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英霊の天秤  作者: 徹夜で昼寝
1章ビラと清瀑刀
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1話①

四月も半ばを過ぎ、春学期の息吹が京都の街角を彩る頃。大学の第三講義棟前の廊下には、「多変量解析基礎」を受講する学生たちの談笑と足音が混ざりあい、生気に満ちていた。淡いミントグリーンのペンキは長年の擦れにより所々剥がれ、壁際の掲示板にはサークルのビラや賃貸広告が色とりどりに重ね貼りされている。教授が黒板に「次回レポートは三千字」と大書したまま教室を後にすると、学生たちはため息交じりに小さく歓声を上げ、いっせいに荷物をまとめはじめた。


廊下の混雑を縫うように、小鳥遊晴人たかなし・はるとは背筋を伸ばしながら伸びをひとつした。同じ統計ゼミの友人で、フットサル仲間でもある加瀬颯太かせ・そうたの肩を軽く叩く。

「なあ、昼メシどうする?」

颯太は腕時計とスマホを交互にチラ見し、すぐに腕を伸ばして背中のリュックベルトをつまんだ。

「学食混む前に急ごうぜ。あとで顧問が三千字リポートの追加説明してくるらしいし」


晴人が頷こうとしたそのとき、掲示板の隅で妙に白い紙片が目に留まった。二人が通り過ぎた後、ふと振り返ると、気を惹くのはそこだけ。周囲のビラが多彩なイラストとポップなフォントでにぎわう中、ひときわ不自然に真っ白なその広告には、かすかに銀色の文字が揺らめいて浮かんでいた。


〈夜間警備スタッフ急募 時給10,000円〉

〈深夜00:00~04:00 週2日~可〉

〈要:体力・冷静さ・適応力〉

〈勤務地:京都市内 研修期間あり〉

〈詳細はQRを読むこと〉


印刷ではなく、まるで空中にホログラムを照射したかのように、薄い銀の文字は見る角度で歪み、隣に立つ颯太には何も映っていないらしかった。

「晴人、何ジーっと見てんだよ」

颯太が肩を揺さぶり、晴人は慌てて視線を戻す。


「……なんか、時給一万円の深夜バイト広告があった気がして」

「マジ? どこ?」

「いや、もう消えた。寝不足のせいかな」


二人は学食へ向けて歩き出し、晴人の胸にはビラに描かれたQRコードだけが強く焼きついた。フットサルの練習に向かう夕方まで、時間を見つけて調べてみよう──晴人はそんな漠然とした思いを抱きつつ、講義室を後にした。


――*――


昼食を終えた晴人はキャンパス中央の演習室棟二階、図書館へと足を運んだ。大きな窓際の席に腰を下ろし、レポートの下書きを広げるふりをしながらスマホを取り出す。指先でQRコードを捉えると、画面に小さなポップアップが立ち上がった。


〈Balancio京都支部・臨時面接 本日18:00〜23:00 随時受付〉

〈会場地図を表示しますか?〉


その瞬間、胸の奥で警鐘が鳴るのを感じた。大学生が学費と家賃を賄うために挑むバイトとは思えぬ高額時給。だが“警備”という言葉と、深夜帯の文字列には底知れぬ暗さが含まれていた。スマホの画面を閉じかけたところへ、フットサル部のLINEグループが通知音を鳴らす。


“副部長、今日の練習後、戦術ミーティング頼む!”


晴人は苦笑混じりに返信を打ち込み、開き直るように画面を戻して地図アプリを開いた。


「……ま、行けるかどうかは帰りに決めよう」


心でそう呟くと、QR画面の下に小さく「地図を表示」のボタンが浮かんでいるのが目に入った。晴人は深呼吸してから、それをタップした。


――*――


午後のゼミは統計ソフトRのハンズオン。教授が「共分散行列の次は主成分分析だ」と滑らせるように投影スライドをめくるたびに、晴人の視線は半ば地面のスクリーンに落ち、半ばスマートウォッチに送られてくる振動に囚われていた。画面に「出発準備をはじめましょう」というリマインダーが浮かぶたび、駅から会場までのバス時刻と徒歩時間を反芻する。「フットサル練習には絶対遅れない」「面接なら21時半以降でも大丈夫」という計算を高速で繰り返す自分に、思わず苦笑してしまう。


