宮廷・第三皇女の居室――姉と妹は推理する
「また厄介ごとだね」
「そうですね」
妹へそう返してから、ベッドの上の第三皇女ソフィアは、顔をしかめた。むくみっぽい手で、頬に落ちてくるかがやくばかりの銀髪を後ろへ流し、妹をきつく睨む。
「アルケ、もっとお行儀よくできないのですか? 落ち着きがないのだから」
「ねえさまはもう少し砕けたものいいできないの。実の妹に対して、堅苦しいのじゃない」
ベッドの傍、豪奢な彫りの施された椅子に腰掛け、脚をぶらつかせる第五皇女アルケは、平然とそう返す。ソフィアの眉間の皺が深くなる。
「あなたのは皇女として相応しい喋りかたではありません」
「いいの。わたし、辺境伯に嫁入りするんだから」
「辺境伯をなんだと思っているのです? きちんとした歴史のある、重要な家柄なのですよ、ヘプタ家は。あなたがそんな心持ちで嫁いだら、大変なことに」
「はいはい。今はカロスのお家のことはどうでもいいでしょ。スピラ嬢のことをなんとかしなくちゃ」
アルケは腕を組み、口をへの字にした。足裏を椅子の脚にかかった横木にひっかけ、膝に両肘をついて、掌に顎をのせる。皇女殿下には相応でない、実にお行儀の悪い座りかたに、ソフィアはまた顔をしかめた。注意しようと口を開くと、その前に、妹がいう。
「あの優しいスピラ嬢が、どうして傷付けられたのか、ねえさまならもうわかってるんじゃないの」
事件発覚は前日、朝はやくのことだった。
スピラ・トゥリアは、上邸の社交室で倒れているところを、使用人に発見された。
見付けたのは朝の掃除をしていた少女ふたりで、はじめ、お嬢さまがお好きな本を読んでいて、そのまま社交室で寝込んでしまった、と思ったそうだ。スピラは社交室にある長椅子の上で、眠っているような格好だった。仰のけで、右手を胸の辺りに、左手で、ほんの十数頁しかない、豪華な装丁の小さな絵本を開いて、顔に被せるようにしていた。
彼女が社交室の長椅子で、本を読むのは、よく見る光景だったらしい。スピラが日の出前に社交室に這入っていて、使用人が掃除にやってくると、こうすればよかったわと含羞むようにいいながら、本を持って部屋へ戻っていく。そんなことが、何度もあった。そういう時、スピラは侍女もつけないそうで、それで慣れているので、使用人達はスピラが長椅子で寝ていても変に思わなかったのだ。
使用人達は窓を開けて、掃除の邪魔になるお嬢さまを、とりあえずお部屋へ行ってもらおうと、起こそうとした。声をかけながら絵本をどけると、庭へ面した窓からさしこむ弱々しい朝日をうけたスピラは、尋常な顔色ではなかった。少女の片方は、お嬢さまが急病になったと慌て、もう片方は家族が突然倒れて亡くなった経験があるとかで、判断がはやかった。即座にスピラの父を呼んだのだ。
スピラの父は弱いものだが回復魔法をつかえたので、スピラの治療は迅速に行われた。スピラは少女達の見立て通り、怪我をしていた。
単に転んだり、年頃の娘らしく気を失ったりした、その拍子に、頭を打ったのではない。回復魔法をつかえる為、怪我人の治療を何度もしてきたスピラの父が、証言している。娘は仰のけに倒れていたが、抱え起こすと長椅子の座面に血がついていた。治療をしながら使用人にたしかめさせると、ドレスの腰の部分に血がにじんでいた、と。
弱いものといっても回復魔法は回復魔法なので、止血はすぐにできた。その間に医師や、回復魔法をつかえる者達が呼ばれ、スピラは容態が少し安定した段階で、宮廷へ担ぎ込まれた。
彼女はつい先日決まった、第一皇子の婚約者だ。皇帝が、絶対に救うようにと、めずらしく強い調子で命じている。ソフィアもアルケもそれを直に目にしてはいないが、兄達のなかでも特に妹達に甘い、第三皇子のエリュトロンから、くわしい話を聴いていた。「陛下はご立腹だそうね」
「当然です。第一皇子の婚約者を選ぶ試しを侮辱されたのと同じですからね。それに、このようなことがまかりとおったら、第一皇子の婚約者になりたがる娘が居なくなってしまう」
