんでした。
空飛ぶ魔法使いシュナンは、ときおり背後を振り返り、クラーケンの様子を確認します。
彼は、クラーケンから近づき過ぎず、離れ過ぎない、一定の距離を保ちながら、クラーケンから逃げていました。
そうシュナンは、沖合から海岸付近に、件の怪物を、誘い出そうとしていたのです。
その為に、クラーケンをわざと怒らせて、自分を追いかけるように、仕向けたのでした。
クラーケンの蛸のような巨大な触手が、海の中から次々に、シュナンに襲いかかります。
シュナンは、それらの触手を、間一髪のところでかわしながら空を飛び、海を泳ぐクラーケンから、逃げ続けます。
そして逃げるシュナンと、彼を追うクラーケンの正面に、陸地につながる海岸線が見えてきました。
飛翔するシュナンを追って海を泳ぐ、海獣クラーケンは、いつのまにか、沖の大海から、海岸の近くの浅瀬に来てしまい、水深の浅い海では、その巨体の全てが、透き通る水を通して、露わになっていました。
しかし、怒りに燃えるクラーケンは、自分の置かれた状況にも気付かず、その奇怪な巨体の半分以上を、水上に現しながら海を泳ぎ、眼前を飛ぶシュナンを、追い続けます。
そして、彼の振るった鋭い鉤爪が、宙を舞うシュナンのマントをかすめた、その時ー。
シュナンとクラーケンの前方に見える、海岸線の向こうに広がる、陸地の山並みの彼方から、一群の空を飛ぶ何かが、こちらに向かって来るのが見えました。
それは、飛翔するペガサスの大群でした。
そう、それはペガサス族の少女たちの、変身した姿だったのです。
海岸付近の上空を、輪になって間隔を開けて飛ぶ、ペガサスの少女たちー。
彼女たちの先頭に立って飛ぶのは、もちろんペガサス族のリーダーである、赤髪の少女レダが変身した、ペガサスでした。
足に、まだ包帯をしています。
そして彼女は、一緒に飛んでいる、仲間のペガサスたちと共に、空中で大きな円形の陣を組んでいて、しかも協力して、何か大きな網状の物体を運んでいました。
なんと、飛翔するペガサスの群れは、人間が魚を捕る為に使う投網を巨大にした様なものを中心にして、それを、それぞれが口で咥えながら、輪状となって空を飛び、力を合わせて、その大きな網を運んでいたのです。
遠目から見ると、それはまるで、信じられない程の大きさの漁網が、天空を飛翔している様に見えました。
更に、その大きな網の後ろの部分には、一本の太くて丈夫な手綱が取り付けられており、その長くて太い大綱は、ペガサスが飛ぶ宙空から、海岸の砂浜に向かって延々と伸びていました。
ペガサス族の少女たちは、シュナンの師匠である、大魔術師レプカールの魂が封じられた杖の指示で、山に自生する、丈夫な植物の蔦を編み上げて、この巨大な網を作り上げたのです。
それはもちろん、この網で、巨大な海の怪物クラーケンを、捕らえる為でした。
そして、今まさに、編隊を組んで巨大な網を運ぶ、ペガサスの少女たちの瞳の中に、真っ赤に目を血走らせながら、大きな波を立てて泳ぐ、海岸方向に近づいて来るクラーケンの巨体と、その眼前を飛ぶシュナンの、豆粒のような姿が、徐々に映り始めました。
[続く]