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英霊の天秤  作者: 徹夜で昼寝
1章ビラと清瀑刀
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1話③

晴人がドアを閉めると、左手首のタグが脈拍に合わせてかすかに震えた。

薄暗いワンルームはまだ灯りを点けずに、彼はキッチンの棚からマグカップを取り出す。麦茶を注ぐ手が震えて、半分ほどが床にこぼれた。


タグを外そうと右手を伸ばすと、金属の輪は体温に温められ、鼓動と同じリズムでじんわり熱を帯びている。ロック機構はびくともせず、それがよりいっそう、昨夜まで当たり前に動いていた世界との断絶を突きつけた。


──「守護霊がいない体質」──

──「ゼロホスト」──


検査室で告げられた言葉が頭蓋を冷たく叩き、晴人は思わずテーブルに突っ伏した。


気づけば午前三時を回っている。スマホを覗くと、LINEの通知が二十件以上溜まり、フットサル部のグループトークでは「副部長どこ行った?」と騒がれていた。眠気まじりに指先を動かし、親友の颯太へ個別メッセージを送る。


――「明日、食堂で話聞いて」


送信ボタンを押すと、不思議と胸の奥が少し軽くなった。タグの小さな震えを感じながらベッドに潜り込み、夜明けまで浅い眠りを繰り返す。


翌朝十時半、大学の総合食堂はまだ昼メニューに切り替わる前で人影もまばらだった。晴人がトレーを手に迷っていると、颯太がカレーを抱えてやって来て、眉間に深い皺を寄せた。


「お前、マジで女と待ち合わせしてただろ? 昨日の消え方、合コンバックレとそっくりだったぞ」


晴人は苦笑しながら首を振る。


「違うんだ。女じゃなくて、変なバイトの面接に行ってた」


「変なって、どう変なんだよ?」


スプーンを止めた颯太に、昨夜の検査室の様子をかいつまんで話す。白一色の部屋、感情テスト、水面に浮かんだ金色の光、そして「ゼロホスト」と呼ばれたこと。装備や危険業務の話は、ひとまず伏せておいた。


話を聞き終えた颯太は真剣な眼差しでスプーンを置いた。


「それ、完全にヤバい香りがするぞ。契約書みたいなの、サインさせられたんだろ?」


「した。危険業務保険のこととか、振込先の書類も渡された」


「紙があったからって安心できるもんじゃねえだろ……」


「分かってる。でも、まずはオリエンテーションに出てみるつもりだよ」


「一人で?」


「外部者は入れないらしいし、GPSは共有にしてるから」


颯太はその言葉に頷き、空いた皿を下げながら晴人の肩を軽く叩いた。


「マジでヤバいと思ったら、すぐ電話しろよ。部のみんな総出で駆けつけるから」


背中を押されるような安心感と同時に、内側から冷たい恐怖が募った。袖口の下でタグがひそやかに震え、二人の会話を遠巻きに見守っているかのようだった。


――――


講義、バイト、サークル遠征。いつもの日常をこなすあいだも、タグは確かな存在感を放っていた。電車の揺れとシンクロするように微振動を返し、時折淡い水色の光を帯びてはまた鈍い灰色に戻る。寝不足と神経過敏で、授業中のノートは文字にならず、統計ソフトの数字が視界で泳ぐように錯覚した。


それでも、一週間はあっという間に過ぎ去った。スマホのカレンダーが震えるほどの通知音を鳴らし──


「Balancioオリエンテーション 本日18:00」


夕暮れ時、京都駅南口。颯太からの「GPS来てる。気をつけろ」のメッセージを最後に、晴人は深呼吸を三度繰り返した。黒ガラスの〈Balancio〉ビルに向かうと、前回と同じく触れずとも自動ドアは静かに開いた。


玄関で待っていたのは羽鳥琴音。


「体調はいかがですか?」


「寝不足だけど、倒れるほどじゃないです」


琴音はにこりと微笑み、「それなら大丈夫です。これからが本番ですよ」とだけ告げ、エレベーターへ誘った。


箱が無音で下降し、今夜は途中で廊下が二手に分かれていた。彼女がタグを端末にかざすと緑のランプが灯り、扉が静かに解錠される。


扉の向こうは円形ホール。白大理石の床が月光のように淡く反射し、天井には半球型のスクリーンが浮かんでいる。既に三人の参加者が椅子に座り、互いに軽く会釈を交わしている。


ステージに姿を現したのは、スーツ姿の男性──統括の塔矢だった。胸には青いピンバッジを光らせ、天井の指向性スピーカーを通して静かに告げる。


「皆さん、本日はBalancioのオリエンテーションにお越しいただき、ありがとうございます。ここで契約を取り消したい方は、タグを外してスタッフへお渡しください。本日の参加費はその時点で全額お支払いします」


会場はしばし沈黙に包まれたが、誰一人として動こうとはしない。塔矢は深く頷き、次の指示を出した。


「それでは、基礎行動訓練を開始します。各自、中央の円から外れないようにスタッフの指示に従ってください」


床に紺色の直径十五メートルほどの円が浮かび上がり、晴人の足元にもかすかな線が延びていた。まるで地面が脈打つように見える。


塔矢の指示でスタッフがヘッドセットと薄型のメモパッドを配り、耳元でセットアップ音がひそやかに響く。


琴音は少し離れた位置から晴人を見つめ、その瞳が「ここから先は、未知だが共に見届けてほしい」と語りかけているようだった。


袖口の下でタグが脈拍を追い越すかの速さで震え、微かな青光を再び帯びる。晴人は深く息を吸い込み、円の内側へ一歩を踏み出した。


大理石の床がじんわりと温まり、背後で扉が閉まる音がした。外界の気配は完全に断たれ──


オリエンテーション──いや、真の研修が、今まさに幕を開けようとしていた。

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