「晴人、大丈夫か? ため息ばっかりついて」

隣席の友人が気遣うように声をかけるが、晴人は手を振って取り繕うだけだった。


「……ちょっと、家族が来週来るから準備してて」

そんな嘘が、思いのほか自然に口をついて出た。


――*――


夕暮れの鴨川沿いを颯太と共に歩き、オレンジ色に染まる水面を眺めながら、晴人はついに決断を固めた。フットサル練習後の戦術ミーティングは颯太に一任し、自分は途中で抜け出す。一度きりなら、きっと問題は起きない──背徳にも似た高揚感が胸を満たす。


練習が始まると、晴人はゴールキーパーのビブスを受け取った。部員たちは軽口を叩きながらも真剣にパスを回す。だが晴人の内心は浮遊し、華やかなシュートよりも胸に巻き起こる細かな鼓動を感じ取っていた。颯太がボールをかわした際、ゴール裏でひそひそ声が飛ぶ。


「晴人、なんか今日は様子違くね?」

「うーん、面白い話があってさ……あとでな」


笑いを交えてかわしたものの、その言葉で胸の動悸は一層激しくなった。練習が終わる頃にはジャージは汗で重く、空はすっかり群青色に沈んでいた。


「すまん、練習終わったらそのまま帰るわ。ミーティングは頼む」

颯太に軽く告げると、彼は眉根を寄せたものの「一回だけだからな」とだけ言い残して頷いた。


――*――


大学のロッカールームを出ると、時計の針は18時ちょうどを少し過ぎたところ。二人乗りのバス停まで小走りし、停留所でバスを待っている間に汗が冷えていくのを感じた。空は深い紺色に包まれ、夜の帳が下りはじめている。京都駅南口へ着くと、その人の多さに一瞬戸惑ったが、地図アプリを頼りにロータリーを抜け、オフィス街へと足を踏み入れる。赤提灯が揺れる居酒屋の並びを過ぎると、人影はぐっと減り、黒いガラスが重厚な雰囲気を放つビルだけが立ち並んでいた。


建物が近づくにつれ、胸の奥で遠く鈍い警鐘が鳴っている気がした。入口には看板もネオンもなく、夜の暗がりにポツンと黒い影を落としている。自動ドアの前で立ち止まり、ジャージのポケットに仕舞ったスマホを取り出す。もし何かあったら、すぐに110番──指先が汗ばんだまま、右手を伸ばすが、そこには鈍い抵抗もなく、ただ静かな氷のような冷たさがあった。


「……帰ろうかな」


背中に囁く自分の声に、夜気が答えるように冷たい風を吹かせた。そのとき、自動ドアが無音で横にすべり、黒いガラスの向こう側から冷たい空気が流れ込んできた。中に立つのは昼間と同じ、きちんとした黒いジャケットを纏った女性。琥珀色の瞳は光を吸い込み、まるで暗闇に自己発光する鉱石のようにこちらを見据えていた。


「小鳥遊晴人さん。よくいらっしゃいました。道に迷われませんでしたか?」


完璧に名前を言い当てられ、胸の鼓動は止まりそうになる。言葉に詰まりながらも、わずかに微笑みを返す。


「え、ええ……ギリギリ、でしたけど」

女性はにこりともせず、むしろ瞳を細めながら招き入れるように頷いた。


「寒かったでしょう。どうぞ中へ」


帰りたいという本能が喉元までせり上がる。しかし一歩足を踏み入れると、背後でドアが音もなく閉じられ、外界の灯りは完全に遮断された。薄暗いロビーは無言の重みを帯び、「面接」という軽い響きでは到底表現しきれない、硬質で濃密な静寂に満ちていた。晴人は左手首に触れ、脈拍が指先まで跳ね上がるのを感じながら──初めて、“危険”が数値ではなく、実体を伴って喉を締めつけることを知った。


そして、ガラス製の扉が地上の世界とを隔てる一枚の壁となり、静かに閉じた。明かり一つ残らぬ空間の向こうで、彼の運命はゆっくりと動きはじめていた。

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