3話②
春の終わりが近づき、街の風景は少しずつ初夏の気配を帯びてきた。
大学の構内を吹き抜ける風も、どこか湿り気を含み始めていたが、晴人の日々は、その変化に目を向ける余裕もなく過ぎていった。
──波の音。冷たい流れ。
あの日から、彼の頭の奥には常にその感覚が張り付いていた。
どれだけ授業を聞いていても、どれだけピッチを駆け回っていても、意識の一部は常にあの青白い霧の中にいた。
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晴人は、研修棟にほぼ毎日のように通い詰めた。
大学の講義を終えたらすぐに校門を出て、サークルの練習にも顔を出し、汗をぬぐう間もなくバランシオの研修棟へ向かう。
研修棟に足を踏み入れた瞬間、外の空気とはまったく異質な世界が待ち構えていた。
天井の蛍光灯は鋭い白光を放ち、壁のコンクリートが冷たく沈んでいる。
金属の扉が開くたび、霊力充填室からは青白い霧がゆらりと漏れ出た。
その霧の重みは、初めて足を踏み入れたときよりもいっそう濃く感じられた。
塔矢は、相変わらず無駄のない動きで札を晴人の前に差し出した。
「今日もやるぞ、小鳥遊」
「はい」
札は、相変わらず冷たく硬い。
だが、晴人の中には確かに変化があった。
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──二週目の半ば。
札を握りしめた晴人の指先に、微かに熱が集まる感覚があった。
波のように胸の奥で脈打つものが、指先まで伝わりかける。
霧の中で、朱色の光がかすかに明滅した。
「……今のは……」
塔矢が目を細めた。
「確かに霊力を流せるようにはなっている。だがまだ一瞬だし、量も少ないな」
その夜、晴人は深く息を吐いた。
──届きそうで、届かない。
あの微かな光が、彼の中に次の目標を刻み込んだ。
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一方、その頃。
訓練室には他の研修生たちも集まり、黙々と札に向き合っていた。
真壁は、相変わらず札に向かって大声を張り上げていた。
「出ろォォォ!! いい加減光れってんだよ!!」
だが札は無情に沈黙する。
「クソッ……!」
真壁は頭をかきむしった。
短髪の少女も、額に汗を浮かべて札を見つめていた。
「……どうしても、感覚がわからない……」
それぞれの顔には、焦りと苛立ちが刻まれていた。
だが、誰も諦めなかった。
霧の中で、全員が自分自身と孤独に向き合い続けていた。
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三週目。
晴人の変化は、少しずつ確実に現れていった。
霧の中で目を閉じると、波の音が鮮明になった。
──寄せては返す冷たい水の感触。
それが、確かに胸の奥で脈打つのを感じた。
塔矢の声が、耳元で低く響く。
「その感覚を、流し込め。お前の中にある霊力を、札に注ぎ込むんだ」
晴人は深く息を吐いた。
右手に札を握り、左手をその上に添える。
集中しすぎて、汗が頬を伝う。
──いけ……!
次の瞬間。
札が小さく朱色に光り、パチリと火花を散らした。
「……っ!」
塔矢が頷く。
「悪くない。もう一歩と言ったところだな」
⸻
その夜、晴人は自室のベッドに倒れ込み、天井を見つめた。
あの朱い光が脳裏に焼き付いて離れなかった。
──あと少し。絶対にやれる。
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四週目のある夜。
いつもの訓練室。
青白い霧が、まるで液体のように部屋を満たしていた。
晴人は札を握り、目を閉じる。
──波の音。
その音は、もはや遠くではなく、自分の内側から鳴っているように思えた。
深く息を吸い、霊力を流し込む。
その瞬間。
札の中心から、確かな炎が噴き出した。
朱い光が、霧の中で踊るように揺れた。
「……やった……!!」
思わず叫びそうになったその瞬間。
世界がぐにゃりと歪んだ。
霧が一気に晴人にのしかかるように重くなる。
空気が、倍以上の密度で肺に入り込んでくる。
札に霊力を流せるようになった途端、晴人は霊力を感じられるようになった。そのため部屋に満たされた以上な量の霊力を知覚できるようになり、今までの感覚とのギャップに身体が追いついていないのだ。
頭の奥がズキリと痛む。
「──うっ……!これが、霊力…」
胃の奥がきりきりと締めつけられる。
吐き気が喉元まで込み上げる。
けれど、吐きはしなかった。
青白い霧が、まるで生き物のように彼を絡め取る。
塔矢の声が飛ぶ。
「小鳥遊! 息を整えろ!!」
晴人は必死に肩で息をし、やがてなんとか持ちこたえた。
「す、すみません……」
塔矢は短く首を振った。
