4話①
飛騨古川。まだ朝の空気は少し冷たい。山々から流れてくる風が古い町家の屋根をすり抜け、通りを抜けるたびに桜の花びらをふわりと踊らせていく。
空は透き通るように高く、街中には小鳥の声が絶えず響いていた。
その町の一角にある古い木造の家。その引き戸をがらりと開けて、朝の日差しを浴びながら一家が顔を出した。
「さくらー、上着着てけよー」
勇人が言うと、家の中からぴょん、と元気よく飛び出してきた小さな女の子がいた。
「やだー!もう寒くないもん!」
娘のさくらは小学二年生。髪を二つ結びにしていて、白いキャップをちょこんとかぶっている。大きな目がぱちぱちと輝き、どこか笑い出しそうな顔をしている。
「はぁ…。ほら、さくら、マフラーも持っときなさい」
後ろから母親の美咲が現れた。優しくもきりっとした表情の女性で、エプロン姿のままさくらに小さなマフラーを押し付ける。
「えー、いらないってばぁ」
「お母さんの言うこと聞きなさい」
勇人はそんな二人のやり取りを見て、小さく笑った。
「ま、美咲の言うとおりだな。寒くなったら困るしな」
さくらはふくれっ面のまま、しぶしぶマフラーを受け取った。
「おっけー!ほら早くいこー!」
勇人は苦笑しながら、元気いっぱいな娘の後を追う。
春の光が、三人の姿を長く街道に映していた。
飛騨古川の街並みは、春の柔らかい光に包まれていた。伝統的な白壁と黒い格子戸の町家が続き、木々の隙間からは、まだ雪をかぶった北アルプスが遠くに見える。風に乗って、どこか味噌や醤油の香りが漂ってきた。
「ねぇねぇパパ!見て見て!鯉がいるよ!」
さくらが小さな川を覗き込み、手を振った。水は澄んでいて、川底の石の一つ一つまで見える。その中を、赤や白の鯉がゆったりと泳いでいた。
「あぁ、立派だな。さくらより大きいかもな」
勇人が肩を抱えて覗き込むと、さくらはムッと頬を膨らませる。
「やだー!さくらの方が大きいもん!」
「ハハハ、そうだな」
美咲も笑いながら、二人の背中を見守っていた。風が髪を揺らし、光の粒が川面にきらめいた。
「パパ、また写真撮ってよ!」
「おう!」
勇人はスマホを取り出し、さくらと川の鯉を一緒に写真に収めた。シャッター音が軽やかに響き、さくらはにっこりと笑った。
「……ほら、すげぇ可愛く撮れたぞ」
「見せて見せてー!」
「お父さん、さくらの写真ばっかりだね」
「いいじゃないか。可愛いんだから」
勇人はそう言って、美咲にもスマホを見せた。美咲は苦笑しながら、スマホを覗き込み、小さく頷いた。
「うん、いい顔してる」
そのやり取りをしながら、家族はゆっくりと町並みを進んだ。
通りを歩き、街中のスーパーに入ると、店内は昼近い時間で少し混み合っていた。地元野菜のコーナーには、春らしい山菜やアスパラガスが並び、甘い苺の香りが辺りを満たしていた。
「今日は何買うの?」
さくらがカゴを覗き込む。美咲はメモを手に持ち、きりりとした表情で答える。
「うーん、まずお肉。それと人参と玉ねぎと……あ、さくらの好きな苺も買おうか」
「やったー!」
さくらは飛び跳ねるようにして苺売り場へ駆けていく。勇人は慌ててその後を追った。
「おいおい、走るなって」
「パパ見て!大きい苺!」
さくらが抱え込むようにパックを差し出す。苺は鮮やかな赤で、春の陽光を溶かしたように光っていた。
「うわぁ、こりゃうまそうだな。よし、今日は買っちゃおうか」
「ほんと!?ママ!いいでしょ!」
美咲が近づき、苺を一瞥すると、苦笑いを浮かべた。
「しょうがないなぁ……特別ね」
「やったー!」
勇人も苺をカゴに入れると、美咲は小さな声で囁いた。
「……甘やかし過ぎだよ?」
「たまにはいいだろ。さくらの笑顔が一番だからな」
そのやりとりを横目に、さくらは早くも別の棚に興味を示していた。
買い物を終え、古い町並みを抜けて家へ戻ると、台所からいい匂いが漂いはじめた。ガスコンロの上では、美咲がハンバーグを焼いている。ジュウジュウという音が、家の中に心地よく響いていた。
「パパ、エプロン姿似合ってるじゃん!」
さくらがケラケラと笑う。勇人は照れくさそうに、美咲から渡されたエプロンを結び直す。
「いやいや、今日は誕生日だからな。パパも手伝わなきゃな」
「さくらも手伝うー!」
「じゃあ、サラダを盛り付けお願い」
美咲がボウルを差し出すと、さくらは真剣な顔でトングを握り、レタスを皿に乗せ始めた。
「ほら、きゅうりもいれるんだぞ」
