閑話――掌に小舟を隠して
「あら、これはモックリングですわ、イオンさま」
婚約者にそういって、リョートはくすくすと笑った。
大火災から半年、都の空気は最近やっと、和やかになってきた。前であれば毎日のようにどこかでやっていた催しもの――芸人達の滑稽なみせもの、歌い手の合唱、美しい花の展覧会、遙か遠い国から運ばれてきた布地の即売会、等々――も、火災以前ほどではないが、開催されるようになっている。
そのうちのひとつ、とある「レース狂い」の貴族が開いたレースの展覧会に、ふたりは訪れていた。都の外れにある大邸宅が会場である。その玄関広間と広間と社交室、そのみっつの部屋を結ぶ廊下、それから温室の一部が展示場になっていた。今、ふたりが居るのは、広間だ。
本来、火災が起こった日の少し後に開催される予定だったとかで、半年待たされた貴族はその間、火災で家を失った者達の支援、火傷を負った者を治療する医者達への支援、建築資材の寄付など、金に糸目をつけずにあらゆる手段で火災の被害者達を救援していた。
何故かといえば、火災の傷痕が酷いうちは、展覧会をできないからである。理由はどうあれ、その貴族が旗振り役になったおかげで、ほかの貴族達も寄付だなんだと活動したし、実際に被災者達は助かった。火災が起こった時に延焼しやすい構造だった都の区画整理にも、貴族達・属国の王家が金を投入し、数日前から工事も始まっている。
ここへ来る途中、工事の為に馬車が通れない場所があり、ふたりはそこで馬車を降りた。馬車には御者と、それぞれの付き添いを残している。イオンが、皆さんには馬車を見張っていてもらいましょう、といったのだ。
展覧会の会場までそう遠くもないし、イオンと一緒ならば不安もないので、リョートは婚約者の提案にすぐに応じた。リョートの付き添いの侍女も、イオンの付き添いの従僕も、主人の決定に異を唱えない。イオンが自分とふたりきりになりたかったのだ、ということは、リョートは気付いていない。付き添いはどちらもその気持ちを察し、侍女が信頼しているイオンに主人を預けたのだということも。
イオンは切れ長の目をかすかに笑みの形にし、リョートの腕をとる。「わたしはレースにはあまりくわしくないんです。教えてもらえますか?」
「ええ、勿論」
リョートは軽く手を伸ばし、壁に飾られた額を示した。モックリングとジョセフィンノットが美しい、繊細な細い糸のドイリーだ。
中心に花のように見える部分があり、そこからブリッジがのびているが、その先がモックリングになっている。その途中には本当のリングがふたつ並んでいた。そこにあるピコットにシャトルつなぎしながらブリッジがあまれ、途中にピコットと、大きめのジョセフィンノットがある。どうつなげているのかよくわからないが、糸を渡して外側に、桃のような形のリングを、十三個つくってある。額の下には、『アウダークス家所蔵』と書かれた紙が貼ってあった。
「これは、リングに見えるけれど、リングではありませんの。そうですわね、メキッキオヤのようなことを、後からする、と思えば宜しいかと」
イオンはひょいと、片眉をあげる。どうやら、メキッキがわからないらしい。帝国の人間は、高貴な殿方が手をつかって作業するのを、なにか卑しいものだと考えている、というのは、正しいようだ。
イオンがそう思っている、というのではない。貴族である彼は、行儀作法を特に厳しく叩き込まれた筈だ。実際、彼はどんな場面でも「礼儀正しい」と評価される。有職故実にも明るい。極め付きに、属国の行儀作法にもくわしい。
勉強熱心な彼だけれど、誰からもなにも教わらずにそんな芸当はできない。家庭教師をつけて、勉学だけでなく行儀作法も習っているのだ。その家庭教師や、彼の二親が、帝国貴族らしくなく手をつかって作業することをゆるすとは思えない。イオンの性格上、手作業を「卑しい」とは捉えていないだろうが、あえて興味を持つこともあるまい。
数人居る彼の家庭教師のうち、ひとりが行儀作法の専門家であることは、帝国の事情にくわしくないリョートでも知っている。自分がその人物の弟子にあたる行儀作法の専門家に、帝国流の礼儀を教わっているから、というのが理由だが。
