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英霊の天秤  作者: 徹夜で昼寝
0章プロローグ
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プロローグ

葉桜市の郊外、広大な工業団地の空が、不気味に軋んだ。


空気は静かで、虫の鳴き声さえ遠ざかっていた。そこに立ち尽くす、一人の青年。


彼の名は記録に残らない。名もなき術師のひとり。だが、その目は絶望に沈んでいた。


灰色のコンクリート地面に、複雑に輝く光の輪が刻まれている。人払いの結界だ。半径五百メートルの範囲内に、一般人の姿は無い。近づこうとする者は、本能的に足を止め、ここを避けてしまう。


それでも術師の耳には、遠くから救急車のサイレンがこだまするように聞こえていた。それが今後どれほど無意味な音になるかを、彼だけが知っていた。


目の前では、ひとりの少女が立っていた。年の頃は十五、六。淡い黄色のパーカーを羽織り、風に髪を揺らしている。顔は血の気を失い、瞳はひたすら虚空を見つめていた。


その背中から、巨大な霊体が出現していた。


――守護霊。


全身が白銀の光を帯びた、人型とも獣型ともつかぬ異形。それが少女の背へ、ゆっくりと沈み込むように溶けていく。霊力の奔流が、少女と守護霊を完全に一体化させようとしていた。


守護霊の同化。


術師が最も恐れる現象だった。


それは宿主に不死性をもたらす。だが、同時に世界の天秤を狂わせる。魂の均衡が崩れれば、世界はその歪みを正すために、ある存在を生み出す。


天使。


一陣の風が吹き抜けた。


空が裂けるように、鋭い音が響いた。青空に、黒い亀裂が走る。


その奥から、幾何学的な構造物が現れた。立方体、多面体、光輪――全てが歪に繋がり、無機質な機械のように蠢いている。


天使の姿は、一般人には見えない。人払いの結界の中にいる術師だけが、その異形の存在を知覚できた。


天使の大きさはおよそ二・五メートル。淡い霊光を放ちながら、ゆっくりと地上へ降下を始めた。その動きは、重力すら従わせぬような、静謐で冷酷なものだった。


青年の肩が小刻みに震える。


「まさか、本当に……」


天使の降臨。それは世界が均衡を取り戻すための、最終的なシステム。


その背後で、少女の同化が完全に終わった。


守護霊の光が少女の体へ吸い込まれ、霊体の輪郭は消えていった。少女は目を伏せたまま、まるで意識を失ったように立ち尽くしている。


そして、天使が地面に着地した。


その瞬間、空気が振動した。だが爆発も衝撃も起こらない。周囲はただ静まり返っていた。


青年の通信機が、けたたましく鳴り響いた。


「葉桜支部より各支部へ! 大災害発生を確認! 場所は――イタリア・フィレンツェ市街!!」


通信の向こうの声は、悲鳴にも近かった。


「現地でマグニチュード六・九の地震が発生! 歴史的建造物が多数崩壊! 死傷者数は数千規模の恐れあり!」


青年の目から、光が失われていった。


天使は、一切攻撃を加えることなく、ただそこに降り立っただけ。だが、それが引き金となって世界の別の場所で、途方もない犠牲が生まれる。


「……ごめんなさい……」


青年はかすれた声で呟く。


自分が止めるべきだった。同化を未然に防げていれば、天使の降臨も、大災害もなかったはずだ。人々も、救えたはずだった。


だが現実は、あまりに残酷だった。


通信機の向こうで、さらに報告が続く。


「フィレンツェの火災発生! ウフィツィ美術館が炎上中! 街全域に避難勧告! ――繰り返す、大規模火災発生!」


青年の足元に、ひときわ強い風が吹き付けた。天使の光輪が回転を止め、ただ無機質に彼を見下ろしている。まるで、すでに全てを終わらせたと言わんばかりに。


「……ごめんなさい。……俺のせいでっ、ごめんなさい!」


涙とも汗ともつかぬものが、青年の頬を伝う。


霊力で満ちた結界の中、焼けるような白い光が、一瞬彼を照らした。


守護霊と同化した、死ぬはずだった運命の少女だけが安らかに寝息を立てていた。


世界の天秤が傾く音が、耳の奥にいつまでも響いていた。

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