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英霊の天秤  作者: 徹夜で昼寝
1章ビラと清瀑刀
11/13

4話①

飛騨古川。まだ朝の空気は少し冷たい。山々から流れてくる風が古い町家の屋根をすり抜け、通りを抜けるたびに桜の花びらをふわりと踊らせていく。


空は透き通るように高く、街中には小鳥の声が絶えず響いていた。


その町の一角にある古い木造の家。その引き戸をがらりと開けて、朝の日差しを浴びながら一家が顔を出した。


「さくらー、上着着てけよー」


勇人が言うと、家の中からぴょん、と元気よく飛び出してきた小さな女の子がいた。


「やだー!もう寒くないもん!」


娘のさくらは小学二年生。髪を二つ結びにしていて、白いキャップをちょこんとかぶっている。大きな目がぱちぱちと輝き、どこか笑い出しそうな顔をしている。


「はぁ…。ほら、さくら、マフラーも持っときなさい」


後ろから母親の美咲が現れた。優しくもきりっとした表情の女性で、エプロン姿のままさくらに小さなマフラーを押し付ける。


「えー、いらないってばぁ」


「お母さんの言うこと聞きなさい」


勇人はそんな二人のやり取りを見て、小さく笑った。


「ま、美咲の言うとおりだな。寒くなったら困るしな」


さくらはふくれっ面のまま、しぶしぶマフラーを受け取った。


「おっけー!ほら早くいこー!」


勇人は苦笑しながら、元気いっぱいな娘の後を追う。


春の光が、三人の姿を長く街道に映していた。


飛騨古川の街並みは、春の柔らかい光に包まれていた。伝統的な白壁と黒い格子戸の町家が続き、木々の隙間からは、まだ雪をかぶった北アルプスが遠くに見える。風に乗って、どこか味噌や醤油の香りが漂ってきた。


「ねぇねぇパパ!見て見て!鯉がいるよ!」


さくらが小さな川を覗き込み、手を振った。水は澄んでいて、川底の石の一つ一つまで見える。その中を、赤や白の鯉がゆったりと泳いでいた。


「あぁ、立派だな。さくらより大きいかもな」


勇人が肩を抱えて覗き込むと、さくらはムッと頬を膨らませる。


「やだー!さくらの方が大きいもん!」


「ハハハ、そうだな」


美咲も笑いながら、二人の背中を見守っていた。風が髪を揺らし、光の粒が川面にきらめいた。


「パパ、また写真撮ってよ!」


「おう!」


勇人はスマホを取り出し、さくらと川の鯉を一緒に写真に収めた。シャッター音が軽やかに響き、さくらはにっこりと笑った。


「……ほら、すげぇ可愛く撮れたぞ」


「見せて見せてー!」


「お父さん、さくらの写真ばっかりだね」


「いいじゃないか。可愛いんだから」


勇人はそう言って、美咲にもスマホを見せた。美咲は苦笑しながら、スマホを覗き込み、小さく頷いた。


「うん、いい顔してる」


そのやり取りをしながら、家族はゆっくりと町並みを進んだ。


通りを歩き、街中のスーパーに入ると、店内は昼近い時間で少し混み合っていた。地元野菜のコーナーには、春らしい山菜やアスパラガスが並び、甘い苺の香りが辺りを満たしていた。


「今日は何買うの?」


さくらがカゴを覗き込む。美咲はメモを手に持ち、きりりとした表情で答える。


「うーん、まずお肉。それと人参と玉ねぎと……あ、さくらの好きな苺も買おうか」


「やったー!」


さくらは飛び跳ねるようにして苺売り場へ駆けていく。勇人は慌ててその後を追った。


「おいおい、走るなって」


「パパ見て!大きい苺!」


さくらが抱え込むようにパックを差し出す。苺は鮮やかな赤で、春の陽光を溶かしたように光っていた。


「うわぁ、こりゃうまそうだな。よし、今日は買っちゃおうか」


「ほんと!?ママ!いいでしょ!」


美咲が近づき、苺を一瞥すると、苦笑いを浮かべた。


「しょうがないなぁ……特別ね」


「やったー!」


勇人も苺をカゴに入れると、美咲は小さな声で囁いた。


「……甘やかし過ぎだよ?」


「たまにはいいだろ。さくらの笑顔が一番だからな」


そのやりとりを横目に、さくらは早くも別の棚に興味を示していた。


買い物を終え、古い町並みを抜けて家へ戻ると、台所からいい匂いが漂いはじめた。ガスコンロの上では、美咲がハンバーグを焼いている。ジュウジュウという音が、家の中に心地よく響いていた。