「婚約者になったと思ったら、殺されそうになるのだものねえ」
アルケは溜め息を吐く。流石の元気者でも、将来の兄嫁が傷付けられたとあっては、そうはしゃいだままではいられない。
それにアルケは、スピラのことを好いていた。あまり要領はよくないし、成績も振るわないが、大概はにこにこしていて朗らかな彼女が、好きなのだ。面白い本を教えてくれたし、一緒に虫取りをしてくれたこともある。遊びに何度付き合ってくれたかわからない。
それに、スピラは、ソフィアが伏せってすぐの頃、慣れない手芸で手を傷だらけにしながら、レース飾りの美しい手巾をつくって、贈ってくれた。ソフィアがレース好きだからだ。職人へ命じれば幾らでも綺麗なものを用意できるけれど、スピラは自分でつくることを選んだ。そこに、彼女の気持ちがあらわれている。
今現在、宮廷では、スピラの懸命な治療が行われている。ソフィアの主治医であるフォグ卿が指揮を執り、ソフィアの学友でもあるリョートが薬をつくっていた。
傷は完全に塞がっている。だが、彼女はまだ目を覚ましていない。出血はたいした量ではなかったが、傷のできた場所がよくなかったのだ。死ななかったのが幸運だった、と、フォグ卿がはっきりおっしゃっている。
回復魔法をかけ、医師達が決めた処方でリョートが薬をつくり、綿に含ませたものを意識のないスピラの唇へしみこませるみたいにして、服ませているそうだ。今日中に意識が戻らなければ、陛下の主治医であるピスティス卿が出張るだろう。或いは、先進的な医療で有名なドウトール王国から、医師を招くことになるかもしれない。
「傷の大きさ、深さは?」
「傷口は本当に、とても小さかったそうですよ。傷口からなにかがでてきたということもなかったそうです。血がなかったら気付かなかったかもしれない程だとか。深さは、この程度と推測されるそうです。彼女の容態から、内臓が傷付けられたと思しい」
ソフィアは妹へ、掌に及ばないくらいの長さを示した。アルケは頷いて、右掌で自分の腰を触る。しっかりした胴着を撫でる。
「この辺り?」
「ええ。丁度、骨のないところです。彼女はほっそりしていて、肉付きがよくないですから、凶器は簡単に体のなかへはいっていったでしょう。おまけに、昨日は朝のうちに採寸を予定していた。彼女は半月後に宮廷へ居を移しますから、その為にあたらしい服を仕立てると、彼女の父親が決めたのです。採寸の為でしょう、スピラは随分楽な格好をしていたそうですよ。古風なドレス姿で、使用人達は寝間着と思ったようです」
「胴着もないのじゃ、簡単に刺せてしまうわね」
「そうですね。ドレスの布地には、穴らしい穴はなかったそうですが」
「そっか……ねえ、お針子達は? はさみなんか、持ってるでしょ。お針子ならその辺をうろついていても怪しまれないし、それにそうだわ、トゥリア邸の社交室は庭へ面している筈。窓から出入りできたわ。どう、ねえさま。出入りはできるし、凶器になりそうなものも持っている」
「それは的外れですね」
ソフィアはそう断じたが、声は優しい。アルケも微笑んで、姉の言葉を聴いている。病気でほとんどを寝てすごしているソフィアにとって、頭をつかう作業で誰かの役に立つのは、数少ない希望のひとつだ。ソフィアは基本的に、気が優しい。病気で自由にならない体にいらいらしながらも、それを見せないようにして、自分のできる精一杯をやろうとしている。
「お針子達は、一昨日のうちにトゥリア家の上邸へはいって、その時に荷物は調べられています。スピラが傷害されたあと、もう一度徹底的に調べましたが、なくなったものや、彼女の血で汚れたものはなかった」
「そうなの?」