リョートは属国の出なので、帝国流の礼儀というものを、まだしみつくほど学べてはいない。
生国で生涯をすごすのならばそれでなんの問題もないが、リョートはたまたま学問が得意だった。それに、生国の王家や親族達の意向が加わり、更にリョート自身勉学、特に薬学に対しては意欲があったのもあって、帝国の学園に通うことになった。
帝国の都には、学び舎がある。「学園」と呼ばれる場所だ。帝国の貴族子女、皇帝の息子や娘達、属国の王子や姫、属国の貴族の子ども達、それに、一般市民の子どもも通っている、大きな学び舎である。
「雑多な」生徒達の間には、しかし不思議と、さほどの軋轢はない。学力で級が分けられているのが大きな要因だろう、とリョートは考えている。リョート自身がそうだからだ。自分が話して、相手に通じない時ほどむなしいことはない。
知識や学識がないことをばかにしているのではない。とどこおりなく会話ができるのは、リョートにとって気が楽なのだ。
彼女は少々口が重く、相手が一度の説明でわかってくれないと、口を噤んでしまうようなところがあった。会話そのものがあまり得意ではないから、必要最低限しか喋ることもない。だから、自分のいったことをすぐに理解してくれて、なおかつ相手のいっていることも理解できる、最上位級は、リョートにとって気楽な場所だった。
上位の級に籍を置くことを目的にやってくる子も居るようだが、そう簡単に上位にははいれない。なにせ、生徒数が多いのだ。それも、属国や属領の、優秀な者達が、沢山居る。最上位級にも数人、在籍している。リョート、妹のブラーミャ、ミル、リスベット、ソルダ……。
リョートは一年程前から、礼儀の家庭教師をつけている。所為上位級は勉学に秀でた者ばかりで、多少の無作法は見逃してもらえる。だが、級以外ではそうはいかない。
帝国の大公家の跡取り、イオンの婚約者になったのもあって、彼女は以前よりも礼儀作法に神経質になるようになった。
イオンに誘われて劇場や競馬に行くこともあるし、彼の招かれた宴に付き添うこともある。人前に出ることは苦手だが、断ればイオンが笑われてしまう。薬のことで皇家からお呼びがかかっておらず、体調不良でもなければ、できるだけイオンの誘いには応えていた。
リョートが無作法をしようものなら、責められるのは彼女をつれてきたイオンだ。属国の木っ端貴族の娘と結婚しようとしているだけでも、すでに彼の評判はよくない。ならせめて、帝国流のやりかたに慣れていることを、精一杯示したい。そう考えて、家庭教師をつけている。
その家庭教師も、高貴な男性は手作業はしないものだ、といっていた。
とはいえ、芸術を支援するのも貴族の好むことだ。現に、この展覧会を主催したのは貴族の男性である。レース自体は芸術品として愛されているけれど、それをつくることは芸術ではないと捉えられているのだから、なんだかねじれている気もする。
「……ですから、リングではないのですわ」
「よくわかりました。ありがとう」
手を動かしながらの説明に、イオンは深く頷いた。イオンは明晰な頭脳の持ち主だ。知らないことも、大抵は一度の説明で理解してくれる。
イオンに促され、リョートは次の作品の前まで移動した。工事で道が塞がれているのが原因なのか、客は少なく、好きなだけ作品を眺められる。ここについてから、数人しか見ていなかった。著名なレース作家のノター夫人を見付け、彼女の本を読んだことのあるリョートは、どきどきしながらも挨拶し、本を読んでいることを伝えられた。ノター夫人ははにかんだように笑っていて、口数は少なかった。内向的な人物らしい。
ふたりが移動したのは、ひなげしをかたどったというモチーフの前だ。モチーフは、複数つながれている。随分古いものらしく、端が少々日に焼けていた。日に焼けているだけでなく、技法自体も古いものだ。
下に、『カナリース家所蔵』とある。カナリース家といえば、領地は小さいが、古くからの帝国貴族だ。歴史の長い家だから、歴史的なレースも多数所蔵しているらしい。先程、玄関広間に飾られたレースでも、その名前は何度か見た。
