1話②
裏通りの奥、京都駅前の喧騒が徐々に遠ざかったとき、一軒だけ異彩を放つビルが姿を現した。黒く磨かれたガラスは街灯の光をすべて呑み込み、月も映さぬ闇のベールを膨らませている。入口横の小さな銀板に〈Balancio〉の文字が刻まれているだけで、看板も受付の灯りもない。
小鳥遊晴人はスマホの地図アプリを再確認し、深呼吸した。高時給のバイト募集にだけ記されたこの住所。夜の闇に覆われたビルには他の手掛かりが何ひとつない。帰りたいという衝動と、好奇心が胸の中でせめぎ合う。
ついに彼は一歩を踏み出した。
――本当に、ここで間違いないのか?
指先で自動ドアに触れたが、びくともしない。諦めかけた瞬間、薄い擦りガラスが無音で左右に開いた。足元に差し込む淡い光を頼りに中へ進むと、黒いジャケットに身を包んだ一人の女性が立っていた。
「小鳥遊晴人さんですね。夜分遅くにようこそ。道に迷われはしませんでしたか?」
琥珀色の瞳が優しく光る。――羽鳥琴音。彼女は軽く会釈しながら、晴人の帰り口をそっと塞ぐように立ちはだかった。言い返す隙を与えず、受付もない奥へと誘導される。
エレベーターの中は静寂そのものだった。操作盤にはボタンが見当たらない。琴音がIDカードをかざすと「B1」が浮かび上がる。箱が滑るように降下するあいだ、晴人は声をしぼり出した。
「えっと……面接って、聞いてたんですけど……こんな夜中に、地下で、ですか?」
「こちらは夜勤研修棟ですから。学生さんの身分に配慮して、昼間は使えないんです。それに、私たちの機材は光や音に敏感でして」
言い終わらないうちに扉が開き、白一色の廊下が視界に広がった。壁も天井も区切りがなく、足音すら吸い込まれていくようだ。不安が背筋を走る。
「こちらが検査室1です」
ラベルを見て琴音が扉を押し開けると、中はまるで無菌室のようだった。白い長机の上にはタブレットとセンサー類が几帳面に並んでいる。窓も時計もない監獄のような空間に、晴人の心臓は高鳴った。
「荷物とスマホはこちらへお願いします。電磁干渉を避けるためです」
ロッカーにスマホを収めると、外界との最後のつながりが断たれた気がした。琴音は手際よく心電図パッチを取り出し、晴人の胸元に貼り付ける。冷たい感触が肌に走る。
「痛みはありませんので、ご安心を」
続けて脈波クリップが指先に装着され、身体が機械へと組み込まれていく。タブレットが静かに起動し、琴音が説明を始めた。
「これから画像を一枚ずつお見せします。一番近い感情を、“恐怖、嫌悪、好奇、安心”の四択からタップしてください。考え込みすぎず、直感で選んでくださいね。気分が優れなければ、すぐお知らせを」
最初の画像は吹雪の山小屋。その次は満員電車、血まみれの手術器具、逆光の向日葵畑……。統一感のない三十枚がリズムよく切り替わる。晴人は「正解」を探そうと指を止め、タップをためらうたびに波形が跳ねた。琴音は隣でメモを取り、得点が刻まれるかのように胸が苦しくなる。
最後の画像を選ぶと、画面が暗転し、周囲は無音の闇に包まれた。琴音が結果を確認し、端末を伏せる。
「平均より少し緊張が強めに出ていますが、問題ありません」
言葉はさりげないのに、詳細は一切教えてくれない。その沈黙がいっそう不安を煽った。琴音は実験用ビーカーを手に取り、室内の照明を一段落とす。
「次はこの水面を五十秒間、じっと見てください。視線を外さず、呼吸は深くしすぎないように」
蛍光灯が後退し、白磁の部屋はまるで暗室のように変わる。ビーカーの水面が鏡のように静まり返り、自分の瞳孔だけがちらついている。十秒、二十秒――鼓動が遠のき、耳鳴りが支配を始めたころ、水底から金の光が糸のように揺らめき、淡い輪を描いた。驚きの息を呑むと、それはすぐに跡形もなく消え去った。
ブザーが五十秒を告げる。琴音は端末を覗き込み、静かに息をついた。
「小鳥遊さん……あなたには“ゼロホスト”の素質が強く表れています」
「ゼロホスト……ですか?」
震える声に、琴音は淡く微笑んだ。
「はい。守護霊をまったく持たない体質――一見、奇妙に思われるかもしれません。でも、私たちバランシオでは、その特性を必要としています」
晴人は言葉を飲み込み、手渡された金属製のタグをそっとつまんだ。冷たい重みが手のひらに広がり、自分の脈拍に合わせてかすかに震える。
「興味があれば、一週間後の夜にオリエンテーションがあります。途中で取りやめても構いません。ご希望なら、その場で手続きを」
帰るチャンスは今だという理性と、見てみたいという好奇心が交錯する。掌でタグを転がしながら、晴人は小さく頷いた。
「……わかりました。とりあえず、話を聞かせてください」
琴音は満足そうに頷き、そっと契約書を差し出した。そして深夜零時から四時、週二回以上、時給一万円──淡々とした文字列が胸を掠め、晴人はペンを握りしめた。
タグが左手首に嵌められた瞬間、金属の輪が軽いクリック音を立てた。闇の中、彼の心には確かな決意と、それ以上に大きな恐怖と好奇心が同居していた。
帰路につくと、夜風が汗を冷まし、駅前のネオンが遠くで瞬いている。タグの震えが「あと一週間」と囁くたび、胸の奥で二つの感情が融け合った。
――帰れるかもしれない。帰れないかもしれない。
その二つの予感を抱え、晴人は夜の舗道を歩き出した。