3話①
プロローグを編集いたしました。
オリエンテーションの翌日。
大学の食堂は、昼休みのざわめきに包まれていた。
春の光がガラス越しに射し込み、ステンレスのテーブルを細く反射させている。食堂の中を漂うカレーの匂いが、昼の空腹を一層刺激していた。
フットサルサークルの練習帰りだった晴人は、食券を片手に、颯太と並んで行列を進んでいた。自動券売機の音がカチャカチャと響き、周囲は学生たちの笑い声で満ちていたが、晴人の耳にはどこか遠くに聞こえるようだった。
「で? 昨日のバイト、結局なんだったんだよ」
颯太が紙パックのミルクティーをストローで吸いながら、鋭く尋ねてくる。瞳には好奇心が光っていたが、どこか探るような色も混じっていた。
晴人は一瞬、言葉を探すように視線を泳がせた。
「んー……まあ、ちょっとした作業っていうか」
「作業ぅ? お前の顔見りゃわかるっつーの。ぜったい隠してるだろ」
颯太の声はいつもの軽さを帯びているが、晴人にはその奥に鋭い勘のようなものを感じた。
「別に悪いことしてるとか思ってねえけどさ。……なんか顔つき、変わったぞ?」
晴人は作り笑いを浮かべたまま、カレーをスプーンで無意味にかき混ぜた。スプーンの先が皿の底をコツコツと叩き、周囲の喧騒の中に妙に響いた。
──霊装、霊力感覚、術師……。話せるわけ、ないよな。
颯太はため息をつき、視線を横に逸らした。
「お前、俺には嘘つけねーんだからな」
「別に嘘ついてないって」
「いや、嘘だろ」
颯太は呆れたように笑い、カレーをかき込んだ。
「まあいいや。バイト代だけは無事もらってんだろ?」
「……うん」
「なら、今度焼き肉奢れよ」
「……はいはい」
晴人は笑ったが、その笑いが自分でもどこか薄っぺらく感じられた。胸の奥に、昨日の霧の冷たさがまだ沈殿している気がしていた。
そのとき、ズズッと振動がポケットを打った。
スマホの画面には、Balancioからの通知が表示されていた。
──【次回研修】霊力感覚訓練 〇月〇日 16:00 研修棟集合
晴人の視線が、一瞬鋭くなる。
颯太が身を乗り出してくる。
「なんだよ? 彼女か?」
「いや、バイト先から」
颯太はじっと晴人を見つめたが、それ以上は深くは突っ込まなかった。
⸻
午後。
フットサルサークルの練習は、陽光がコートを白く照り返す中で続いていた。芝生の上を駆けるスパイクの音。鋭いボールの弾む音。仲間たちの掛け声。
晴人もピッチに立っていたが、その視線はどこか遠くを彷徨っていた。目の前を飛んでくるボールを、反射的に足で止めはするものの、その動きには覇気がなかった。
──霊力……波の音……。
昨日の霧の中で感じた、あの冷たく脈打つ感覚が、脳裏の奥で何度も蘇る。それはまるで、誰かが背後から呼んでいるような奇妙な余韻を残していた。
いつの間にか、走る足が遅くなっていた。
「晴人、動き遅い!」
鋭い声が飛んだ。
振り向くと、藤宮鈴音が赤いビブス姿で立っていた。
肩下までのストレートのアッシュブラックの髪を高くまとめたポニーテールが、春風に揺れていた。ダークブラウンの瞳がまっすぐに晴人を射抜く。
「どうしたの? さっきから全然集中できてないじゃん」
その声には叱責よりも、心配の色が濃かった。
晴人はハッとして言葉を失う。鈴音はその沈黙を許さず、さらに声を潜めた。
「……晴人。今日、様子変だよ」
「え、そんなこと……」
「ある。目が泳いでるし、ボールの追い方も鈍いし」
鈴音は腕を組み、小さく眉をひそめた。
「悩んでるなら話して。マネージャーでしょ、私」
──言えるわけ、ないよな。
昨日あの霧の中で感じたあの異世界の感覚を、誰に伝えられるだろうか。言葉にしようとするたび、現実味がなくて自分でも怖くなる。
