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閑話――犯罪の印影






「久々に見舞に来て、このような相談をするのは気がひけるのだが……」

 第三皇子エリュトロンが、申し訳なげに頭を掻くと、寝台の上の第三皇女ソフィアは、鷹揚に微笑んだ。ソフィアの婚約者、アンドレイアスは、やわらかいタオルで、彼女の顔を拭う。かすかに、生え際の辺りに、汗があった。

「いいえ、エリュトロン殿下。しばらくぶりにお顔を見ることができて、嬉しいです。それに、どんなお話でも、聴くのは楽しいです。こんな体ですから」

 ソフィアは、むくんでいる手を、兄へ向けた。エリュトロンは心配そうに、妹とは似ていない細い目を、更に細くする。口が不満そうに、への字になった。「薬があっていないのじゃないか? フォグ卿はもっと腕がいいと思っていたが、このところ、頼りないのではないかと疑っている」

「これでも随分、よくなっているのです。エリュトロン殿下、心配戴いて、嬉しいですわ」

 ソフィアが穏やかに、丁寧にいうと、エリュトロンも冷静さをとりもどしたようだ。不満げながら、お前がそういうのなら、ともごもごいい、小さく頷く。アンドレイアスはソフィアとそっと目を合わせ、苦笑を交わした。

 きょうだい思いの優しい皇子は、病の妹のことを常日頃から、非常に心配している。ソフィアの主治医のフォグ卿に何度もつっかかっていったし、婚約者のガラに窘められても、心配だからと二度ほど薬房へもおしかけている。二歳(ふたつ)違いの弟殿下が怪我をした時も、数日食事をとれない程に憔悴してしまったくらいだ。妹が長患いしているのは、つらいだろう。現にエリュトロンは、結婚を延期した。これで三度目だ。妹が病で伏せっているのに華燭の典などとんでもない、というのだ。


 ソフィアは兄が落ち着いたのを見て、くすっと、いたずらっぽく笑った。

「こうやって一日中寝ていて、楽しみらしい楽しみもないものですから、いろんなひとがお話をしてくれるのは、とても嬉しいのですよ。アンドレイアスさまも、よくお話をしてくれます」

「アンドレイアスは、実に頼りになるな」エリュトロンはにっこり笑って、アンドレイアスを見遣った。「立っていないで、座りなさい。君にも聴いてもらいたいんだ」

 アンドレイアスはお辞儀して、用意されている椅子へ座る。寝台をはさんで、エリュトロンとは斜向かいになる。

 ソフィアは顔まわりの髪を、煩わしげに払いのけた。

「工夫を凝らしてあれやこれやと悪事を働く人間というのは、物語のなかのことのように現実感がなくて、お話として面白いんです。まったく以て、不謹慎ですけれど」

「長患いしているお前に、誰が不謹慎だなどというもんか」

 エリュトロンは口を尖らせて、椅子へ座り直した。懐から、質のいい羊皮紙をとりだす。「俺は単純な人間だから、ややこしいことはわからないし、ひとの気持ちも理解できない。その上あまり物覚えがよくないんで、きちんと書き付けてきたよ。ガラからきいたことを全部」

 エリュトロンは羊皮紙を開く。そこには、細かい字がびっしりと並んでいた。それを見て、エリュトロンは、小さく溜め息を吐く。

「彼女には長いこと、俺のわがままを聴いてもらっている。婚約も俺のわがままだし、馬術や剣術の鍛錬にも付き合わせてしまって……だから、今度のことはどうしても、解決してやりたいんだ。ガラが俺にものを頼むなんて、滅多にないことだしな。まるで、俺を男と思っていないみたいに、頼りにしてくれないのだから」

「彼女は控え目で、自立した人間ですからね。エリュトロン殿下に迷惑をかけたくないのでしょう。皇家に嫁ぐ女性として、彼女ほど相応しいかたは居ませんよ」

「うん、それには同意する」

 エリュトロンはにっこり笑う。自分でもいうように、彼は単純で、愛すべき正義漢である。アンドレイアスはまた、ソフィアと目を合わせ、小さく笑った。彼女もそうする。


 扉が開いて、前掛け(エプロン)をつけた令嬢が、盆を手に這入ってきた。ソフィアの侍女も一緒だ。盆の上には、伏せたマグ、それから薬のはいった小さな鍋がある。ソフィアはその匂いに、ぎゅっと顔をしかめた。