そこまではタティングレースだったが、その次からは繊細なボビンレースが続く。なかには、変わった工夫をしたものもあった。ボビンの数を最小限にした、というものだ。それでも見場はいいし、実用性も高そうだった。ボビンの数がこれだけでもつくれるのなら、場所もとらない。糸の様子もあたらしいし、何度も水にくぐらせたふうもない。技法自体が目新しいものなのもあって、つくられたばかりなのだなと感じさせる。
再び、タティングレースがあらわれた。家名は記されていないけれど、さる貴族の邸でつかわれていたというベッドカヴァーだ。モチーフはどうやら、薔薇のようである。端にピコットとジョセフィンノットが連続した部分があり、可愛らしい。大きさからして、大人用ではあるまい。
ところどころ不自然なつなぎかたや、糸始末が甘いところもあり、職業的にレースをあんでいる人間の手際ではないと思えた。おそらく、貴族が我が子の為にあんだのだろう。母が。或いは、父が。であれば、家名が明記されていないのもわかる。レースを蒐集すること自体ははじではない。カナリース家などは、名前を出しているではないか。
「これは、さっきあなたがいっていた、モックリングというのではないですか?」
「……そのようですわ」
イオンを見上げる。「イオンさま、さっきまでご存じなかったとは思えないです」
「あなたのいうことは、忘れないようにしているんです」
にっこりするイオンの向こうに、背の高い男性が見えた。リョートの視線がわかったか、イオンはそちらに目を向ける。
彼が体をひねったので、背の低い女性が居るのも見えた。ふたりは和やかに、話しているようだ。
男性は白いひげが生えており、顔の下半分が判然としないが、湖面のような綺麗な青い目をしていた。つばのひろい帽子を被り、しゃれた手袋をしている。
女性は、上流階級らしくはない。何色かよくわからない、色褪せたようなガウンを着ている。それでも精一杯おしゃれしてきたようで、繊細なレースを裾や袖に縫いつけているし、ハットピンはなかなかのものだった。帽子そのものも、かなり細い糸でつくられたヘアピンレースが飾られ、趣味がいい。手袋にも、タティングレースが縫いつけられていた。
男性が軽く手を振って、先程までリョート達が見ていた、モックリングとジョセフィンノットのドイリーの前に移動する。女性は笑顔で出ていった。
「おや、めずらしい」イオンが低声でいう。「ピスカートル氏だ。知っていますか? 彼は、精密な絵を描く画家なんです」
「名前は存じています」
リョートは頷く。
ピスカートル、といえば、生国でも聴いたことのある名前だ。こちらに来てから、事情があってくわしくなった。
母親が高位貴族出身で、自身は商家の生まれ。一時期、大作を立て続けに発表し、一世を風靡した。その画風は非常に精緻・精密で、ピスカートルが描けば美人の眉毛の一本々々がどこから生えているかわかる、といわれた程だ。絵の素晴らしさと母親のことがあり、ひとによっては卿をつけて呼ぶ。
あまりに写実的・現実をそのまま切りとったような絵を描くので、当初は描いてほしいといっていた女性達が潮のようにあっという間に居なくなったという逸話まであった。また、ある貴族の母を「醜く」描いて、危うく捕まるところだったともいわれている。
ピスカートル氏はしかし、人物画は専門ではなかった。彼は静物、特に布や糸、レースの類を描くのが好きらしい。発表された作品のほとんどは静物画で、人物画は数えるほどしかない。
一時期数ヶ月に一作発表されていた絵も、大きなカンバスに細緻なレースを大量に描いたものだった。それらは非常に正確で、先程のノター夫人に訴訟を起こされてしまった。彼女の出版したパターンの幾つかを、無断で絵に描いた、というのが訴えの内容である。
ピスカートル氏は市場で買ったものを描いただけだと主張したが、そうだとしてもたしかめることはできたと判決が出た。夫人の本を読んだらはっきりと同じものがのっているのだ。また、精緻な画風が、ピスカートル氏にとっては災いした。どう見ても『そのレース』をあんでいると認定されたからだ。似ているが違うようにも見える、ならともかく、はっきりと、目数までわかるようなものを描いてしまっていたから、いいのがれするとしたら「知らなかった」しかなかった。
