公爵上邸・社交室――犯人は大義名分を失う
「アルケ、君、背が低くなった?」
「あなたがまた、背が伸びたのよ、カロス」
アルケは溜め息を吐いて、手にしたレースの扇で、婚約者の肩を軽く叩いた。「もう、わたしを見下ろすのはよして」
「君はそうされるのが苦手なのに、災難だね。皇女だから、すぐに誰かが椅子を用意するんだもの」
「そうよ、だからはやいとこ、わたしをこの苦境から救い出して頂戴。あなたと結婚して、辺境伯の奥さんになったら、こんな扱いはうけないですむかもしれないから」
アルケはいいながら、トゥリア邸の使用人が用意した椅子へ腰掛けた。社交室はひろすぎず、居心地のいい場所だ。壁の一部に本棚がしつらえられ、絵本から辞典まで、多くの本が並んでいた。
トゥリア邸の社交室には、昼食会に参加する予定だった六人が集められている。ここに足止めされているのだ。
スピラが横たえられていた長椅子は、布で覆われているが、そのままだ。それ以外も、昨日スピラが発見され、治療が行われて以降、ほとんどそのままになっている。
先程、カロスと一緒に検分した。座面にはたしかに血がついていたが、ほんの数滴だった。座面が明るい色だったことと、怪我人の治療になれているスピラの父だから気付いたのだろう。そうでなかったら、見落としていたかもしれない。
床には血はないが、絵本には一箇所、なすりつけたように血がついていた。これはおそらく、スピラが本を読んでいてそのまま寝入ってしまったように見せかける為に、犯人が本を持たせた時、犯人の手から移ってしまったものだろう。
「最初にいっておきますが、スピラ嬢を傷付けた犯人はこのなかに居ます」
アルケがなんの前置きもなしにいうと、六人はそれぞれ、びくついたり、血の気を失ったり、口を半開きにしたりした。アルケは扇を開き、ぱたぱたと動かす。こういうのは、あんまり得意ではないし、いい気分でもない。ただ姉のいうとおり、皇女から直々に沙汰があったほうが、犯人が納得して捕まるだろうと思ったから、こうして来ているだけだ。
「余計な疑念が残らないように、ここではっきりさせましょう。宜しいですね?」
反対の声などあがろう筈もない。六人が顔色を悪くしながらも、それぞれに同意を示したので、アルケは溜め息を吐いた。
「おさらいしておきましょう。スピラ嬢はそちらの長椅子に仰のけになって、右手を胸の辺りに、左手で絵本を開いて顔に被せるようにして、見付かった。カロス」
「うん」
カロスが長椅子へ向かい、アルケがいったとおりの格好になる。本は、同じような大きさの、別のものだ。スピラがひろげていたような、豪華できらびやかな装丁のものではない。
アルケは席を立って、そちらへ向かった。扇をたたみ、カロスの腰の辺り示す。「傷があったのは腰。背骨のすぐ右側です」
「アルケ、僕はいつまでこうしてたらいいの」
「わたしがいいというまでよ」
「はーい」
アルケは扇で、自分の腰を示した。六人を見る。
「この辺りね。このことから、オーケアノス卿とアルベロ殿下は、除外していいでしょう」
名前のあがった貴公子ふたりは、ほっとしたように息を吐いた。女性陣の顔色がなお、悪くなる。
アルベロが大きな手を挙げる。
「殿下、無礼なのは存じていますが、訊かせてください。自分が除外されるのは何故でしょう?」
「アルベロ殿下、あなたは誠実なひとなのですね。あなたのような真面目なかたに、絵を描いてもらいたいものですわ」
「幾らでも」
アルベロがお辞儀する。アルケはそれに、やわらかい声でいった。
「ではわたしも、無礼を承知でいいましょう。あなたがたはスピラ嬢に求婚して、断られたことのあるひと達です。この社交室はひろくなく、彼女が幾ら本に集中していたとしても、あなたがたが這入ってくれば気付くでしょう。求婚を断った相手に、背を向けるでしょうか?」
「……あ」
「それでなくとも、彼女は第一皇子との婚約が決まり、醜聞は絶対に避けたい時期です。あなた達とふたりにならないように、あなた達が這入ってきたのとは反対の出入り口から出ていくでしょうね。それも、礼を失しない程度の挨拶をしたら、即座に」