 エリュトロンがそちらを向いた。「おお、リョート。妹がいつも世話になっているね」

 声をかけられた、薬を持ってきた令嬢は、首をすくめるみたいにした。顔がほころぶ。

「殿下、お畏れながら、わたしはブラーミャでございます」

「うん? ああ、そうか、すまんすまん」

 エリュトロンは苦笑いして、頭を掻いた。


 リョートはソフィアの薬係の令嬢で、ブラーミャはその妹だ。

 一歳(ひとつ)違いで、ほんの少しリョートの背が高いのを除けば、うりふたつである。少し前に、くだらない嫉妬で毒を盛られ、前後不覚になってしまったが、リョートの薬で危ない状態は脱した。まだ少しだけ、体に痺れが残っているものの、薬の服用を続ければ半年もすればもとどおりになると、医師は太鼓判をおしている。

 ブラーミャは、小さなテーブルに盆を置き、こちらを振り向いた。微笑んでマグをひっくり返す。その右手には、中指の第二関節、という中途半端な位置に、細い指環がはまっていた。最近帝都では、女性の間で、やけに細い指環がはやっているのだ。宝石はついていたり、いなかったり、様々だが、アンドレイアスにしてみたら半端で邪魔な位置にはめている者が多い。

「侍女が蛇に嚙まれてしまって、姉はその解毒剤をこしらえております。こちらのお薬も、間違いなく姉がつくって、侍女達できちんと確認いたしましたので、殿下、お()みください」

「ええ、その匂いなら、間違いなくお薬でしょう」

 ソフィアが顔をしかめ、アンドレイアスは微笑む。最近処方がかわって、ソフィアはその薬の味をきらっているのだ。

 妹に甘いエリュトロンは、アンドレイアスのようには楽観的ではなかった。「ソフィア、口に合わんのなら、別の薬を持ってこさせればいいではないか?」

「殿下、そうもいかないのです。これが一番なのですから」

「むむ、そういうものか……」

 エリュトロンは不満げに顎を撫で、ブラーミャが鍋からマグへと薬を移すのを見ている。






 ソフィアが薬を()んでいる為、ブラーミャと侍女もその場へ残った。どちらも椅子をつかおうとはしない。

 エリュトロンは、彼女らを気にしなかった。羊皮紙を見ながら、婚約者のガラから相談されたという内容を、ぎこちなく喋る。

「ブラーミャが居るのは丁度よかったかもしれない。ガラの母上が、彼女達姉妹と同じ国の出であるのは、知っているな?」

「はい、殿下、存じております」

「うむ」

 エリュトロンは頷いて、妹を見た。

「では、その国の王位継承が、帝国とは随分違っているのは?」

「勿論、存じています。薬を()む間、リョートがここでわたしの気を紛らすように話してくれるのですけれど、彼女の生国のお話も随分聴きましたから」




 リョートとブラーミャの姉妹、そしてガラの母親が生まれた、帝国から見れば辺境にある小国は、王位継承の決まりがややこしいことでおなじみだ。王の息子で、王子の位を賜っていても、継承順が遅い、ということがある。年齢順で選ばれることさえめずらしい。


 男児で、玉座に座る為に必要な条件は、ふたつ。

 まず、両親のどちらかが、王家の出であること。そうでない場合は、大体五百年以上昔に叙勲された貴族の出身者が両親であること(この両親も、二親がともに五百年よりも昔に叙勲された貴族であるか、王家の人間でないといけない)。そして、結婚していないといけない。この結婚に関しては、出自の制限はない。

 続いて、女児が玉座に座ろうと思えば、条件はやはりふたつ。ただし、男児とは違う条件だ。

 ひとつめは男児と同じ。両親のどちらかが王家の出であるか……というやつだ。

 もうひとつは、王家の人間か、五百年よりも以前に叙勲された貴族の男性と結婚していること。


 これらには理由がある。件の国の、五百年より前に叙勲された貴族というのは、もとを正せば王家へつながるのだ。その為、それらの家の男児でも女児でも、王の伴侶や親になるのに誰も違和感を持たない。王に子がない場合、玉座に座るのも、場合によっては気にしない。