ノター夫人が要求したほどの金額にはならなかったが、賠償金を課されている。その折りに、ピスカートル氏にレースを売った店もノター夫人へ賠償するように、という判決になった。
夫人が発表したパターンを家庭でつくり、使用するまではかまわないが、店で売る場合には夫人に許可を得るべきだという結果だったのである。金額は小さくなったが、夫人の全面勝利だった。
訴訟が余程堪えたか、それ以来ピスカートル氏は、年に一作発表すればいいくらいに、制作数が減った。世間一般が知っている作品は、大火災の直前に小品が最後である。好きだった宴にもほとんど出てこなくなってしまったという。また、発表する作品も、評価は渋い。かわらず精緻・細密だが、民衆に以前ほどの熱狂がなくなってしまっている。今は、支援してくれる貴族の別宅に、ほとんどひとりで静かにくらしているという。以前はそれなりの家に住んでいたのだが、ノター夫人への賠償の為に、売り払うしかなかったのだ。
一部の口さがない者達は、才能が枯渇したのだ、とか、画家が金の問題を起こしたら絵に魅力がなくなる、などという。偏屈じいさんとまでいうひともいた。
訴訟については彼に非があると思うけれど、リョートはあの絵自体は好きだった。ノター夫人には賠償金を払うことで和解したそうだし、いつまでも訴訟のことを蒸し返さなくてもいいのにと思っている。
小柄な女性が戻ってきた。ピスカートル氏とまた、会話している。と、今度はピスカートル氏が出ていった。
「あの女性は、ヒルンドーの店のお針子です」
「あら、どうしてご存じなのです、イオンさま?」
低声に低声で返す。イオンは軽くかたをすくめた。
「母の買いものに付き合わされたんですよ。うちの母のガウンを縫うのは、いつも彼女です」
「まあ。腕のいいかたですのね」
大公夫人のガウンを受け持つのだから、並みのお針子ではあるまい。まずいものを納品すれば、店が潰れかねない。店側としては、上流階級には当然、腕のいい者をつける。
「その時、母とひとしきり、レースの話をしていました。こんなところまで見に来るくらい好きなのですね」
「ええ……」
リョートは小柄な女性を見遣り、小首を傾げた。ピスカートル氏と、腕がいいとはいえ単なるお針子との組み合わせは、なんだか奇妙に思える。年齢もかなりはなれているから、恋愛という感じでもない。
お針子の居る広間から出て、廊下を歩いている時だった。悲鳴とともに、社交室から女中が飛びだしてくる。
イオンがさっと、リョートの前に立った。転びそうになった女中を片腕で抱きとめる。
女中はまっさおで、唇を激しく震わせていた。それだけではない。全身が震えている。
イオンは黙って、彼女を座らせた。リョートは気付けの丸薬をとりだし、震える唇におしこむようにする。「おちつけますから、のみこんで」
女中は震えていたが、素直に丸薬をのみこんだ。イオンが立ち上がり、彼女があけはなったままにしている扉、かすかに揺れているそれを見る。
「なにがあったんですか」
女中は震えて頭を振り、答えない。イオンが扉へ近付いていった。扉の向こうがわずかに見える。社交室だ。今まさに、ふたりが向かおうとしていた場所……。
覗きこんで、イオンは小さく呻き声をもらした。
振り返り、顔をしかめたけれど、いう。
「リョート、申し訳ありませんが、来てください。あなたの助けが必要かもしれない」
リョートは眉を寄せ、立ち上がって、彼へと近付く。彼は扉をもっと開いた。リョートはそこを覗きこみ、呻く。
女性が倒れていた。紺碧のドレスに、血が飛び散っている。
落ち着いた女中にひとを呼びに行かせ、リョートは女性の処置を試みたが、だめだった。すでに事切れていたのだ。
イオンが傍らで、屈みこんだり、なにかの匂いを嗅いだりして、調べている。
「毒のようですね。おそらく、砒素かなにかでしょう」
「……残念ですが、わたくしにできることはもうございません」
「そうですか。よく頑張ってくれました」
頷いて、リョートはあらためて、倒れている女性の様子を見た。飛び出そうに目を瞠り、咽にはかきむしった痕がある。左手の爪に血がこびりついているから、余程激しくかきむしったのだ。苦しかったのだろう。