「それでいい。それが“感じられた証拠”だ。ここから慣れていけばいい」
その翌日からの数日間、晴人は再び自分の霊力と向き合い続けた。
塔矢の言葉が脳裏を支配していた。
──術師とは、感じるだけでは駄目だ。制御しなければならない。
青白い霧の中、晴人は自分の内に湧き上がる波を、少しずつ少しずつ制御しようとしていた。
札を握る手の平には、初めて触れたときの冷たさがもうなかった。
代わりに、淡い熱がそこにあった。
波の音が、よりはっきりと、確かなものとして彼の胸を満たしていく。
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五週目のある夜。
札を持った晴人の周囲の霧が、微かに揺れた。
波の音を追いかけるように、晴人は呼吸を整える。
──今度こそ。
霊力を送ると、札の中央に朱い光が生まれた。
炎はふわりと揺らめき、そしてそのまましばらく留まっていた。
塔矢が静かに口元を緩めた。
「……ようやく安定してきたな、小鳥遊」
晴人は息を荒げながらも、小さく笑みを漏らした。
今までは術式を発動できたりできなかったりしたが、最近は安定して術式を発動できるようになってきた。
「やった……」
その炎は、最初の頃のようにすぐに消えたりはしなかった。
短い時間だが、確かに灯り続けていた。
塔矢が言った。
「だが、この火種はあくまでお前が扱える霊力量の“上限”だ。お前はまだ、わずかな量しか外へ出せていない」
晴人は真剣な表情で塔矢を見た。
「どうしたら、もっと出せるようになりますか」
塔矢の視線が鋭くなる。
「それが次の課題だ」
霊力充填室の片隅で、塔矢が呟く。
「霊力を感じられるだけでは駄目だ。扱える“総量”が増えなければ、霊装は形にならん」
真壁が塔矢を見上げた。
「それって……どういうことなんすか」
塔矢は冷たい目をして言い放つ。
「霊装とは、術師自身の魂の形だ。だが魂を外に出すという行為は、つまり命を削る行為でもある。だから扱える霊力の“総量”を増やす必要がある」
塔矢はきっぱりと言った。
「扱える霊力の総量を増やす訓練はそう複雑なものじゃない。単純により多くの霊力が必要となる術式が刻まれた札に霊力を流し込むだけだ。その工程を繰り返して総量を上げていく。ある程度の術式が扱えるようになったら霊装を発現できる」
晴人は息を呑んだ。
──霊装……。
塔矢の剣を思い出す。
あの美しい朱の刃を、自分の手で作れる日が来るのだろうか。
⸻
その頃。
訓練室の他の仲間たちの苦闘は続いていた。
真壁は床に両手をつき、荒く息を吐いていた。
「出ろォォォォォ!!」
札を掲げた彼の声が訓練室に響く。
だが札は、一向に火を灯さなかった。
短髪の少女は、壁際に寄りかかり、目を伏せていた。
「……私、本当に霊力があるのかな」
汗が顎から滴り落ちる。
晴人だけが進んでいく現実が、彼らを焦らせていた。
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夜遅く、訓練が終わった後。
晴人は、研修棟の外に立っていた。
夜風が冷たく肌を撫でる。
霧に満ちた研修室とはまるで別世界のような、穏やかな夜の匂いが漂っていた。
──やれるはずだ。
疲労で足は重かったが、晴人は拳を握りしめた。
⸻
そして研修開始から一ヶ月半。
訓練室の空気は、以前よりずっと鋭く張り詰めていた。
青白い霧が渦巻き、微かに鈴のような音が空間を満たす。
晴人は札を手にし、深呼吸した。
──波の音は、もうすぐそばだ。
左手で札を支え、右手の指先に意識を集中する。
呼吸を整え、波の脈動を引き上げる。
霊力が指先から札へと流れた。
朱い光が、鮮やかに札の中央で弾けた。
「……っ」
その炎は以前より大きく、全く消えなかった。
安定した光が、霧の中で揺らめき続ける。
塔矢が目を細める。
「──いいぞ、小鳥遊」
晴人は汗だくになりながらも、札を見つめ続けた。
「……できた、ちゃんと……」
塔矢が重々しく頷いた。
「お前は、次の段階に進む」
晴人が息を呑む。
「次……?」
塔矢はゆっくりと言葉を続けた。
一方、部屋の隅では真壁が膝に手をつき、荒く息を吐いていた。
「くっそ……何でアイツだけ……」
短髪の少女も、唇を噛み締めていた。
「私だって……やれるって思ってたのに……」
その瞳には、涙がにじんでいた。
だが二人とも、諦めたわけではなかった。
真壁は拳を握りしめる。
「オレだって……必ず光らせる」
短髪の少女も頷いた。
「……私も……!」
⸻
訓練が終わり、塔矢は晴人を呼び止めた。
「小鳥遊」
「はい」
塔矢は淡く笑みを浮かべた。
「お前、もう札は使えるようになったな」
「はい」
塔矢はポケットから別の札を取り出した。
「なら──実際にBalancioがどんな現場で動いているか、見学してみるか?」
晴人は目を見開いた。
「……現場、ですか?」
