閑話――それは温度で変化する
「あちっ」
「カロス、あなたって本当に、最上位級に在籍しているの?」
婚約者殿の手をとる。アルケは彼をひっぱって、流しへとつれていった。みずがめから、手桶で水を掬い、彼の手へかける。カロスは口を尖らした。
「ちゃんと鍋掴みをつかったよ」
「きちんと乾いていた?」
「え?」
アルケは調理台を、顎で示した。そこには、壜が数本並んでいる。
「ほらさっき、地下から持ってきたクラレットの壜を、あの鍋掴みの傍へ置いていたでしょ。地下はとても寒くて、壜は年中ひえているわ。壜に結露した水分が、あの鍋掴みへうつってたのじゃない? 濡れた鍋掴みでは、意味がないじゃないの」
「そうなの?」
「そうでしょう? 水分なのよ。熱が伝わるわ」
きょとんとするカロスへ、アルケはくすくす笑う。「お料理だけは、わたし、あなたに大きい顔をできるわね」
第五皇女・アルケにあてがわれた区画には、立派な厨がある。アルケは料理が趣味なのだ。皇女らしくない、といわれることはあるが、料理や裁縫は女性のたしなみと思われている帝国なので、皇女らしくはないが女性らしくて宜しい、となる。
そんな訳で、大きなオーブンがある厨がほしい、というアルケの願いを、父帝はあっさりかなえてくれた。といっても、嫁いでいった上の姉のお下がりだ。きちんとつかえればいいから、アルケにしても文句はない。
「じゃあ、まえストラテーゴスの邸で事件があった時の、あれは?」
「あれって?」
「ほら、被害者が火傷してただろ」
「あ、そういえばあれ、どうなったの? プシュケーの侍女は」
「ああ、目を覚ましたそうだよ。後遺症はあるかもしれないけれど、ストラテーゴスの家が保障するって」
「よかったわね」
「ねえアルケ、教えてよ。彼女が火傷してたのはどうして?」
「血が出てたからだろ」
アルケとカロスは、揃って、厨房の出入り口を見る。そこには、第四皇子のエクシプノスが、にこにこして立っていた。「姉さん、お菓子、頂戴」
「咽に詰まらせるわよ、カロス」
「あつい」
「そんなのはわかりきってることじゃないの。わたしのいうことをきかないから火傷するのよ」
「うまいからいいよ」
「姉さん達は相変わらずだなあ」
エクシプノスはくすくすして、少しさましたビスケットをかじる。クラレットとオリーブ油をつかったもので、ざくざくとした食感がおいしい。
アルケは微笑んで、昨夜のうちに煮出して、地下でひやしておいたお茶を、弟のマグへ注いだ。エクシプノスはアルケの二歳下で、半年ほど外遊していた。つい十日前に戻ってきたばかりだ。
あまりにも賢い為、学園にはいることすらなかった子だ。第三皇女・ソフィアも賢いが、エクシプノスは賢すぎて生きるのが難しいと心配される程である。
「相変わらず、騒がしいって意味?」
「ううん。仲好しで、羨ましい」
エクシプノスは溜め息を吐き、即席のテーブルになった調理台へ、肘を置く。カロスは熱いビスケットをざくざく嚙んで、つめたいお茶を飲み、おいしそうにうーんと唸る。
アルケは自分用のとり皿へ、ビスケットを数枚いれる。
「あなたにはアステラが居るじゃない」
「うん……」
エクシプノスはもう一度、溜め息を吐く。「そのことで相談したくて、来たんだ。俺、アステラにきらわれたのかもしれない」
アステラ、とは、エクシプノスの妻だ。エクシプノスの十歳上で、子爵家の娘である。正式にはデビューしておらず、婚期も大幅に逃していた。彼女の父母が相次いで病になり、その看護にすべての時間を割いていたのだ。
一昨年、長く煩っていた父が亡くなり、両親ともに失った彼女は、婚約もしておらず、婚期も逃していたことから、兄達に迷惑をかけたくないと、小さな修道院へ髪をおろすことを願い出た。そこの尼僧がアステラを憐れに思い、修業時代の友人だった院長が居る、大きな修道院へ相談したところ、その修道院にある幾何の本をかりようと赴いていたエクシプノスが、たまたまそれを耳にした。