「ええ。お針子含め、使用人達は怪しまなくてもいいでしょう。スピラが見付かった直後、彼女の父が命じて、すぐにスピラの兄が見張り、もうひとりの兄が捕吏を呼んだ。その後、使用人達は頭のてっぺんから爪先まで調べられています。凶器らしいものを隠し持った人間は居なかったし、凶器になりそうなものは調べられて、血がついていないのもわかっている」
「でも、血で汚れたものがないといったって、洗えばわからなくなってしまうでしょう?」
「スピラの様子から、見付かる直前に刺されたと考えられるそうです。すぐに見張りがついて身動きとれない状態になった使用人達は、血のついた凶器を洗う時間がありません。それに、洗ったとしても、リョートが用意してくれた薬をつかえば、この数ヶ月の間に血がついたことがあるかどうかがわかるそうです。誰の血かはわかりませんが、人間の血ならばわかる。お針子達が針で指をついてしまっているのがよくわかったそうですよ」
「便利な薬があるものね」
ソフィアは肩をすくめ、アルケは椅子の背凭れへ体を預ける。上流階級は危険が多い。いつどこで傷害されるか、わかったものではない。だから、毒を見破る方法や、凶器を見分ける方法が、やけに多く存在している。毒も多いし、凶器と見えない凶器も山程あるのだが。
使用人達はスピラの父の判断がはやかったのと、リョートの薬のおかげで、容疑から外れた。
娘が第一皇子の婚約者になったのに、それを殺す必要はないから、彼女の父も動機はない。というか、娘が居なくなったら折角の結婚がなくなる訳で、無駄でしかない。損得で考えれば、大損である。
スピラの兄達も、片方はずっと使用人と一緒で、凶器を処分する時間はなかった。もう片方、スピラの下の兄は捕吏を呼びに行ったので、その途中で凶器を処分する時間はある。
「けれど、トゥリア邸からスピラの下の兄がとびだしたところで、たまたま巡回中の捕吏達にいきあった。それで、捕吏をふたりつれてすぐに戻ったそうです。残りは加勢を呼びに行きました」
「ってことは、彼は建物から門までの間にしか、凶器を捨てる機会がない訳ね」
「そうなります。その辺りは徹底的にしらべて、髪の毛一本見逃していない筈なので、彼が犯人というのは現実的ではありません。兄達ふたりは、どちらも部屋まで調べていいと申し出て、隅々まで調べていますが、なにも出てきていませんから、どちらも犯人ではないと考えたほうがいいでしょうね」
ソフィアは目を瞑り、開ける。「疑われているのは全部で五人です」
アルケは小さく、頷く。
「昨日は、午前中に採寸、昼遅くに食事会が予定されていました」
「スピラが食事会を開くなんて、めずらしい」
「彼女の発案ではありません。彼女の兄達の計画です。スピラが第一皇子の婚約者になり、宮廷へ居を移すことになったので、その祝いと、しばしの別れを惜しんでの食事会だったそうです。彼女はしばらく、婚約者としての勉強で忙しくなりますからね」
「成程」
アルケはまた、小さく頷いて、控えている侍女へ軽く手を振った。そろそろ姉の薬の時間だ。侍女達がほっとした顔で、薬のはいったマグを持ってくる。
ソフィアは次女に礼をいってそれをうけとり、小さくひと口、服んだ。
「スピラの兄達が呼んだのは、全部で六人。ひとりは昼頃に来る予定でしたが、あとの五人は前夜、トゥリア邸へ泊まっていました。トゥリア家は古くからの家柄ですし、前日から来て宿泊してもいいといわれたのなら、大抵の人間がそうするでしょう。そういう意味では、不自然ではありません」
「そうね。トゥリア邸に泊まったってだけで自慢できる。カロスなんてはしゃぎそうだわ」
「アンドレイアスさまもはしゃぎそうです」
婚約者のことをくすっと、楽しげに笑いながらいって、ソフィアは表情をひきしめた。スピラが殺されそうになり、前後不覚なのだ。笑いごとではないと考えているのだろう。
前夜から泊まったのは、まず、伯爵家のローディナ。本の読み過ぎで目が悪くなったという変わり種の令嬢で、片眼鏡がトレードマーク。学者の男相手でも議論できるくらいに賢いという。
「ローディナ嬢なら、人間のどこを刺したら殺せるか、知っていそうね」