 その為、か、両親ともに王族である王子が一番優先度が高く、二親ともに貴族の王女が一番優先度が低い、というような不文律が、いつのまにかできあがっていた。




「今の王は、両親ともに王家の出身で、父親が前の王。どこからもものいいがつくことなく玉座へ座った。そのようになんの滞りもなく王位の継承が成るように、これらの決まりができたそうだが、それでも、王位を継いだり、王太子を決める時には、紛糾する……と、ガラはいっていたが、そうなのか? ブラーミャ」

「はい、おはずかしい話ですが」

 ブラーミャは侍女が淹れなおしたお茶を、アンドレイアスやエリュトロンへと渡す。「こちらの習わしと違い、我が国では、男性が複数の妻を持つことはめずらしくありません。ですので、生まれ順などで、その……面倒なことが起こるのです。生まれが遅くとも、両親とも王族である王子が優先される、というようなことが。ですが、次の王太子を決めるのは、そう紛糾はしないと思います」

「うむ。もしかしたら、この辺りは君に説明してもらったほうがいいかもしれない。俺ではしっかり理解できていないかもしれないから、君が今の王と、その妻について説明してくれないか?」

「殿下がおっしゃるのなら、そういたします」

 ブラーミャはそういって、ちょっと宙を見る。細くて形のいい指を、軽く頬へあてた。「陛下には、今、奥さまが三人いらっしゃいます」






 王の妻は三人。

 第二夫人、こちらは生家が古くからの貴族で、当人は母親が王女であった。その為、一番の年少ではあるが、以前は第一夫人、現在は第二夫人の座に居る。

 聡明、かつ女性にしては大柄で、体が丈夫。病らしい病はしたことがない。また、大きな目と小さな顎、完璧な眉、上等な紅茶のような色の長い髪も相まって、大変な美女であると評判だ。王に対しての愛は深く、結婚してから長いが、未だに王と詩をやりとりする程。週に一度は確実に、王が会いに行く。

 しかし、嫁して年月が経つものの、子どもを持てていない。体にまったく問題はないのだが、子を持てずに鬱屈とした日々を過ごしていると噂になっている。


 第三夫人、こちらも古くからの貴族出身だが、二親がともにそうである為、三人のなかで一番の年長だがその座に甘んじている。以前は第二夫人であった。

 二冊、裁縫についての本を上梓した、家庭的な婦人で、小柄、愛らしい幼い顔立ちをしている。濃い緑に白が二筋まざった、ふわふわとした巻き毛は、王との間に儲けたふたりの王子がまだ幼く、ひっぱって遊ぶとかで、結い上げずに自然に流しているのが常だ。甘く、可愛らしい声で、貴族といってもかなり田舎で育った為に、言葉が時折砕けている。

 王が好きで好きでたまらない様子は、宮廷でも有名だそうだ。ブラーミャが言葉を濁したのを見るに、少々悪い評判が立っているらしい。

 基本的には穏やかで大人しいのだが、子どもっぽく感情をあらわにすることも多く、ちょっとしたことで激昂したり、号泣したりする。王が会いに来ないとあからさまに不機嫌になるので、それ以外の感情の起伏が激しいのも含めて、悪い意味で「女らしい」と評されている。

 第二夫人とは犬猿の仲で、会えば刺々しいやりとりを交わす。第二夫人は都生まれの都育ち、洗練された上品なものを好み、冷静沈着で物静かなのだが、第三夫人は田舎育ちで前述したように感情的な部分があるので、度々礼儀を失した行動をとったらしい。


 このふたりと、王、そして前の第三夫人とは、同じ時期に学園に居た仲だ。その当時からすでに、第二夫人と第三夫人は、度々喧嘩をしていた。前の第三夫人も、その輪に加わっていたらしい。