どのような女性か、興味を持ったエクシプノスは、アステラを見て心奪われた。その場で求婚し、アステラは戸惑っていたが、彼女の兄達が承諾した。世のひとは、苦労した娘に幸運が訪れたと、その当時随分騒がれたものである。
去年結婚したのだが、エクシプノスは父帝に命じられて、半年かけて幾つかの国へ行っていた。戻ってきて、さぞアステラと仲睦まじくしているのだろうと思ったが……。
「アステラは、身持ちのかたい女性よ。あなたが居て、ほかの男性となにかあるってことは、ないでしょう」
「それくらいわかってる。でも、本当に俺を好いてくれているのか、わからなくなってきた」
「何故?」
「このところ、俺が話しかけても心ここにあらずで、まともに会話もできない。男爵の邸が火事になったから、心配でだろうと思っていたけれど、怪我人がひとり出ただけだっただろ。もう修繕だってはじまってるんだから、気にしなくてもいいじゃないか」
「ああ、そっか、火事があったね」カロスが大口を開ける。「あれはひどかったなあ」
アステラには兄が三人居て、一番上が子爵位を継いでいる。次男は男爵家に婿入りし、男爵になった。三男は宮廷の書庫勤めで、人当たりは悪いが学究肌で、エクシプノスとは気が合う。
その、男爵になった次男の上邸が、この間火事になったのだ。
「失火だったんだろ? 使用人が、かまどの火を消しそびれたって」
「そう聴いてる」
「火事には気を付けろって、あれだけ巡回しているのに」
アルケは鍋掴みを見て、小さくいう。「ねえ、エクシプノス、わたしはあの火事についてくわしく知らないの。教えてくれる?」
火事が起こったのは、半月前だ。
帝都のなかでも、中心部からはかなり外れたところにある、男爵上邸が燃えた。厨が火元で、そこから燃え始めて邸全体へと火が移っていったのだ。
その日、男爵一家は居なかった。数週間の旅をする予定だったのだ。残っていたのは、年老いた従僕ひとりと、雇われたばかりのめしつかいがふたり。三人は、留守居をする褒美として、男爵から菓子を賜っていた。それを食べたあと、三人は見回りをしてから眠り、しばらくして火が出た。
「火元の厨は、その三人は見なかったの」
「そっちは、使用人がつかうものじゃないんだそうだよ。ほら、貴族の邸だと、結構あるだろ? 貴族がつかったり、運よく陛下の行幸があったらつかう厨と、使用人達のものとを分けているところが。男爵邸には厨がみっつあって、普段男爵一家が食べるものを煮炊きしている厨から火が出たんだ」
アルケは頷く。たしかに、そういうふうに、幾つもの厨がある邸は、めずらしくない。
幸運にも皇帝がお越しになったら、召し上がるものを、使用人と同じかまどでつくるのは無礼だ、と考える者があるのだ。そういう貴族達は、厨を分ける。普段自分達が食べるものも、使用人と同じかまどではつくってほしくない、という、なんだか傲慢なような考えを持つ者も、めずらしくない。きちんとしたかまどであれば、どんな厨でもできるものは一緒だろうに。
「もの凄い火だったらしくて、厨はまっくろこげ。そこからおもやも燃えてしまって、無事なのははなれだけ」
「ふうん。でも、留守居をした三人は、厨を見なかった訳?」
「従僕は、主の食事をつくるところだし、料理人がきちんと火を始末して出ていったと思ったって。おそれおおくて近寄らなかったそうだよ。あとのふたりは、古くから仕えている従僕がそこに近寄らなかったから、それでいいと思った。それに、仕事に慣れていなくて、疲れていたから、はやく寝たかったんだって」