「ええ、彼女なら知っているでしょうね」
ローディナは第一皇子の婚約者候補として集められた娘のひとりで、成績優秀、かつ、たっぷりとした黒髪をいつもせなかへ流して、蜂蜜色の肌、顔立ちは整っている。学園で何度か最上位クラスに編成されたことがあったのもあり、下馬評は一番よかった。伯爵家であればどこからも文句は出ないし、ローディナの頭なら、口うるさい学者達や官吏達も納得する。
ただ、ローディナは家庭的なことはからきしで、料理は勿論裁縫などもまったくできなかった。その点で、女性達からの評価は低かったらしい。将来の皇帝の妻といっても、家庭ではよき母であるべきだという考えの女性が多いのだ。繕い仕事程度はできるのが女性として当然、というような。
しかし、勉強の成績はあまり振るわず、かといって家事もさほどうまくないスピラが選ばれてしまった。心中穏やかではなかっただろうと考えている者は多い。
持ちもの検査でも、ローディナははさみどころか針一本もっていなかったらしい。本と羊皮紙をまるめたものと、木炭を持っていて、付き添いの女性がペンとインク壺、手巾を持ち歩いていた。ペンはガラス製の、非常に高価なものだ。
検分されるのまでは許可したが、血がついているかどうかを調べる薬をつかうことは拒否した。犯人かどうかがはっきりしない段階で、持ちものに薬をかけるのは、流石に皇帝の命令でもすることはできない。
続いて、同じく前夜から泊まっていた、子爵家のミナ。子爵といっても歴史はかなり浅く、ほんの二百年程前に叙勲された。なので、上流階級では新参者として扱われ、その為にまだ婚約も決まっていなかった。学園での成績は優秀、乳白色の癖毛が肩から下へと流れているのが絵に描いたように美しい。冬場の滝のように見えるとかで、ふざけた詩人が詩をつくったくらいだった。
彼女も第一皇子の婚約者候補として集められたひとりだ。
「彼女はどうだったの?」
「あまり評価は高くなかったようです。ローディナやエリミアのような成績優秀者が居ましたから」
「その上、あまり前評判の高くなかったスピラ嬢が、殿下の婚約者になってしまった……か」
ミナはローディナと一緒に、トゥリア邸の書庫に居たといっている。だが、たまたま厨房のすぐ外で猫が居るのが見付かり、騒ぎになって、ミナとローディナの侍女達が様子を見に行っていた。その間にスピラのことが起こったようなので、ふたりがお互いの証人になっている共犯という可能性もある。
ミナはレースあみが趣味で、持ちもの検査では手袋や手巾などの令嬢らしいもののほかに、いつつの杼が出てきたそうだ。どれも象牙製で、絹糸がまきつけられ、みっつは糸玉とつながっていた。ふたつは杼同士が絹糸でつながっていた、というか、ふたつの杼でレースをあんでいたらしい。
こちらも、薬をつかっての検査は拒否されている。薬は洗い落とせるものなのだが、絹糸など一部のものには染みついて、色をかえてしまう。なので、ミナはそれをいやがった訳だ。侍女が持っていた、レースを布へ縫い付ける為の針に関しては、すでに検査がなされ、血は出ていない。
次は、スピラの兄の友人で、スピラに求婚したことのある、伯爵家のオーケアノス。
「あら、カロスの親戚だわ。詩が好きなかたよ」
「そうでしたね」
オーケアノスは、スピラの三歳上で、伯爵家のなかでもそれなりに歴史のある家の跡取りだ。当人は詩人気取りで数冊本を書いており、アルケにはまったく理解できないのだが、なかなか売れているらしい。おそらく、オーケアノスが美男子なのがきいているのだろう。
彼はスピラの兄と同い年で、幼い頃から親しくしていた。学園でずっと同じ級だったのがあり、一時期トゥリア邸に入り浸っていたらしい。
その時に、可愛らしいスピラへ求婚したが、スピラはそれを断った。オーケアノスはそのあとも何度かスピラへ求婚したのだが、スピラは「兄のようにしか思えない」といって、決して首を縦に振らなかったという。それがあって気まずくなったのか、オーケアノスはこの二年程、トゥリア邸へは顔を出していない。