口の端に、血のにじんだ泡がついている。胸許には大量の血。床にもこぼれている。紺碧のガウンには、随分簡単なレースが、いたるところに縫い付けられていた。袖や裾のレースはその簡単なものだが、象牙のブローチでとめられたジャボは豪華だ。たっぷりしたヴェールを被っているが、その端にも、あの簡単なレースが縫い付けてある。
傍に、巾着がふたつ落ちていた。中身が幾らかこぼれている。
大きな巾着からは、飾り気のない象牙のシャトルがふたつ、ジャボと同じ色の糸がまかれているから、どうやらあれは手製のものらしい。素人の手になるものとは思えないようなできだが、現に糸の色が同じだから、そう考えるのが自然だろう。
糸のまかれていない、細長いシャトルもあった。リングに何度も通す独特な技法の為のもので、帝国ではなくもっと西方の国で盛んなあみかただ。更に、つくりかけの、クルニータティングが多用されたブレード。レース針も数本、転がっていた。
小さなほうには、油紙で包まれたなにかが沢山詰まっていたらしい。口が開いて転がっている。薬か、飴か、どちらかだろう。
レース愛好家の女性が、レースの展覧会に訪れた――ということらしい。そしてそこで、血を吐いて倒れた。
床や、巾着にも、血は飛び散っていた。象牙のシャトルが血に汚れている。
「おや」
イオンがなんでもないような調子で、女性の体を動かした。すでにかたまりはじめている。
体の下に敷くようにしていた右手には、シャトルが握られているようだ。わずかに端が見えているだけで、しかもかなり強く握りしめているらしく、腕がぎこちなく床へ落ちたあとも手から転がり落ちることはない。
「これは、レースをあむ為の道具ですね」
「はい。でも、糸はまかれていませんわ」
覗き込んで見たところ、やはり象牙製のシャトルだった。あの、糸がまかれたふたつと、ほとんど同じものらしい。巾着にはいっていたのだろう。
イオンが腕を組む。
「どうしたのですか?」
か細い声に目を遣ると、ノター夫人、ピスカートル氏、それからあのお針子がいた。おずおずと覗きこんで、三人ともひっと息をのむ。特に、お針子の反応は大きかった。
彼女はよたよたとはいりこんでくると、狼狽えた様子でいう。「……クイリーン? なにをしているの? こんなところで寝て……」
お針子が気を失い、ピスカートル氏とノター夫人でその小さな体を支えた。
どやどやと声、それにあしおとがして、大勢の人間がやってきた。
不愉快なことに、やってきた捕吏はイオンを疑った。
イオンの家、ハロス家は昔――政敵を毒で殺した、とかなんとかいう話があり、帝国の人間は毒とハロス家を結びつけて考えるのだ。倒れていた女性・クイリーンが、毒で死んでいるらしいことを根拠に、捕吏達はイオンにしつこく質問した。イオンはそれに丁寧に答えたが、捕吏達は端からイオンを疑っているので、あらさがしばかりする。
「それで、あの女性とは面識がないとおっしゃいましたが」
「ええ。ありません」
「ではどうして、あの部屋に居たのですか」
「ですから、救助しようと思ったのです。わたしではなく、彼女に頼ることになりましたが」
「見ず知らずの、貴族でもない女性を助けようと?」
「おかしなことではないでしょう。それに、わたしがとめても彼女ならしてくれました。半年前にも、一族で火傷の薬をつくってくれたひとです」
イオンは穏やかな目でリョートを見る。捕吏達は疑わしげな顔だ。
ふたりは客間のひとつにとじこめられ、捕吏達の尋問をうけていた。ノター夫人、ピスカートル氏、あのお針子も、別の部屋で話を聴かれているそうだ。主催者の貴族も、急いでこちらに向かっている。女中など、使用人はまとめて厨房に集められているらしい。捕吏達の話が耳に届いたのだ。
イオンが脚を組み替えた。微笑みが生意気に見えたのか、捕吏達はむっとする。「卿、あなたには話さない権利も、ご自身の意見をいう権利もあります。その上で」
「では訊ねたい」
イオンの声が、少々きつくなった。捕吏達は居住まいを正す。いずれ大公になるかただ、ということを、今更思いだしたのかもしれない。
イオンはつめたい目をしている。
「あの女性は何者です? どうしてここへ?」
「は……」
「わたしは疑われているんでしょう」
捕吏達はぎくりとしたが、イオンは小さく笑った。