「でも、朝には火を消したんだろう。どうしてそこから燃えたの?」
「かまどに熾があったんだろうって」
エクシプノスは、ビスケットをぼりっと割った。「かまどの傍には、木製のざるや、布巾も置いてあった。それがなんらかの理由でかまどに落ちて、もえたんじゃないかって」
「おもやがまるまる燃えてしまったら、家財も随分失ったろうし、大変じゃないのか、君の義兄は。よくすぐに修繕をはじめられたな」
「大変だけど、貴族の友人達で、講をしていたらしい。お金を出し合って貯めておくやつさ。ほら、アステラの両親は、病になって、治療やなにかでお金が凄くかかっただろ。だから、アステラもだけれど、アステラの兄達も、そういうのをおそれているんだ。誰かになにかあったらお金を出すって約束で、毎月少しずつ、みんなで貯めていたんだって」
「しっかりしたひとだね。ねえ、アルケ」
「ねえ、エクシプノス、男爵の領地の特産品ってなんだったかしら」
「ん? 紙だよ。つくってる訳じゃないけど、交易してる。木材と、海外の頑丈な紙を交換してるんだ」
「……アステラは、心配しているんだと思うわ」
アルケは顔をしかめる。「そして多分、その心配は間違っていない」
エクシプノスもカロスも、きょとんとした。アルケは鍋掴みを持ち上げる。
「ねえ、エクシプノス、水は燃える?」
「なにをいってるのさ。燃えないよ」
「そう、燃えないの。でも熱は伝わるわね。温度が上がる。そして、蒸発する」
「そうだよ。蒸発して……」
エクシプノスは、ぽかんと口を開けた。
数日後、エクシプノスの義兄にあたる男爵が、逮捕された。自宅にわざと火をかけ、火事を起こしたことと、火事を理由に友人達を騙して金をまきあげたことが、逮捕の理由だ。ついでに、男爵と結託していた大工達も捕まった。実際よりも工事費用を多く申告し、余剰分を男爵と山分けしていたのだ。
アステラは修道院にはいると泣いているそうだが、エクシプノスが説得し続けている。彼女は計画を知らなかった訳だから、なんの咎もない。
「でも、不思議な話だね。紙なのに燃えないなんて」
「だって水分があるもの。水がある限り、紙は燃えないの」
学園の庭を散歩しながら、アルケとカロスは小さな声で話している。
男爵邸の火事の仕組みはこうだ。まず、男爵は昼、出発前に、かまどに火をおこし、五徳を立てる。そこに、五徳にはまるような格好に成形した紙の鍋を置き、水を注いでおく。
丈夫な紙は水では破れない。下からの火で、水は徐々にあたたまり、お湯になる。お湯はどんどん蒸発していく。
ある瞬間、水がなくなって、紙に火が移る。そこから、周囲に巧妙に配置しておいたざるや布巾へ火が移る――。
留守居の三人に渡した菓子には、眠くなるような細工がしてあった。下手したら眠りこけていて火事に気付かず、焼死した可能性もあったそうだから、性質が悪い。家財やなにかは前日までに運び出していて、それを売った金も懐にいれていた。
そこまでして金を得ようとしたのは、交易の失敗で、男爵に借金があったからだ。
アルケは溜め息を吐いた。
「まあ、アステラのお家には、もともと問題が多かったわ。アステラひとりにご両親の看病を任せて、兄達はなんにもしなかったんだもの。三人ともお仕事を理由にしていたそうだけれど、腕のいい看護人を雇うくらいのことは、三人誰にだってできたわ。アステラはともかく、まわりのひと達が、彼女が苦労したのは皇子に見初められる為の修行だったんだなんていっているのも、どうかと思う」
「そうだね。僕は君に好かれるのに、苦労はしてない」
アルケはぱっとカロスを仰いで、息を吐いた。カロスがこんなに明るくて、正直でいてくれるから、こんなにいやなことがあってもなんとか正気でいられるのだわ、と思いながら。