「でも、スピラの兄との付き合いは続いていました。彼女が第一皇子の婚約者候補になったことも知っていたし、婚約者に選ばれたことも、正式な発表よりも前に、スピラの兄から聴いていたそうです」
「男なら、凶器をスピラ嬢の体へねじこむくらい、簡単にできそうだものね」
ソフィアが顔をしかめたので、アルケは叱られる前に短く謝った。
オーケアノスは、一昨日から一度もスピラには会っていないといっている。事件の起こった頃にはまだベッドに居たといっているが、従僕は控え室にいたので、こっそりぬけだしてスピラを襲い、またこっそり戻ることは、不可能ではない。
オーケアノスは手巾と、ポケットに収まる大きさの手帳、飾り付きの杖を所持していた。従僕は羽根ペンを一グロスと、インク壺を黒と青の二色分持っていた。羽根ペンは見た目が派手なもので、けれどやわなのですぐにつかえなくなってしまうらしく、そんなに大量に持っていたのだ。
オーケアノスも、薬での検査は拒んだ。鳥の羽やある種の木材にも、例の薬は染みついてしまうのである。
続いて、帝国に属している小国の王子、アルベロ。こちらもスピラの兄と学園で同級だった縁で、卒業後も親しくしている。
彼に関しては、食事会があるから宿泊したのではなく、数ヶ月前からトゥリア邸に泊まっていた。アルベロは絵の才があり、スピラを含む三兄妹の肖像画を制作していたのだ。はなれが彼の作業場で、寝泊まりもそこでしていた。
王子といっても、吹けば飛ぶような小国である。帝国の上流階級なら、男児が手仕事をするのに眉をひそめるが、アルベロはまったく気にしていなかったし、スピラの兄達も父も、彼が非凡な絵を描くのでそれには目を瞑っていた。アルベロ当人は、自分の絵の才で帝国公爵とのつながりが持てるならありがたいという態度だったらしい。
「ですが、それは表向きのことで、本当は手仕事をするのを屈辱に思っていたのでは、と考えているひとは居ますね」
「だからってスピラ嬢を狙う理由はないじゃない」
「アルベロ殿下も、優しい彼女にぼんやりしていたようですよ」
「あらまあ」
アルベロはオリーブ色の肌をした、屈強そうな大柄な男で、なかなか味のある顔をしている。スピラの好みではなかったようで、アルベロが花を贈っても、スピラは色よい返事をしなかったそうだ。
アルベロは事件の起こった時間、すでに作業場に居た。彼は朝食の前に二時間ほど作業をするのが常だった。昨日はスピラの肖像画を仕上げにはいっていたとかで、集中したいといって、作業場には誰もいれていない。窓からぬけだして社交室まで行き、スピラを傷害することは、やろうと思えばできた。
アルベロの作業場には、凶器になりそうなものが沢山あった。それらはすべて調べられ、血がついたあとのあるものは、小さな金槌と短い釘、それから鉄筆だけだとわかった。アルベロ曰く、作業中に誤って自分を傷付けたのだそうだ。しかし、スピラの父に治療してもらったので、傷痕はもうないという。
アルベロはひとり、作業の助けになる小僧を雇っていたが、その子は凶器になりそうなものは持っていなかった。
怪しまれている最後のひとりは、他国の貴族令嬢、ジェナー。スピラとはかなり遠い親戚で、学園では何度か同級になっている。成績はいいとはいえないが悪いともいえない、中間くらい。
背が高くがっしりした体型のご令嬢で、髪は生国のしきたりにそって短くしている。料理と乗馬が趣味で、乗馬服を着ると男のように見え、何度か令嬢から付け文をもらったこともあるらしい。
スピラとはそれなりに付き合いをしていて、二度、お茶会に招かれている。ジェナーのほうからも誘ったが、スピラはそれには応じなかった。今回、食事会へ呼ばれたのは、スピラの兄が勝手に選んだからのようで、スピラ当人が呼んでほしいといったのではない。ほかの出席予定者もそうだった。