 数度、夫人達で、とっくみあいの喧嘩になったこともある。ふたりを隣り合わせるとややこしいことばかりが起きるので、宴の席では間に誰かがはさまるようになるのが普通だ。

 王も、第二夫人と第三夫人の仲の悪さには辟易しているらしく、何度か苦言を呈したものの、ふたりとも「わたくし達は仲が悪くなどありません」といってきかない。


 そして、第一夫人。年齢でいえば第二夫人と第三夫人の間だし、序列では一番上なのだが、意外にも、今現在の王の妻のなかで、嫁いだのが一番遅いのは彼女だそうだ。

 第二夫人と同じく、貴族に嫁いだ王女の娘で、更に、両親の母も当時の王女だ。その為、第二夫人よりも優先されるべき存在とされている。

 はつらつとした女性で、王の遠乗りに付き合うなど活動的。武芸も学んだことがあるという。色白で、凜とした美貌。亜麻色の髪にはいつも、花をもした飾りをつけている。

 第一夫人になったのはつい数年前、有力貴族達の強力なあとおしがあった為だ。

 王には常に、三人から五人の妻が居るのが普通なのだそうだが、その一年と少し前に当時の第三夫人が亡くなってから、王はあたらしい妻を持つことを強硬に拒んでいた。その上、かなり真剣に、いとこへ玉座を譲ることを計画していた。

 そこで、そのような行動は亡き第三夫人も望まぬことでしょうから、と貴族達で説き伏せ、あらたに妻を迎えることを納得させて、この第一夫人がやってきた。第一夫人は、嫁いできてまだ浅いが、すでに息子が居る。


 そして、その王の子ども達、前・第三夫人の子どもふたりを含めた五人が、ガラがエリュトロンに、はじを忍んで相談した理由だった。




「王子が三人も居るのなら、跡取りの心配はしなくて宜しいでしょうに」

 ブラーミャのやわらかい声での説明が終わり、ガラが王子のことで相談してきたのだとエリュトロンがいったので、ソフィアがそういった。エリュトロンは頭を振り、羊皮紙へ目を落とす。

「そういうことではないんだ。誰が跡を継ぐかでもめるくらいなら、どうということはない。それに関しては、今の第一夫人の子どもが有力だそうだ。問題はそこではなくてだな……」

 こほん、と、エリュトロンは咳払いする。「……今の第三夫人にも、王子がふたり居るといったろう。そのうちのひとりが、不自然な状況で怪我をした」

 ソフィアの眉が、ぎゅっと寄った。






 エリュトロンがガラから聴いたのは、こうだ。


 数ヶ月前のこと、王の夫人達はお茶会で顔を合わせた。

 お茶会は、月に二回行われる定例のものだ。主催者は第一夫人、招待されるのは王の妻達、子ども達、爵位を持った貴族達とその子ども達。

 貴族は大勢居るので、そのすべてが招かれるのではなく、何月の何回目なら某家、というふうに決まっている。一回のお茶会で、大体五つ程度の家が招かれる。更に、この栄誉あるお茶会に招かれるのは、五百年より前に叙勲された貴族の家系のみ、と決まっている。

「あたらしい家のかた達には、そういうかた達だけが招かれる食事会が、年にに四回行われます。それだけでも充分なくらい、あたらしいお家は多くないので……」

 ブラーミャの補足に、エリュトロンは小さく頷いて、続ける。

「そのお茶会で、第三夫人の息子がひとり、一時的に姿を消した。第二夫人が率先してさがし、見付けたのだが、王子は庭の一角で倒れ、後頭部から血を流していたという。傍らにあった庭石に血がついていたのもあり、当初は転んで怪我をしたと思われたのだが、治療をうけた王子が証言したんだ。お茶会がつまらないから、ぬけだして歩いていたら、誰かに頭を殴られたと」




 被害をうけた王子は、当時五歳。その為、記憶が混乱していたり、誰かがなにかを吹き込んだのではとも疑われたが、実は、診察した医師も違和感は持っていた。医師は、倒れた王子を発見した一団にも居たのだが、傷の状態と庭石の形状とがかみあわないこと、転んで後頭部を打ったにしては傷がやけに深いことなどを、不自然だと思っていたのだ。

 医師の証言もあり、また複数の医師が診察して、庭石に頭を打ち付けたと考えるには無理があると判断した。傷の状態から、それよりももっとかたくて小さいもので殴られたと結論したのだ。


「石よりもかたいもの……ですか」

「ああ。金属かなにかだろう。或いは、剣の柄などかもしれないな。それに、庭石といっても、表面は苔むしていたし、その分はやわらかい。樫などなら充分ありうるとか……そうそう、庭石の血のついていた部分よりも、傷のほうが、随分小さかったそうだ。傷の状態と庭石の形状とがあわないというのは、そういう意味らしい。ついでに、庭石についていた苔は、はがれたりはしていない。そこで怪我をしたというのは、あたらないだろう」

