2話①
訓練室の床に刻まれていた紺色のラインが消え失せ、蛍光灯の光が一瞬だけ落ちる。全身の神経が微かに緊張を覚え、空気が張り詰める。次の瞬間、壁一面のスクリーンに、淡い蒼の光を帯びた〈Balancio〉のロゴが浮かび上がった。無音のまま、その光だけが訓練室を支配する。
塔矢統括はゆっくりとマイクを手に取り、低い声で告げた。
「これより正式に〈第二段階ブリーフィング〉を開始する。Balancio調和防衛課は、単なる警備会社ではない。われわれの仕事は“魂量異常事案”への統合対処――人知れず発生する超常的災害の火種を摘み取り、世界の均衡を維持することにある」
蒼い光に照らされた晴人は、胸元のタグを握りしめた。ゼロホスト――生来守護霊を宿さない存在として、この場に立っている自分。にもかかわらず、胸の奥の重みは増すばかりだ。
(超常的災害……世界の均衡……?)
頭の中で言葉を反芻しながら、深く息を吸い込む。肺の隅まで冷たい空気が染み渡り、無意識に肩の力が緩む。
スクリーンに国土の地図が映し出される。京都、大阪、金沢、仙台――無数の光点が線で結ばれ、Balancioのネットワークを描く。そこに立つ観測拠点が、いままさに世界の危機を監視しているというのか。
塔矢がホログラムを操作し、観測班と術師班の二系統を示すチャートが浮かび上がる。
「組織は観測班と術師班の二系統に分かれる。観測班は現場で〈人払い結界〉を展開し、市民の避難誘導と、守護霊の〈鎖離〉を担当する。術師班は結界内部で切り離された守護霊を討伐し、あとの後処理を補助する役目だ」
隣に座る真壁が眉を寄せ、小声で尋ねる。
「結界って、具体的には何をするんです?」
塔矢は頷き、ホログラムの人体モデルを胸腔断面にズームする。そこに小さな青白い炎が揺らめき、その光がゆっくりと弱まっていくアニメーションが再生された。
「人は生まれながらにして“守護霊”を携えている。魂量指数は可視化でき、成人の標準は約百前後だ。その範囲内なら、守護霊は宿主を数年守り抜くが、最終的には事故や病に倒れる宿主を救いきれない」
「だが、一部の個体は千倍、万倍もの“過剰魂量”を持つ。彼らの守護霊は常識外の防御力を誇り、地震や台風、疫病といった自然の調整力を跳ね返す盾となる。その結果、均衡を回復するための災害はより巨大化し、数十万、数百万の犠牲者を生む恐れがあるのだ」
和装の女子隊員が震える声で呟く。
「万倍……想像を絶する力ですね」
彼女の視線は、スクリーンに重ねられた過去の災害年表へと吸い寄せられていた。記録された被害者数は、まるで無慈悲な数字の羅列のように胸を締めつける。
塔矢が再び口を開く。
「観測班が行うのは〈鎖離〉──宿主と守護霊の結合を強制的に解除するプロセスだ。成功すれば守護霊は消散し、宿主は意識を保ったまま自由に動ける。しかしその代償として、“死刻”と呼ばれる十四日の猶予期間が発生する」
留学帰りらしい短髪の少女が恐る恐る手を挙げる。
「鎖離されたあと、宿主はどうなるんです? 身体がバラバラになるとか……」
塔矢は静かな笑みを返し、胸元のタグを軽く指で弾いた。
「否、身体はまったく変わらない。鎖離後は日常生活に支障はなく、出勤も食事も睡眠も問題ない。ただし、十四日後には必ず世界の調整力が介入し、事故でも病気でも不慮の出来事でも――いかなる形でも宿主は命を奪われる。統計上、一例の生存例もない事実だ」
薄茶色のタグが微かにきしみ、晴人の指先で冷たい違和感を伝えてくる。胸の奥で理不尽が渦巻き、思わず両手を胸の前で組みしだく。
真壁が固い声を落とす。
「要するに、観測班は“誰かの守護霊を剥がして助け、その後の死を見届ける”仕事ってことか……」
塔矢は頷き、さらに付け加えた。
「術師班は切り離された守護霊を討伐するが、宿主の生死は観測班の責任外だ。観測班が提供するのは、あくまで“十四日の猶予”のみである」
着物の女子が震える声で続けた。
「十四日だけ命を残して、そのあと必ず死ぬ……それが本当に正義なんでしょうか?」
塔矢は重々しく視線を巡らせた。
「大局的に見れば、過剰魂量保有者は大災害の震源だ。そのまま放置すれば、救える命は数十万、数百万単位で失われる。観測班の仕事は、たとえ一人を死刻へと追いやる犠牲を伴っても、より多くの命を守るための緊急措置なのだ」
沈黙が一瞬だけ流れる。訓練室の照明が再びわずかに落ち、最後の項目を示すスライドが映し出された。
「最後に“ゼロホスト”の説明をする。ゼロホストとは、生来守護霊を持たない個体だ。結界による鎖離の際、昏倒せずに鎖離のみを行える特性を備えている。これが観測班、ひいては術師班に最適と判断し、我々はゼロホストを優先的に採用している」
真壁が苦い笑みを浮かべる。
「守護霊を持たないから、他人の命を十四日間だけつなぐ側に立てる……皮肉な話だな」
短髪少女はタグを指でなぞりながら、そっと囁いた。
「私たち……犠牲を生み出す側に回るってことですか?」
塔矢は大きく頷き、ゆっくりと結論を告げた。
「これがBalancioの基本業務と世界観だ。いま理解が混乱するのは当然だろうが、この先は“霊装”――我々の武器の操作指導に移る。順に機材台へ進んでほしい」
訓練室の照明が静かに明るさを取り戻し、前方の操作台には無数のブレスレットが冷たい輝きを放っている。ひとつひとつが観測具素体――霊力を流し込むことで、刀や盾などに変化するという魔法のような装置だ。
晴人は深く息を吸い込み、ぽつりと呟いた。
――誰かの守護霊を切り離し、生を十四日間だけ残す。
淡い青緑の光のなか、彼は緊張と覚悟を胸に、静かに操作台へ歩みを進めた。