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皇女殿下の薬係――彼女は決意する






 ――とく、とく、と、心臓が静かに鼓動している。


 リョートは顔をあげ、目許を拭った。

 目の前の寝台には、このところ朝晩少しだけ散歩をするようになった、第三皇女のソフィアが横たわっている。彼女は今日、また少しだけ顔色をよくしていた。うまくいけば、あと三月(みつき)もすれば、すっかり元気になるだろう。そうすれば、以前から予定されている、婚約者のアンドレイアスとの結婚式が執り行われる。ソフィアはアンドレイアスの生国へ嫁いでゆくのだ。


 ソフィアの体が癒えてきて、第三皇子エリュトロンとガラの結婚の日時も、第五皇女アルケと辺境伯カロスの結婚の日時も、正式に決まった。ずっと、ソフィアがよくなるまでは結婚しない、といいはっていたエリュトロンも、最近のソフィアの様子を見て、やっと結婚を決意したのだ。ずっと待たされていたガラは、ほっとしたことだろう。アルケも、ねえさまが結婚するのならわたしもはやいとこ楽になりたいわ、と冗談めかしていっていた。辺境伯家へ輿入れする準備は、着々とすすんでいる。

 リョートも、あと数日で、イオンと結婚する。妹のブラーミャが、ソフィアの薬係をひきつぐことが決まったのだ。ブラーミャはその為に、頑張って勉強してくれた。以前、毒を盛られた、あの後遺症も、もうほとんどない。痺れがまだ少しだけ残っているのと、頻繁にこむら返りを起こすけれど、それも段々と頻度が減っている。いずれ、完全に健康体になるだろう。

 ブラーミャにも、ソフィアが手配して、幾つか見合いが舞い込んでいる。ブラーミャは、ねえさん達が結婚したら考えるから、といっているが、男爵家のオルケーシスを憎からず思っているらしい。彼との見合いを望んでいるようだ。

 プシュケーとストラテーゴスの式も、すぐに執り行われる。ストラテーゴスは、目の悪いプシュケーに毎日のように香りのいい花を贈って、それを周囲にからかわれても平然としているくらいに夢中だ。プシュケーも、目のことを気にしないストラテーゴスに、信頼を寄せている。

 スピラ嬢は怪我が随分癒えて、このところ歩けるようになった。アイオン殿下は足繁く彼女の見舞に行っており、皇太子の婚約者など荷が重いと憂えていたスピラ嬢は、殿下のなさりように相当安心している。おふたりで本を読んだり、スピラ嬢が弾く竪琴に合わせて殿下が詩を読まれたり、仲睦まじくしている。

 スピラ嬢の少々おっとりしすぎているところを、将来の皇帝の妻としてどうなのかと官吏達は危ぶんでいたそうだが、アイオン殿下が日に日にスピラ嬢を愛するのが手にとるようなので、誰も文句をつけなくなった。皇太子の婚約者を選ぶ()()は、やはり、正しい相手を選ぶ。

 それから、(クラス)の仲間にも嬉しいことが起こるかもしれない……。

 そんなふうに、素敵なことばかりが起こっていたのに。


「ソルダはどうなのですか?」

 リョートは頭を振る。「よくないようです」

 ソフィアは目を瞑り、溜め息を吐く。哀しげだし、困惑しているようだった。それもそうだ。学園でリョートと同じく最上位(クラス)に所属しているソルダが、毒を()んで前後不覚になっている。

 そしてやはり同じ級の、辺境伯カロスは、怪我で意識を失ったままだ。






 カロスは昨日、学園の中庭で、倒れているところを発見された。見付けたのは、最上位級に所属しているストラテーゴスだ。

 その中庭は、最上位級の教室の窓から、自由に行き来できるようになっている。ほかの教室からは這入れず、四辺のうち二辺は書庫の壁、一辺は渡り廊下に遮られている。渡り廊下の向こうには、馬術などの訓練もするひろい庭があった。最上位級の教室に面しているのもあって、渡り廊下からでも這入れるのに、這入る生徒はほとんど居ない。その為、ほぼ最上位級生専用になっていた。