塔矢は瞳を細めた。
「まずは俺たちがどんな仕事をしているのか実際に見て確かめて欲しい」
青白い霧が、まるで未来を告げるように波打った。
晴人は強く息を吸い込んだ。
──ついに、現場に……。
そして、彼の目の奥に小さな光が灯っていた。
研修棟の霊力充填室を出た直後の廊下には、ひやりとした空気が満ちていた。
塔矢は足を止めると、静かに振り返った。
「小鳥遊。お前には、現場を見せる価値があると思っている」
晴人は思わず息を詰めた。
「現場……って、どんなところに行くんですか」
塔矢は一瞬だけ視線を伏せた。
「バランシオの本当の仕事を知る場所だ」
青白い蛍光灯の下、その声はやけに冷たく響いた。
「過剰魂量災害を鎮圧するのが俺たちの任務だと、オリエンで言ったな」
「はい」
塔矢は短く息を吐いた。
「だが、あれは言葉で説明できるものじゃない。現場に立ったとき、初めて自分が何と向き合っているかを知る」
晴人はそっと掌を握りしめた。
──過剰魂量……。
あの言葉を聞くたび、塔矢の霊装の剣を思い出す。青白く輝き、まるで生き物のように波打っていた刃。
自分もあれを生み出せるのか。
それとも、自分には遠い世界の話なのか。
塔矢の視線が鋭く突き刺さる。
「現場に行きたいか、行きたくないか──お前に選ばせる」
晴人は深く息を吐き出し、そして力強く頷いた。
「行きたいです」
塔矢の口元に、わずかに笑みが浮かんだ。
「なら決まりだ」
塔矢は内ポケットから黒いカード型端末を取り出し、指先で素早く操作した。
「近々出動予定の現場がある。処置が必要な場所だ」
晴人は息を呑んだ。
「……戦うんですか」
「今回は戦わないし、お前は見学だ。ただし、お札を使えるようになった以上、多少の簡易術式補助を任せる可能性はある」
塔矢の言葉が一層重みを帯びる。
「ただし──その場で何が起きても不思議ではない。それを忘れるな」
晴人は拳を握った。
「はい……!」
塔矢は踵を返す。
「詳しい日時は追って連絡する。それまでに体調を整えておけ」
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研修棟の外に出ると、夜風が冷たく顔を撫でた。
街灯が研修棟の壁を橙色に染め、遠くで電車の音がかすかに響いていた。
晴人は深く息を吐いた。
──現場……か。
胸の奥で、再び波の音が寄せては返す。
だが今は、それが以前ほど恐ろしくはなかった。
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翌日。
大学のキャンパスは、変わらず賑やかだった。
新緑の木々が風に揺れ、ベンチでは学生たちが談笑していた。
晴人は食堂でカレーをかき込みながら、ぼんやりスマホを眺めていた。
「おい、またバイトか?」
颯太が向かいの席に腰を下ろした。
「え?」
「お前、最近ずっとスマホ眺めてるだろ。どーせまた怪しいバイトなんだろ」
「怪しくねーよ」
「じゃあ言ってみろよ」
晴人は無言でカレーを口に運んだ。
颯太はため息をついた。
「……マジで心配なんだけどな」
「大丈夫だから」
「お前が大丈夫って言うとき、大抵大丈夫じゃねーんだよ」
颯太の声には、どこか本気の不安が滲んでいた。
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その日のフットサルサークルの練習でも、晴人はどこか集中できずにいた。
ボールが自分の足元に転がってきても、反応がワンテンポ遅れる。
「晴人、どこ見てんの!」
鋭い声が飛んだ。
振り返ると、鈴音がビブスを握りしめて立っていた。
ポニーテールが風に揺れ、ダークブラウンの瞳が真剣に晴人を射抜く。
「最近さ、顔色悪いし、動きも鈍いよ。なんかあった?」
「別に」
「……嘘」
鈴音は腕を組んだまま、少し黙り込んだ。
やがて息を吐き、柔らかい声で言う。
「言いたくないなら、無理に言わなくてもいいよ。でも、ちゃんと戻ってきて。今の晴人じゃ、ピッチに立ってる意味ない」
その言葉に、晴人は目を見開いた。
──戻ってこい。
それは、霧の中で自分を呼んでいた声とはまるで別の、あたたかい響きだった。
晴人はゆっくり頷いた。
「……わかった」
鈴音は口元に小さな笑みを浮かべた。
「よし! じゃあ切り替えていこう。深呼吸!」
晴人は笑いながら、彼女と一緒に深呼吸をした。
やがて再びボールを追いかける頃には、体の動きがいくらか戻っていた。
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だが、頭の奥では常に波の音が鳴り響いていた。
──現場で、何が待ってるんだろう。
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今晩もう一話更新するかもしれないです。