納得したのだろう、アルベロは丁寧なお辞儀をした。
アルケは右手で持った扇を、左手へぶつける。
「さて、同じような理由で、犯人はもう特定されてしまいます。ジェナー嬢、ローディナ、ミナ。あなたがたはさほど、スピラ嬢と親しい訳ではなかった。そしてスピラ嬢は、ひととの接触が苦手だった。親しみをこめての抱擁も、彼女はいつだっておざなりでしたし、階級が下の人間からそれを求められないことを喜んでいた。冗談めかして、と彼女の兄達は語りましたが、実際ありがたがっていたのでしょう。フォグ卿の見立てによると、彼女は内臓の一部が弱く、その所為で継続的に脇腹に痛みがあった。抱擁は文字通り苦痛だったのです。避けられるなら避けた。ああ、男性から抱きしめられることも、彼女は避けたでしょう。以前はアルベロ殿下の抱擁は避けられなかったかもしれないけれど、今なら大丈夫です。彼女は第一皇子の婚約者なのですから」
「殿下」
――アルケと、絵本で顔を覆ったカロス以外の全員の目が、一点を見た。
名前を呼ばれなかったエリミアが、顔面蒼白になっている。その目はアルケを見ているようで、見ていない。
アルケはそれを、憐れに思いながら、小さく頷く。
「エリミア、あなたに抱きしめられるのは、幾らスピラ嬢でも拒まなかったでしょう。彼女はあなたを姉のように慕っていた。あなたはスピラ嬢を抱きしめて、腰に凶器をつきたてたのですね」
「違います」
「では、彼女が背を向けた時に襲ったのかしら。どちらにしても、あなたしか犯人は居ないようですが。ジェナー嬢、ローディナ、ミナに、スピラ嬢が背を向けたとは思えません。ローディナとミナは第一皇子の婚約者候補として、競った仲です。表面上なにもなくとも、心の底ではどう思われているか、ひとの心の機微に聡いスピラ嬢にはわかったでしょう。ジェナー嬢も含め、三人ともスピラ嬢よりは階級が低いですから、彼女は長椅子を立ちもしなかった筈。せなかは背凭れにくっついていて、安全です」
「違います! わたしではありません!」
エリミアが叫び、がくっと座り込む。アルケは扇を開いて、口許を覆った。どうにも顔をしかめてしまう。
「怪しい人間ならほかに居るではありませんか? 凶器になりそうなペンを持っていたひとが」
「ローディナの持っていたガラスのペンは、ひとを刺せば折れるようなものです。スピラ嬢の傷口からはなにも見付かっていない。アルベロ殿下の釘は布を木枠に固定する為のものでごく短く、傷口の深さと一致しない。ミナの杼は角がない。ジェナーの持っていた裁縫道具からは血が検出されていません。オーケアノス卿の羽根ペンは、とてもではありませんが、ひとの皮膚を貫通するような強度はない。布なら尚更です」
「え?」
ミナが素っ頓狂な声を出した。「ドレスには穴がなかったと聴きました。布をまくって、それで刺したのでは?」
「ミナ、怪しまれずにそんなことをできる人間はここには居ません。スピラ嬢のドレスの裾をまくる? 彼女がそんなことをされて、刺されるまで大人しくしていたとでも? お医者さまならできたかもしれませんね」
「……そ、それは、たしかに、そうですね」
「ですから、犯人は彼女を、ドレスの上から刺したのです」
「でも……」
レースあみをたしなんでいるミナは、そこで気付いたようだ。まっさおになって、エリミアを振り返る。
「ま……まさか、針で? エリミアさま、レース用の針で刺したのですか? オヤ用の針で」
エリミアが項垂れた。
アルケはテーブルから、侍女に用意させた包みをとりあげ、開いた。長い針がそこにはある。レースでも、オヤという、縁飾りなどにつかわれるものをつくる為の針だ。そのなかでも特に長いものである。
「あなたが持っていたレース用の針のなかで、一番長いものは、これよりも少し長いそうですね。スピラ嬢はそう大柄ではないし、痩せていた。この針なら、彼女の腰に刺せば、簡単に内蔵まで達するでしょう。糸をつけておけば、ひっぱってぬくのも簡単です」
アルケは針を包み直し、テーブルへ置いた。