 授業の合間、雨や雪でなければ、中庭へ出て歩いたり、軽く剣の稽古などして、最上位級生達は息抜きをするのだ。リョートも同じ級だから、ソフィアの薬をつくる係になるまでは、そんなふうにしてすごしていた。同級生達がどんなふうにしていたかも、ありありと思い出せる。


 病んで伏せる前のソフィアは、中庭をひとめぐりしていた。倒れて動けなくなる直前には、歩くのが億劫そうで、席に着いたまま物語を読んでいた。

 プシュケーはその時期の花の傍で、その香りを楽しむ。花がない時期ならば、木陰でレースをあむ。下の(クラス)のミナが遊びに来て、プシュケーとレースの編み図を交換する姿も、たまに見られた。

 ブラーミャは窓の辺りで、日の光を浴びながら、紀行文を読んでいる。たまに教室をはなれて、書庫の壁、その窓の下辺りまで走って、また戻ってくる。動かないでいると頭が働かない、といっていた。

 ストラテーゴスとミル、それにカロスは、よく一緒にすごしていた。木剣で剣術の稽古をしたり、中庭にあるテーブルにチェス盤を持っていって、そこで一局さしたり。

 ガラが女らしくなくそれに加わることもあった。彼女は槍術に長けていて、槍ならその辺の男にも負けない程だ。棒きれを振りまわし、ストラテーゴスをのしているのを見たことがある。それから、ソフィアが居る頃は、アンドレイアスがわざわざやってきて、彼らと木剣を振っていた。

 ソルダは中庭を歩いて、木を眺めるのが好きらしい。彼女は木彫が趣味だ。それだからなのか、木が好きなようで、木をぼんやり眺める姿をよく見た。下の級のローディナと親しいようで、書庫の窓越しに話すこともあった。

 リスベット……事件を起こし、国へ帰って処罰をうけたという彼女は、刺繍がお得意だった。あの頃は楽しそうに刺繍をして、プシュケーやソルダと笑いさんざめいていた。

 イオンとリョートは、一緒にすごしていた。隣り合って座って、他愛ないことを喋り、或いはなんにも喋らず、ただ同じ時間を共有する。イオンと一緒に居る、というだけで、どうしようもなくしあわせなのだった。


 昨日、リョートは、五日に一度の薬を調合する日で、授業をふたつ休んでその作業をしていた。本来、学園に在籍している人間の仕事ではないのだが、ソフィアがリョートを指名したので、薬の調合の為に授業を休むことはゆるされているのだ。

 ほかの生徒達よりも遅れて、長めの休み時間に教室へ着くと、丁度、ストラテーゴスの助けを呼ぶ声がした。

 窓の傍でいつも通り、紀行文を読んでいたブラーミャと、なにかの書類に目を通していたイオンと一緒に、リョートは不安に苛まれながら中庭へ出た。

 すぐ傍の花の茂みにプシュケーと、あらたに最上位級に編成されていたミナが居た。三人同様ふたりも、ストラテーゴスの声を聴いてそちらへ向かおうとしていたが、イオンがそれを停めた。プシュケーは目が悪いので、どうしても足手まといになってしまう。なにか危険があった場合に庇えないから、その場にとどまっておいてほしい、といったのだ。ストラテーゴスの婚約者であるプシュケーは不満そうだったが、イオンのいうことは理解できたのだろう。最終的には納得して、ミナと一緒にその場へとどまった。

 茂みを掻き分けて奥へ行くと、教室に置いてある木剣を手にしたガラとミルが追いついた。ふたりは教室に居なかったが、ストラテーゴスの声を聴いて戻り、木剣を手にやってきたのだ。