「うん!」
勇人は隣で、ハンバーグにチーズを乗せる作業を手伝いながら、美咲の横顔を見た。結婚して八年、こうして三人で台所に立つことが、なによりも幸せだと勇人は思った。
やがて料理が揃うと、テーブルの上はまるで春のお祭りのようだった。苺の乗ったケーキが中央に鎮座し、照りの良いハンバーグ、鮮やかなサラダ、熱々のコンソメスープ。美咲が手際よく配膳を終えると、さくらが待ちきれない声をあげた。
「はやく、ふーってしたい!」
「じゃあ電気消すぞー」
勇人が部屋の電気をパチンと消す。部屋が薄暗くなり、美咲が火をつけたロウソクが、ケーキの上で揺らめいた。
「さくら、お誕生日おめでとう」
勇人がそう言うと、さくらの目がきらきらと輝く。
「ありがとう!じゃあ、ふーするよ!」
さくらが深呼吸をして、ふーっと息を吹きかけた。火が一つずつ消え、暗闇に一瞬、甘い苺の香りが広がった。
パチパチ、と勇人が拍手をする。
「おめでとう!」
「おめでとう、さくら」
美咲もにっこり笑う。
「ふふっ、今日から八歳だもんね。立派になったなぁ」
「パパより大きくなる!」
「おう、頼もしいな!」
笑い声が弾け、家中に幸せの空気が満ちていた。
やがて明かりをつけて、ケーキを切り分ける。真っ赤な苺が断面からこぼれ落ちそうになり、さくらはそれを慌てて口でキャッチする。
「おいしー!」
「ほらほら、ちゃんとフォーク使えって」
勇人が言うと、美咲が微笑む。
「いいの、今日は特別だから」
窓の外では春の風がそよぎ、遠くで山の影が薄青く霞んでいた。
夕食の後、さくらは山ほどのプレゼントに囲まれていた。ぬいぐるみ、文房具、絵本。どれも、さくらの笑顔を思い浮かべながら美咲と勇人が選んだものだ。
「これが一番のお気に入り!」
さくらは、大きな熊のぬいぐるみをぎゅうっと抱きしめた。ふわふわの茶色い毛並みが、部屋の灯りに照らされている。
「名前つけなきゃな」
勇人がそう言うと、さくらは考え込むように眉を寄せた。
「うーん……じゃあ、くまお!」
「くまお、か。いい名前だな」
「かわいいじゃん」
美咲も微笑んで頷いた。さくらはくまおを抱いたまま、ふと窓の外を眺めた。
「夜のお月さま、きれいだね」
勇人も隣に並び、空を見上げた。薄雲の間から顔を出した月は、春とは思えないほど凛と冴えていた。
「さくらも、パパもママも、このままずっと一緒だよね?」
その言葉に、美咲も勇人も、一瞬だけ視線を交わす。
「もちろんだよ」
勇人がゆっくり言うと、さくらはにっこり笑った。
「じゃあ、くまおも一緒だね!」
「そうだな」
幸せに満ちたその瞬間、窓の外からそよいだ風が、カーテンを優しく揺らした。家の中には、スープの残り香と甘いケーキの匂いが、まだ漂っていた。
さくらを寝かしつけたあと、勇人はソファに腰を下ろし、しばらく静かに天井を見つめていた。テレビの音もつけず、ただ家の静けさが心地よい。
美咲はキッチンで片付けをしている。時折、食器が触れ合う音が、静寂の中に小さく響いた。
勇人は、ふと立ち上がり、リビングの窓際へ歩み寄った。薄いレースカーテンの向こうに、街灯がぽつんと光っている。そこにはいつもと変わらぬ飛騨の夜があった。
──そのとき。
勇人の背後に、淡い影が揺らめいた。茶色い、大きな毛並み。熊のように四つ足の巨体。黒い瞳が、深い森のような冷たさで勇人を見つめていた。
しかし勇人は、まったく気づいていなかった。まるで影は、彼の背中の一部のように、ぴたりと寄り添っていた。
風が少しだけ強く吹き、カーテンがはらりとはためく。
だが勇人は、家の平穏な空気に包まれたまま、微笑んだ。
「……いい日だったな」
その横顔は、いつも通り優しかった。
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場面は変わり、夜の飛騨古川の街並み。塔矢と晴人が、薄暗い裏通りに立っていた。二人の顔に、街灯の光がぼんやりと落ちている。
塔矢が低く呟いた。
「今回の処置対象は──あの父親だ」
琴音は少し離れた場所に立ち、何も言わず、ただ唇を引き結んでいる。その瞳には、どこか胸を締め付けられるような翳りがあった。
遠く、川の流れる音が夜風に乗って微かに響く。
飛騨の夜は静かだったが、その奥底に、得体の知れぬ緊張が潜んでいた。
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