「あなたはスピラ嬢が、朝はやくにここで本を読む習慣があるのを知っていた。でも、計画していたのではないでしょうね。たまたまひとりになってしまったし、スピラ嬢もたまたまひとりきりだった。魔が差した、というやつです。あなたは手袋を外し、たまたま持っていたレース用の針をとりだして手に隠すように持つと、いつものようにスピラ嬢に抱擁を求めた。スピラ嬢はそれに応じ、あなたは彼女の腰に針をつきたてた。糸をひっぱって針をぬき、彼女を長椅子へ仰のけにして、本を読んでいるように工作して外へ逃げた。外には池があります。そこで手と針を洗ったのでしょう」
「わ。わたしじゃない。わたしじゃない」
「でもね、エリミア、不自然なことが沢山あるのです。あなたはあの朝、社交室にスピラ嬢が居なかったから、彼女の父親に挨拶をしに行ったそうだけれど、ならわざわざ外に出る必要はないじゃない。廊下へ行って、執務室へ向かうのが普通だと思います」
「それは……」
「それから、針はまとめて布に包まれ、糸はついていなかったそうだけれど、それもおかしなことですよね? 手巾にレースをつけている最中だったのに、それから針を外すというのは。もしかしたらあなたは、手巾についたレースをつくる最中だった針をつかったのかもしれないですね。針の数は侍女が覚えているでしょうから、洗って戻すしかないけれど、血のついた糸は捨ててしまえばいい。はさみがなくても、糸なら歯で嚙みきれます」
「ねえ、アルケ、僕を忘れてない?」
カロスがいい、皆がそちらを見た。アルケは苦笑いする。
「忘れていないわ。丁度いいところ。皆さん、スピラ嬢はどちらの手をつかって文字を書いていますか?」
「左です、殿下」
ローディナが答えた。アルケは頷く。オーケアノスがいった。「あれ? おかしくはないか。スピラ嬢が左利きなら、本は右手で持つのでは? 左手で頁をめくるのだから」
「あなたがたは、そう考えるでしょうね。ですが、スピラ嬢が本を読むところを見慣れていた使用人達は、犯人がした工作に違和感を持たなかった。スピラ嬢は左利きだけれど、本を読む時は左手で持って、右手でめくるのです。それを知っているのは、家族と近しい親戚、それから親しい友人くらいです。つまり、家族と親戚以外では、エリミアくらいということ」
いいわよ、というと、カロスは起き上がった。「苦しかった」
「ありがとうね。そうそう、こうやって顔を隠すのも、親しい人間が犯人の場合はよくすることだそうです」
「でも……」
ジェナーがエリミアを、横目で見る。
「おかしな話ではありませんか。スピラ嬢とエリミアさまは親しくしていて、こんな、殺そうとするなんて」
「そうです。エリミアさまはスピラ嬢がどんなに……要領が悪くても、根気強く付き合っていたんですよ。どうして殺そうとする訳がありますか」
ローディナも同意を示す。アルケは頭を振った。
「動機はわかりませんが、機会と道具は彼女にしかありませんでした。彼女に訊くしかないでしょうね。エリミア、話してくれますか?」
「……こんなのは不公平ですわ」
エリミアは項垂れたまま、ぼそぼそといった。
「あの子はあんなにどんくさいのに、あんなに要領が悪いのに、殿下の婚約者になって。それも、おばあさまにお願いしたというから、わたし、かっとなったんです」
「なんですって?」
思わずききかえすと、エリミアは顔を覆ってすすり泣いた。
「わたしが、おばあさまに頼んだのかって訊いたら、彼女は認めました! だから、公爵家の不正を知ってしまったとおそろしくて、それに彼女にはそういうものがあってずるいと思って、だってわたしのほうが成績がいいし、彼女には魔法力と竪琴しか」
「エリミア、くわしい選考基準は話せませんが、彼女がなにか不正な手段で以て選ばれたということはありえません」
「え?」
エリミアは顔をあげ、ぽかんとする。
「でも……でも、彼女が認めたの、おばあさまに頼んだと」
「そういった余地のない選考基準である、ということだけ、あなたに伝えておきます。ついでにいえば、彼女のおばあさまは半年前から領地で療養中で、お体は至って元気ですが、少々ぼんやりされています。今は、子どものような言動をされており、皇帝というものがなんなのかもよくわからない状態だとか」
エリミアは床へ伏せ、声をあげて泣きはじめた。