 灌木にドレスの裾をひっかけながら必死にこえ、黐の木立をぬけると、円形に花を植えられた場所に出る。かつては花時計としてつかわれていたが、今は周囲に木が茂り、意味をなさなくなっている。ただの、円形の花壇、だ。

 そこに、カロスが倒れていた。頭から血を流し、まっさおになって。

 そこにはストラテーゴス、それから、やはり倒れているソルダが居た。






 カロスもソルダも、リョートとブラーミャ、イオンで応急処置を施した。その間に、ガラが更に奥へと走って、書庫の壁にまで辿り着き、窓へ向けて助けを求めた。書史がそれに気付いて、書庫に居た生徒達のなかで医学や応急処置の知識ある者がかけつけ、それからすぐに医師や看護人もやってきた。

 どちらも一命をとりとめたが、状態はよくない。

 助かったのは、リョートとイオンが居たからだ。ふたりが協力して処置をしていなかったら、危なかった。

 カロスは後頭部を強か殴られ、あと少し処置が遅かったら死んでいたような状態だ。

 強烈な殺意のもとカロスを殴ったのだろうと医師はいったし、実際傷口を見たリョートもそう考えている。殺意がなくば、あそこまでの傷口にはならない。肉が割れ、黄色い脂肪が飛び出し、血があふれ、骨が覗いていた。ブラーミャが血の気を失い、医師達に治療をひきついだあとに吐いていた程だ。

 ブラーミャもリョートと一緒になって、怪我人の処置をすることはある。そのブラーミャでも気分が悪くなる程の怪我だった、ということだ。リョートが回復魔法をつかわなかったら、医師達が来る前に死んでいたのは間違いない。


 ソルダも、リョートが持っていた吐剤で嘔吐させたのが、幾らか役に立った。イオンが、強引に吐かせても問題のない毒だと診断したので、吐剤を()ませた。イオンは毒にくわしいのだ。それで、ソルダは毒を吐き、現在、危篤状態は脱した。


 ただふたりとも、命は助かったが、まったく大丈夫だといえる状態ではない。どちらも意識をとりもどさないし、カロスはともかくソルダは、傷病者を見慣れたリョートの目から見ても、はっきりいって安心できる容態ではなかった。生きるか死ぬかの瀬戸際だ。帝国で最高の治療をうけているから、あとは当人の体力と運次第だろう。






「ソルダがあのような、おそろしいことをするなど、わたしには信じられません」

 気付くと口にしていて、リョートはぱっと、両手で口許を覆った。ソフィアは目をうすく開いて、気の毒そうにいう。

「ですが、情況は、彼女が犯人であると示しています。残念ですが、なにか行き違いがあって、ソルダがかっとなったと考えるのが自然ですね」

 それはリョートもわかっている。


 あの場に居たのは、頭をかち割られたカロス、武器になりそうなものを持っていないストラテーゴスと、ソルダの三人。ソルダの傍には、教室にいつも置いてある木剣が落ちていた。血に塗れて。

 ソルダは木彫を趣味にしているからか、女にしてはかなり力がある。木剣といっても、子どもがおもちゃにするようなものではなく、きちんと訓練につかえるような強度のものだ。全力で振りまわせば、相手に甚大な被害を与えられるだろう。ソルダの腕力なら、可能だ。


 ストラテーゴスがカロスを殴ってソルダに毒を()ませた、という可能性もないではないが、ソルダは倒れたカロスとかなり近い位置に横たわっていた。服装の様子などから、よそから運ばれた形跡はない。

 カロスが頭から血を流して倒れているのを見て、素直に毒を()まされるとも思えない。彼女は女にしては力もあるので、ストラテーゴス相手でも抵抗して、少なくとも花時計を相当踏み荒らしただろうと推測される。だがそんな形跡はなかった。そして、頭を殴るなどして意識を失わせ、毒を()ませたにしては、外傷はない。ソルダは一見して、毒を()まされた様子だったので、リョートは回復魔法をつかわなかったのだ。