「そうですか」

 ソフィアが頷き、ブラーミャが小さな声でいった。「宮廷のお庭は、素敵なんです。前の第三夫人が差配された、とても……まるで、お話に出てくる素敵な、妖精の国のような、現実ばなれした場所ですわ。わたしも数回、伺ったことがありますが、その時には前の第三夫人が、わたしのような貴族の子ども達を、案内してくれました」

「前の第三夫人というのは、どのようなかただったのですか、ブラーミャ?」

 ソフィアが訊くと、ブラーミャはどこか遠くを見るような、優しい目をする。「素敵なかたでした。優しくて、美しくて。それに、とても気さくでらっしゃいました」




 前・第三夫人は、その国の王の妻にしてはめずらしく、他国の出身だった。ただし、母親がその国の貴族の娘で、貴族の親族ということで、扱いはそう悪くはなかったそうだ。

 きちんと夫人として扱われていたのが、その証拠だ。まったくの庶民だったり、他国の出でその国に縁もゆかりもない場合は、子どもが王子や王女として扱われないし、夫人とも呼ばれない。片親が王族であれば王位継承権があるというのは法で定められていることだが、実際はそうではないらしい。

 前の第三夫人は、淡い紫色の長い髪の持ち主で、ぬけるように色が白く、ほっそりした、なよやかな美人だった。金の瞳をきらめかせて、けぶるような穏やかな声で、貴族の子ども達相手に昔話を読みきかせていたのを、ブラーミャは覚えているという。それから、当時の第一夫人と第二夫人、つまり今の第二夫人と第三夫人の、三人で、「ごく活発な」話し合いをしていたのも、目撃したことがあるそうだ。要するに喧嘩だろう、と、アンドレイアスは理解した。

 前の第三夫人はあまり体が強くなかった上に、政治的な争いで襲われた王を庇って怪我をし、それ以来伏せりがちだった。王によく似た王子をひとりうみ、慈しんでいた。

 正式な序列こそ三番目だったが、妻のなかで王が一番愛していたのはこの、前の第三夫人であったらしい。学園に通っていた時、王から求婚し、最初に結婚したのも彼女だった。自分の所為で大怪我をさせたのもあってか、会う頻度も一番高かったそうだ。


 この女性が亡くなって、王は一時、相当気を落としていたが、あらたな第一夫人が来て、少しだけ元気をとりもどした。貴族達はほっとしていたのに、今度のようなことが起こって、宮廷は大変な状態になっている。






「何故か、といえば、その庭に這入れたのは、限られた人間だけだからだ」

「王の妻達と、子ども達、それから招待された一部の貴族とその子ども達、ですね?」

「ああ。しかも、当日招待されていたのは、第一夫人の生家、第二夫人の生家、前の第三夫人の親戚、それからその国でもっとも古いとされているふたつの家の人間達だった。無論、使用人達は居るが、それぞれ仕事があり、ひとりきりになった者はない。ふたりで共謀して、ということはありうるかもしれないが、王子が倒れていたのは、お茶会の会場からそれなりにはなれたところだった。使用人達が長時間持ち場をはなれれば、お茶を用意するのが遅れたり、なにかしら支障が出る。が、そのようなことはなかったので、使用人がよからぬことをしたという可能性は考えなくていいそうだ」

 ソフィアが唸る。

 エリュトロンが、申し訳なげにブラーミャを見た。

「ブラーミャ、君の前で、君の国の宮廷のことをとやかくいいたくはないんだが、ガラの頼みなんだ。彼女の母が、今の第一夫人の母親と、学園で一緒の(クラス)だったそうでね。それで、相談されたとか」

「お気になさらず、殿下。わたしも気にはなっていたのですが、家の者が、わたしにも姉にも教えてくれなかったことなのです。知れてよかったですわ」

 ブラーミャは毒を盛られて伏せっていたし、彼女の姉のリョートはソフィアの薬をつくるので神経を尖らせている。おまけに、リョートはそろそろ、結婚する予定だった。彼女達の親にしてみれば、これ以上煩わしいこと、不安になるような話題は、娘達にしたくはない。