「パパ、エプロン姿似合ってるじゃん!」


さくらがケラケラと笑う。勇人は照れくさそうに、美咲から渡されたエプロンを結び直す。


「いやいや、今日は誕生日だからな。パパも手伝わなきゃな」


「さくらも手伝うー!」


「じゃあ、サラダを盛り付けお願い」


美咲がボウルを差し出すと、さくらは真剣な顔でトングを握り、レタスを皿に乗せ始めた。


「ほら、きゅうりもいれるんだぞ」


「うん!」


勇人は隣で、ハンバーグにチーズを乗せる作業を手伝いながら、美咲の横顔を見た。結婚して八年、こうして三人で台所に立つことが、なによりも幸せだと勇人は思った。


やがて料理が揃うと、テーブルの上はまるで春のお祭りのようだった。苺の乗ったケーキが中央に鎮座し、照りの良いハンバーグ、鮮やかなサラダ、熱々のコンソメスープ。美咲が手際よく配膳を終えると、さくらが待ちきれない声をあげた。


「はやく、ふーってしたい!」


「じゃあ電気消すぞー」


勇人が部屋の電気をパチンと消す。部屋が薄暗くなり、美咲が火をつけたロウソクが、ケーキの上で揺らめいた。


「さくら、お誕生日おめでとう」


勇人がそう言うと、さくらの目がきらきらと輝く。


「ありがとう!じゃあ、ふーするよ!」


さくらが深呼吸をして、ふーっと息を吹きかけた。火が一つずつ消え、暗闇に一瞬、甘い苺の香りが広がった。


パチパチ、と勇人が拍手をする。


「おめでとう!」


「おめでとう、さくら」


美咲もにっこり笑う。


「ふふっ、今日から八歳だもんね。立派になったなぁ」


「パパより大きくなる!」


「おう、頼もしいな!」


笑い声が弾け、家中に幸せの空気が満ちていた。


やがて明かりをつけて、ケーキを切り分ける。真っ赤な苺が断面からこぼれ落ちそうになり、さくらはそれを慌てて口でキャッチする。


「おいしー!」


「ほらほら、ちゃんとフォーク使えって」


勇人が言うと、美咲が微笑む。


「いいの、今日は特別だから」


窓の外では春の風がそよぎ、遠くで山の影が薄青く霞んでいた。


夕食の後、さくらは山ほどのプレゼントに囲まれていた。ぬいぐるみ、文房具、絵本。どれも、さくらの笑顔を思い浮かべながら美咲と勇人が選んだものだ。


「これが一番のお気に入り!」


さくらは、大きな熊のぬいぐるみをぎゅうっと抱きしめた。ふわふわの茶色い毛並みが、部屋の灯りに照らされている。


「名前つけなきゃな」


勇人がそう言うと、さくらは考え込むように眉を寄せた。


「うーん……じゃあ、くまお!」


「くまお、か。いい名前だな」


「かわいいじゃん」


美咲も微笑んで頷いた。さくらはくまおを抱いたまま、ふと窓の外を眺めた。


「夜のお月さま、きれいだね」


勇人も隣に並び、空を見上げた。薄雲の間から顔を出した月は、春とは思えないほど凛と冴えていた。


「さくらも、パパもママも、このままずっと一緒だよね?」


その言葉に、美咲も勇人も、一瞬だけ視線を交わす。


「もちろんだよ」


勇人がゆっくり言うと、さくらはにっこり笑った。


「じゃあ、くまおも一緒だね!」


「そうだな」


幸せに満ちたその瞬間、窓の外からそよいだ風が、カーテンを優しく揺らした。家の中には、スープの残り香と甘いケーキの匂いが、まだ漂っていた。


さくらを寝かしつけたあと、勇人はソファに腰を下ろし、しばらく静かに天井を見つめていた。テレビの音もつけず、ただ家の静けさが心地よい。


美咲はキッチンで片付けをしている。時折、食器が触れ合う音が、静寂の中に小さく響いた。


勇人は、ふと立ち上がり、リビングの窓際へ歩み寄った。薄いレースカーテンの向こうに、街灯がぽつんと光っている。そこにはいつもと変わらぬ飛騨の夜があった。


──そのとき。


勇人の背後に、淡い影が揺らめいた。茶色い、大きな毛並み。熊のように四つ足の巨体。黒い瞳が、深い森のような冷たさで勇人を見つめていた。


しかし勇人は、まったく気づいていなかった。まるで影は、彼の背中の一部のように、ぴたりと寄り添っていた。


風が少しだけ強く吹き、カーテンがはらりとはためく。


だが勇人は、家の平穏な空気に包まれたまま、微笑んだ。


「……いい日だったな」


その横顔は、いつも通り優しかった。


-----


場面は変わり、夜の飛騨古川の街並み。塔矢と晴人が、薄暗い裏通りに立っていた。二人の顔に、街灯の光がぼんやりと落ちている。


塔矢が低く呟いた。


「今回の処置対象は──あの父親だ」


琴音は少し離れた場所に立ち、何も言わず、ただ唇を引き結んでいる。その瞳には、どこか胸を締め付けられるような翳りがあった。


遠く、川の流れる音が夜風に乗って微かに響く。


飛騨の夜は静かだったが、その奥底に、得体の知れぬ緊張が潜んでいた。


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