「なら、疑いを晴らさなくては。その為には情報が必要です。あの女性は誰で、どうしてここに居たのです? ヒルンドーのお針子との関係は?」
お針子のことをいわれ、動揺したのだろう。捕吏達は素直に情報を口にした。
クイリーン。西方の属国で、大工の父とお針子の母の間にうまれた。幼い頃からレースや裁縫が好きだった。もとはお針子だったが、幾つかの店を転々としたあと、ある商人の妻になった。二十八歳。子どもはふたり。
夫は羽振りがよく、クイリーンが趣味のレースや甘いものに金をかけることを咎めなかった。クイリーンは各地で催されるレースの展覧会や、アンティークレースの競売などにも顔を出していた。そこで、ノター夫人と知り合い、最近は夫人の催すレースの練習会にも何度か顔を出していたという。
ただ、帝国出身ではないからか、無作法なところがあり、練習会仲間とはあまり打ち解けていなかった。ノター夫人も、クイリーンの激しやすいところに手を焼いていたという。追い出せばいいようなものだが、クイリーンの夫がノター夫人に金を融通してはじまった練習会なので、無理だった。
ピスカートル氏もクイリーンと関係があった。というか、彼女の夫と関わりがある。クイリーンの夫はてびろく商売をしているのだが、ピスカートル氏がよく題材にする布や糸も扱っているのだ。
ピスカートル氏に何度か、西方の布を売ったことがあり、支払いが遅れた時にかなり小さな絵をせしめている。もらっちゃえばいい、といったのはクイリーンだそうだ。クイリーンが趣味であんだレースも、何度か売っており、それがきっかけでクイリーン当人と口をきくこともあった。玄人はだしのクイリーンのレースを氏は絶賛していた。
そしてあのお針子、ディラは、クイリーンとは同郷で、かつて同じ店で働いていた。ふたりがはじめに勤めた店はすぐに潰れてしまい、数年音信不通だったが、クイリーンが商人の妻になった後、今ディラが勤めているヒルンドーの店に来たのだ。
クイリーンはそこでガウンを仕立てたのだが、ディラがほとんどの部分を縫った。普通、貴族の妻や娘のガウンを担当するようなお針子だが、幼なじみのガウンを縫いたいと直訴したらしい。クイリーンは感激して、ディラと度々会うようになった。一緒にレースをあんだり、クッションなどを縫ったり、クイリーンの好きな飴を買いに都から出たりと、楽しい友達付き合いをしていたそうだ。その際、ピスカートル氏のことも聴いた。氏とクイリーンについては、ほとんどディラの情報らしい。
「あのレースだけは違うそうです」
捕吏達は交互に喋っていたが、イオンに威圧感を覚えているらしく、怯えた顔だ。
「違うとは?」
「はあ。あれは、クイリーンがつくったもので、自分で縫いつけたのだろう、と。ディラはあれを見たのは初めてだそうです。本で読んだことのあるものではないから、クイリーンが自分で考案してあみ、ためしにつけたんだろうと」
「成程。不自由のない暮らしを手にいれても、好きだからレースあみも裁縫も続けていた訳ですね」
頷いて、イオンはいう。
「あの三人のほかに、客は?」
「いません」
「では、質問をもう少し。ディラ嬢とピスカートル氏は知り合いのようですが」
「以前、ヒルンドーのお針子がつくったレースを、ピスカートル氏が描いたことがあるそうです。そのうちのひとつがディラのつくったもので、その後数回、彼女のあんだレースを売ったので、挨拶をしたと。氏は随分社交的なかたなんですね」
「ノター夫人は、勿論、ピスカートル氏とは知り合いですよね」
「はい。訴訟のことがありましたから。すでに和解済みといえ、ずっと顔を合わせているのは気詰まりだといわれ、部屋は分けてあります。ああそれと、夫人はディラとも知り合いです。ヒルンドーでガウンを仕立てているので」
「あの、宜しいですか?」
リョートは片手を、おずおずとあげた。イオンがにこやかにこちらを見る。リョートはどきどきしていた。イオンが、理屈ともいえない理屈で疑われているのは、不愉快だった。ハロス家にはたしかに、毒に関する伝説があるが、だからなんだというのだろう。人間、数代遡れば、どこかに犯罪者がいてもおかしくはない……。