「陛下は大丈夫なのでしょうか」ブラーミャは不安げに、頬に手を遣る。「もともと、前の第三夫人が亡くなって、王は大変気を落とされ、一時は体調も崩していたのです。お酒をすごすようになってしまって……今度のことでまた、動揺されないといいのですが」

 エリュトロンが小さく唸った。「元気がないらしい。折角娘が第一夫人になったのにと、ガラの母の級友は気をもんでいる」




 空気がかすかに重くなって、アンドレイアスは咳払いした。「質問をしても宜しいですか、エリュトロン殿下?」

「ああ勿論、アンドレイアス。君は領地のこともある程度差配していると聴く。俺などより世のなかをしっているだろうし、君は優しいやつだ。ひとの気持ちってものにも敏感だろう。俺は他人のことをわかってやれないから……」

 エリュトロンは正義漢で、単純な人間だ。悪いことをする人間や、裏表のある人間を理解するのが苦手である。そして、その自覚がある。


 アンドレイアスはエリュトロンの言葉には返事せず、いう。

「特に疑わしい人間は居るのですか?」

「そうだな。出席していた男性達は、儀礼的な、刃を落とした剣を佩くことをゆるされていた。杖を持っていたものも居た。その誰かが、王子がお茶のテーブルをはなれるのをつけていって、殴ったのかもしれない。庭を見たいなどといって、全員が一度は席をはなれていた。庭は、ブラーミャのいっていたとおり、前の第三夫人が丹精していたというので、評判らしい」

 エリュトロンがブラーミャを見ると、彼女は小さく頷いた。エリュトロンは続ける。

「だが、数人はすでに容疑から外れている。凶器の形状に合わない、とね。さっきもいったが、王子の後頭部に残った傷跡は、即座に医師が診て、記憶している。もろもろ、考えた結果……第二夫人が一番怪しいのだそうだ」

 エリュトロンは、ブラーミャを気にしながらいう。彼女の生国の、王の夫人を、王子を殺そうとしたかもしれない、といっているのだ。口は重くなる。「つまり……ああ……機会があった。主催者は第一夫人だから、第一夫人は多くのひととほとんどの時間一緒に居たが、第二夫人はその手伝いこそしていたものの、ひとりになれる機会は幾らでもあったんだ」

「ですが、機会があったから即ち実行した、というのは、乱暴では? 現に、男性陣も実行可能なのですよね」

「ああ……その……」

「第二夫人は、お子さんが居ません」

 ブラーミャが苦々しげにいった。「第三夫人には王子がふたり居る。一番最後にやってきた第一夫人にも、可愛らしい王子が居る。亡くなった前の第三夫人にも」

「世のひとの考えそうなことですね」ソフィアはつめたい声だ。「王の母になれそうもない、おまけに第一夫人から第二夫人になってしまった女性が、ほかの王の妻に嫉妬して、その子どもを殺そうとした。舞台を商家にでも移せば、それなりに客を呼べる芝居になるかもしれない、凡庸でお決まりの筋書きです」

 ソフィアがあんまりにもつめたくいうので、エリュトロンが居住まいを正した。アンドレイアスもだ。




 子どもがおらず、あたらしく来た女性に第一夫人の座を奪われた第二夫人だけでなく、第三夫人も疑われている。

 自分の子どもを傷付けるなど、そんな愚かな話はないが、貴族や王族ではありうることではある。自分の立場をかためたり、より強固な絆の為に、また、誰かを失脚させる為に、自らの子どもの命を犠牲にすることは。

 現在の第三夫人は、以前から宮廷内ではあまり評判がよくなかった。前の第三夫人へ、人目もはばからずにくってかかることがあったし、前の第三夫人が亡くなった時、葬儀に参列しなかったのだ。前の第三夫人が王の愛をほかよりも多くうけていたと、ねたんでいたらしい。

 その上、妻を亡くして傷心の王に、自分の許へ来るようにと迫り、酒をすすめた。数日間、王は第三夫人の許へこもり、酒浸りになってしまった。その結果、第三夫人は酔った王につきとばされて、怪我をした。