 リョートのつかえる回復魔法は、毒には効果がうすい。更に、一見してカロスの状態が悪かったので、そちらに集中したかった。イオンに毒の種類を特定してもらい、吐かせたほうがいいと判断したのちは、ブラーミャとイオンに任せていた。

 抵抗せずに毒を()んだ、のではなく、自ら毒を()んだと考えれば、話は簡単なのだ。




 筋は通っている。理屈はわかる。

 だがそれでも、心情的に納得はできなかった。あの、大人しくて優しいソルダが、なんの為にカロスを襲うというのだろう。彫刻を楽しみ、嬉しそうに、あたらしい材料を手にいれた話をしていた彼女が、一体どうしてカロスに恨みを抱くのだろう。

「ソルダの手に、毒の小壜があったそうですね」

「はい……それがあったから、イオンさまがすぐに、なんの毒かを判断してくださったんです」

「壜や毒のでどころは、わかりませんが、彼女には抵抗した様子が一切ない。彼女の力であれば、辺境伯を襲うことは可能です」

「理由は? 理由はありません」

「ソルダは結婚も婚約もしていない。カロスがソルダと、そのような間柄になったとは考えにくいですが、ソルダのほうがなにか誤解した可能性はあります」

「そんな。それは、こじつけのように聴こえます。()()()ありえません」

「わたしだってこんなばかげた話は信じていない」


 ぴしゃりと叩きつけるような、強い口調だった。リョートはびくりと、身を震わせる。

 ソフィアがそのような喋りかたをするのは、滅多にないことだ。第三皇女でありながら、ソフィアは常に、誰に対しても丁寧な調子で喋る。階級が遙かに下のリョート相手にでさえ。

 ソフィアも、ソルダ犯人説に、違和感を覚えている。だが、ソルダか、ストラテーゴスにしか機会がないこともわかっている。そして、そのふたりであれば、ソルダのほうが怪しい、ということも。

 教室の窓の傍には、いつもの通りブラーミャが居た。その近くでは、イオンが書類に目を通していた。中庭への出入り口は、そのふたりで封鎖された状態だった。

 渡り廊下に関しては、その向こうのひろい庭に多くの生徒がおり、渡り廊下のすぐ近くで著述家について議論している先生と生徒が居た。そこから中庭へ這入ったら、誰かが見ていた筈だ。


 ソフィアは疲れたみたいに、或いは哀しげに、長々と息を吐いた。マグを傾け、薬をすする。リョートはそれを見て、小さく頷いた。わたしがなんとかしないといけない。わたしが。ソルダの名誉の為にも。だって彼女は……。

 ソフィアは寝台から動けないし、アルケは、婚約者が重篤な状態で沈み込んでいる。本当の犯人が証拠を消してしまう前に、調べないといけない。

 わたしは最上位級生だから、あの場所へ出入りできる。

 いつもよくしてくれているソフィアや、アルケの為に、調べないといけないと、リョートはそう決意した。






 皇女の居室を辞し、廊下を歩いていたリョートは、窓から外を見ていて、ふと閃いた。

 もし、この方法が可能ならば。

 もし、ソルダが……。

()()()

 リョートは息をのみ、立ち尽くした。

 心臓がどくどくと高鳴っている。

 たしかめなくてはならない。たしかめなくては。

 リョートは学園へと急いだ。侍女達になにもいわず、たったひとりで。











 ああ、なんてこと。

 ()()場所で、自分の考えがおそらく正しいことに衝撃をうけ、呆然としていたリョートは、それに気付かなかった。

 背後から忍び寄った何者かが、息をひそめている()()()が、自分へ手を伸ばしていることに。











 その夜、侍女達の訴えをうけ、リョートをさがしていた兵士達は、学園の中庭の黐で縊れている彼女を見付けた。






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