「クイリーンさんが握りしめていたシャトルは? なにか、かわったところは、ございましたか?」
「いえ、特には。なんの変哲もない象牙のシャトルです。といっても、我々ではどんなものかわからなかったんですが、ディラがこれはいいものだと」
「飾り、例えば螺鈿細工がしてあるとかは」
「いいえ、ありません。なんの模様もない象牙です」
「クイリーンさんは、毒でなくなったのですよね」
「はい」
イオンに素直に答えたからか、その婚約者であるリョートに対しても、捕吏達はこだわりなく答える。リョートは頷いて、イオンを見、もう一度捕吏達に目を戻す。
「なにに、毒が?」
「飴のようです。ひとつ、違う包み紙が落ちていました。誰かに渡されたものを舐めて、それに毒がはいっていたのでしょう。数分は苦しんだでしょうね」
「被害者は飴が大好きだそうで、余程憎んでいる相手でもない限り、もらったら食べてしまうだろうと、ディラが」
リョートは眉をひそめ、いう。
「あの……お願いがございます。イオンさま」
「お三方は、それぞれレースに造形の深いかただと聴きました」
イオンはにっこりしているが、ほんものの笑みではない。その隣で、リョートは小さくなっていた。
目の前には、ノター夫人、ピスカートル氏、ディラが居る。女性ふたりは怯えた顔だ。イオンを疑っているのかもしれない。ピスカートル氏は当惑しているらしい。
捕吏にいい、理由を明かさずに、三人を同じ部屋につれていってもらった。そこに、ふたりはさも偶然のように這入っていったのだ。未来の大公がやってきては、追い出すこともできない。
「それで、頼みがあるのです。実は彼女もレースが好きで、お亡くなりになったかたがガウンにつけていたレースに興味があるそうでね」
「まあ」
ディラがいい、怯えたみたいに口を塞ぐ。
イオンは笑みのまま、少し声を低めた。
「しかし、短い間見ただけだったので、どうあんだものかわからない。あなたがたなら、わかるのではありませんか。捕吏が来る前に、彼女を見ているでしょう」
後の大公に、できないとはいえなかったのだろう。三人とも、戸惑いながら頷いた。
三人は、リョートが渡した紙に、さらさらと編み図を書き付けた。まずノター夫人が恭しく、かなり遅れてピスカートル氏が狼狽した様子で、それから最後にディラがおずおずと、イオンに紙を渡す。
イオンは無言で、リョートにそれを渡した。目を通す。
(1.ノター夫人 2.ピスカートル氏 3.ディラ)
ノター夫人のものは、流石にパターンを出版しているだけあり、わかりやすい。目の数までしっかり書いてあった。あおざめているが、意外と落ち着いているのかもしれない。
「画家なもので、編みかたまではご勘弁を。覚えている格好を描いただけでございます」
唸るようにいうのはピスカートル氏だ。たしかに目数は書いていない。
目数を書いていないのは、ディラも一緒だった。文字を書けないのかもしれない。彼女はお針子らしく、どうやってレースがとめつけられていたかを描いているのだが、針の絵で示しているのだ。
リョートは黙って、その部屋を出る。外で待っていた捕吏に、怪しいと思う人物の名をいい、理由も説明した。
「偽物ではなかったんですね」
数日後、捕まった人物の供述を、イオンはどこからか入手して、教えてくれた。
昼休み、ふたりしか居ない教室だ。中庭でガラとストラテーゴスが木剣を打ち合わせているのが見える。
リョートの疑ったとおり、犯人はピスカートル氏だった。
「なぜ、彼だと思ったのです? まだ聴かせてもらっていませんでしたよね」
「はい。決め手としては……あの編み図がおかしかったんです」
頷いて続けた。「糸が不自然でした」
「不自然?」
「はい。リングからチェインへ移る時に、どうしても、糸が渡るんです。リングの下を。特に、複数のリングを続けた後だと、目立ちます。精緻な絵で知られているピスカートル氏がそれを省いているのは変です。時間がないのならともかく、ノター夫人の倍以上の時間をかけていました。
ですからもしかして、彼はレースの構造を知らないのではないかと思ったのです。レースを描いたことがないのでは、と。ノター夫人から訴えられて、間違いなく彼女のパターンを使用してあまれたレースだと判決が出、賠償したひとにしては、おかしいですよね」