晴人は視線を逸らした。芝がやけに鮮やかに見えた。
「平気……。ちょっと考えごとしてただけ」
鈴音は数秒、晴人を見つめていたが、やがて息を吐いた。
「……じゃあ、切り替えよ? はい、深呼吸」
彼女は自分の胸に手を当て、大きく息を吸い込んだ。その姿を見て、晴人も息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「……よし」
「うん。その顔が晴人らしい」
鈴音の声は、優しくてどこか切なげだった。
晴人は頷き、再びピッチに駆け出した。
スパイクが芝を蹴り、ボールを追う。
トラップ、パス、シュート。
体を動かしている間だけは、頭の中が少しだけ空っぽになる。
汗が額を伝い落ちる頃には、さっきまでの重苦しさが少し遠ざかっていた。
⸻
夕方。
グラウンド脇で、鈴音と颯太が並んで座っていた。
颯太はタオルを肩にかけ、空を仰いだまま言う。
「なぁ、鈴音。やっぱ晴人、今日おかしくね?」
鈴音はビブスを畳みながら頷いた。
「うん。理由はわからないけど、今日は全然集中できてなかった」
颯太が苦笑した。
「晴人があんなにぼーっとするの、珍しいよな」
鈴音は口元に微笑を浮かべた。
「うーん、、、でも、きっと大丈夫でしょ」
「……だといいけどな」
⸻
研修当日。
研修棟の前に立つ晴人は、西日に照らされるコンクリートの壁を見上げた。赤く染まった空が、少し肌寒い風に揺れている。
塔矢が現れた。
「来たか、小鳥遊」
「はい」
塔矢の鋭い瞳が、晴人を静かに射抜く。
「今日も霊力感覚の訓練を行う」
訓練室の扉が重々しく開き、青白い霧がゆらりと流れ出した。
塔矢は無駄のない所作で小箱を開き、中から札を取り出した。
「霊装をいきなり扱うには、まだ早い。今日はこれを使う」
「札……ですか」
塔矢は短く頷いた。
「これは火種を出す術式が刻まれた札だ。最低限の霊力を流すだけで発動する。霊装より遥かに負荷が少ない。訓練には適している」
晴人はおそるおそる札を受け取った。
表面の細かい紋様が、微かに脈動しているように見えた。
「だが簡単だと思うな。霊力を正確に送り込めなければ、術式は動かん」
塔矢は後ろへ下がり、低い声で告げた。
「やってみろ」
晴人は札を握りしめた。
──波の音……冷たい流れ……。
あの感覚を思い出すように、深く息を吸う。
しかし、胸の奥でかすかに寄せては返す波の気配はあるのに、いざ指先へ送ろうとすると霧のように掴めない。
そっと霊力を注ぐ──が。
札は無反応だった。
塔矢が目を細める。
「もう一度だ」
晴人は唇を噛み締め、再び札へ意識を集中する。
波は、そこにあるのに。届きそうなのに。
一瞬、札が朱色にかすかに光った。
しかし次の瞬間には、火は掻き消えたように消え失せた。
晴人は肩で息をしていた。額から一筋の汗が落ちる。
「……くっ」
塔矢の声が低く響いた。
「感覚を掴みかけている。それは確かだ。だが、流し込む霊力がまだ不安定すぎる」
晴人は札を見つめながら、唇を噛んだ。
──もう少し……。あと少しで……。
何度も何度も挑戦する。
しかし火は灯らず、札はただ冷たく晴人の掌にあるだけだった。
晴人は額の汗を拭いながら、札を見下ろした。
「……やっぱり、うまくいかない……」
塔矢は静かに言った。
「霊力を感じるのは、前も言ったがそんなに簡単に出来るものじゃない。諦めるな、小鳥遊」
晴人は深く息を吐き、再び札を握りしめた。
──次こそは。
霧がゆらりと揺れ、霊力充填室の青い光が、晴人の瞳を淡く照らしていた。
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