「遠縁の親戚としてあたりまえという程度には親しい様子だったけれど、第一皇子の婚約者候補には選ばれなかったし、羨んでいるうちに恨みがつのったのかも、といわれていますね」
「ジェナー嬢は大柄だから、スピラ嬢を襲うことはできそうだしね」
ソフィアは肩をすくめ、アルケはうーんと唸る。
ジェナーは昨日の朝、はやくに起きて、厨房に行った。帝国ふうの朝食をつくる場面を見たかったそうだが、厨房のすぐ外から猫の鳴き声がして、ジェナーは恐慌を来した。彼女は幼い頃に猫に嚙まれ、以来猫が大の苦手なのだ。
ジェナーはまっさおになって、あてがわれた部屋へ戻り、閉じこもってしまった。侍女もしめだしてしまったので、アルベロ同様窓からぬけだして社交室へ向かい、スピラを襲うことは可能だった。
ジェナーは手巾と手袋、扇を持っていて、どれも素直に提出したし、血は検出されなかった。侍女がふたりついていて、裁縫道具を持っていたが、こちらもすべて提出されている。調べてもなにも出てこなかったという。
「食事会には、もうひとり、出席予定だったひとが居るのよね」
「ええ。スピラの親戚で幼なじみの、エリミアです。彼女は第一王子の婚約者候補でもありました」
エリミアは子爵の娘で、均整のとれた体付きと、秀でた額、尖った顎、桜色の豊かでまっすぐな髪が美しい、美貌の令嬢だ。見目麗しいだけでなく、成績はよく、レースあみは玄人並み。詩文の才もあって、本を一冊出していた。
彼女は上にふたり姉が、下に弟が居る。姉ふたりはすでに結婚し、家を出ていた。子爵のなかでは中くらいの家柄で、スピラの家と親戚であることで官職をもらった者が居るくらいに、そこまでの力はない。財政的にも、そう楽ではないらしかった。領地の経営がうまくいっていないのだ。
第一皇子の婚約者になれば箔がつくし、融資なども幾らでもしてもらえるだろう。その地位をスピラにとられたので、嫉妬したのでは、といわれている。
それにエリミアは、要領の悪いスピラの面倒をずっと見ていた。自分よりも劣っていると思っていたスピラに、第一皇子をとられたら、悔しいだろう。
「エリミアは昨日の朝、トゥリア邸に到着していました。ひとりになる時間があったので、犯行をするのは可能です」
「ひとりになったの?」
「侍女がふたり一緒でしたが、ひとりは使用人部屋へ挨拶へ行き、もうひとりは例の、厨房の傍での騒ぎをたしかめに行ったそうです」
エリミアは一度、庭から社交室へ這入ったが、その時にはスピラはおらず、彼女はスピラの父へ挨拶しようと思って、庭へ戻った。それからスピラの父の政務室へ行って、挨拶をしていたところに、スピラが倒れていると、使用人達が飛び込んできた。
エリミアは羊皮紙の切れ端に詩を書き付けたものと、レースあみの道具を、小さなキルトのケースにいれて持っていた。レース用の針が数本、まとめて布に包まれ、丈夫な綿糸が数束、縁にレースのついた手巾が数枚、そのケースのなかにはいっていた。
侍女達も、レース用の針を一揃い、エリミアが持っていたよりも沢山の綿糸の束、色とりどりのビーズ、なにも飾りのない素っ気ない手巾を数十枚、持っていた。
エリミアは、スピラを傷付けたと疑われるなど心外だと、血がついているかどうかの検査を強硬に拒んでいる。侍女の持っていた分に関しても、絶対に触ってくれるなと、頑なだそうだ。
アルケは脚を組み、腕を組む。「そっか……そういうことね」
「わかったのですか?」
「うん。ねえさまも、お好きなことだからすぐにわかったのじゃない?」
ソフィアは肩をすくめ、溜め息を吐いた。
「アルケ、気の重いことですけれど、あなたが犯人を捕まえてきてください。皇女の言葉なら、犯人も素直にききそうですからね」
「うん。心配しないで、姉さまはしっかり養生していて」
ソフィアは苦しげに、息を吸う。「それにしても何故、こんなばかなことをしたのでしょうね」