「成程。ですが、その前からおかしいとおもっていましたよね?」
「ええ。ディラさんと親しげなのは変だと思いました。ピスカートル氏はお母さまが貴族の出身ですし。クイリーンさんに偽物だと気付かれて、なら、動機はありますから……あ、いえ、でも偽物ではないのだから、これはすべて、わたしの考えすぎですね。素晴らしいレースやガウンをつくりだすかたに対して、敬意を表していただけなのでしょう。画家として、なにかをつくりだすのが大変なことは、知っているでしょうし。かんぐってしまいましたね」
「見事に犯人をあてたのだから、同じことです」
ピスカートル氏は、あの大火災の折、怪我をした。落ちてきた梁で頭を打ったのだ。それ以来、絵をうまく描けなくなってしまったという。
簡単な形を描くことはできるけれど、細かい部分まできっちり描写することが不可能になってしまった。納得のいく絵を描けずに鬱屈とした日々をすごしていた彼は、なにが原因かを考えるようになる。
直接の原因は、梁が落ちてきたことだ。だがそれは、貴族の別宅に身を寄せていたからで、それはノター夫人への賠償がかさんで家を売り払ったからだった。では、何故賠償をしなければならなかったのかといえば、レースを描いてしまったからである。
そのレースを、クイリーンがあんでいた。
「クイリーンは覚えていなかったようです。随分、いろんな店を転々としたようですからね。だが、ピスカートル氏は覚えていた。大火災以前に、クイリーンのあんだレースを見て、思い出したのです。それで調べたら、やはり彼女は当時、その店に勤めていたとわかった」
外から、ソルダの声がする。プシュケーをモデルに絵を描いているらしい。像にするのだろう。
「クイリーンも、店の主人にいわれてあんだだけです。だから彼女は賠償を課せられなかった。それが不公平だとピスカートル氏は考えてしまった。絵の具につかうものを飴にまぜて、食べさせたそうです。毒だとわかった上で」
「そうですか……」
リョートは窓の近くまで行った。隣にイオンが並ぶ。これからもこうして、隣に立っていたい。とても優しくて、あたたかいひとだから。イオンは誤解されがちだが、とても素敵なひとだ。
「動機があるようだから、という理由だけではないのでしょう?」
「はい」
イオンは壁にせなかをつけるようにして立っている。まるで、外の世界なんてわたし達には関係ない、といわんばかりに。
「クイリーンさんは、シャトルを握りしめていました。絶対にはなさないように強く。しかも、体の下に敷いて、すぐには見付からないように」
「そうでしたね。なんの変哲もない、ただの、象牙のシャトルです」
「犯人にとられたくなかったんでしょう。自分が食べた飴を誰がくれたかは、彼女は覚えている筈ですから」
「模様もない、ただ高価なだけのシャトルに、ピスカートル氏との関係が?」
面白がるような口調だ。リョートは小さく頷く。
「あれは、なにかに似ていると思いませんか?」
「葉みたいな形ですね」
小さく頭を振った。
「ディラは西方の言葉で『葉』ですが、それならクイリーンさんは、クルニータティングを掴んだと思います。あれこそ、葉に似ていますから。或いは、西方でつかわれているシャトルを掴んでおけばいいのではないでしょうか。西方に関係のある人物をあらわしたいのなら」
「では、タティングレースの大家であるノター夫人が怪しいのでは?」
「それなら、糸のついたものをとるか、そうですね……糸を結んでおくと思います」
「成程。では消去法で、ピスカートル氏が怪しかったと?」
「いえ。ピスカートルは、漁師でしょう?」
小首を傾げた。帝国の古くからの言葉で、ピスカートルには漁師という意味がある……筈だ。
イオンの片眉が上がる。正確だったようで、否定の言葉はない。
「ディラさんは先程もいったように『葉』です。ノター夫人も、魚と関わりはありません」
リョートは指で宙をなぞり、シャトルの形を示した。円弧をあわせたような、小舟のような、或いは小魚のような。
「クイリーンさんが大工の娘だと聴いて、もしかしたらと思ったんです。シャトルは魚の浮き袋に似た形ですわ」