「それで、王は酒を断ったが、もともと第三夫人が酒を勧めたのが悪かった訳で、その所為か第三夫人の許へ訪れることは、かなり減っていたそうだ。第三夫人はそのことで、相当不機嫌になっていた。しかし、お茶会で王子が怪我をしたことをきっかけに、王は第三夫人の許に入り浸るようになった。そこには怪我をした王子が居るからな。王は優しい人物らしいね、ブラーミャ?」

「はい。とても大柄で、お力も強いのですが、熊のように大人しいかたです。ご自分が大柄で、その、いかめしいお顔をしていることを気にしてらっしゃるようで、年少者やご婦人がたをこわがらせないようにと、心を砕いておいでです。あまり目を向けないようにされたり、距離をとったり、声を小さくしたり」

 ブラーミャは小さく頷いて、続ける。

「政治についても、聡明で知識の多い今の第二夫人に、度々相談し、物事を決めているとか。我が国では、夫婦和合はよいものとされていますし、王が夫人に、政治についてお伺いを立てるのも、正しい行動であるとされています。その為に、我が国の貴族の娘は、帝国の学園に留学することが多いのです。こちらであれば、世界一の教育をうけられますから、夫人になった時に困りません」

 いつになく多くの言葉を喋っているからか、彼女はかすかに声を掠れさせていた。「お優しいのは素晴らしいのですが、前の第三夫人が亡くなってから、お優しいというよりも、かなり気が弱くなってしまわれて……」

「子どもが死ぬかもしれなかったとなったら、心配で傍に居たいだろう。現に王は、以前、前の第三夫人が自分を庇って怪我をした時には、床上げまで毎日彼女の許へ通った。だから、今度のことで一番得をしたのは第三夫人だ、と考えているひとは、そう少なくはないらしい」


 エリュトロンは、手を軽く振る。

「とはいえ、第二夫人が怪しいのはかわらない。何故かというと、彼女は以前の第三夫人の息子、十二歳になる王子を育てているからだ」

「そうなのですか?」

 ソフィアがブラーミャを見ると、ブラーミャは小さく頷いた。

「彼女は以前、第一夫人でした。ですから、王の子ども達を養育する権利と義務があったのです。あたらしく来た今の第一夫人に、その権利も義務もうつったのですが、王子自身が今の第二夫人の許に居ることを選んだ。もうひとりの子ども、王女もです。生母を失った王子や王女が、どの夫人の許ですごすかは、その子ども達自身が選べるのです。普通は第一夫人なのですが、おふたりは今の第二夫人にとてもなついているようですね。何度か、第一夫人が打診したそうですが、第二夫人の許をはなれようとはなさいません」

「成程」

 ソフィアが頷き、エリュトロンが頭をかく。

「亡くなった前の第三夫人を、王は一番に愛していた。その王子が一番年長でもあるし、もしかしたら王太子になるのは彼かもしれない。そうなれば、現在養育している第二夫人が、宮廷で幅をきかせることになる。王子が減れば、可能性は増える。年長であっても、母が貴族でもないというので、王太子になれるかどうかはどうも、ビミョーなところらしいしな」

「まあ、ありえない話ではありませんね。動機として」

「ああ。無論、第一夫人も疑われてはいる。まったくひとりにならなかった訳ではないから。それに、彼女の子どもはまだ幼く、さっきもいったが、王が一番に愛していたのは、亡くなった妻だ。その子どもを優遇することはありうるだろう。だが、そうであれば、襲われるのはその、亡くなった前の第三夫人の子であるのが当然だろう? 今の第三夫人の子どもは、彼女の出自が今の夫人のなかでは一番下なことと、宮廷での評判が芳しくないことがあって、王太子になることはほとんどありえないと思われているらしいから……」

「つまり」アンドレイアスは顎を撫でる。「第二夫人が、養子になった王子を王太子にしたくて、ほかの王子を排除しようとした。もしくは、第三夫人が王の同情を買って、愛をとりもどそうと、王太子になれそうにもない息子を危険にさらした。そのどちらか、ということですか」

「そういうことだろうな。それに、そのふたり自身が手を下す必要はないんだ。家の人間が来ていた。いいかたがよくないかもしれないが、それぞれ手先になってくれる人間は居たということだ。将来の位や、それなりの金を約束すれば、手をかす人間は幾らでも居るだろう」

「どうでしょうね?」

 ソフィアが、実に不快そうな声を出した。




 ソフィアは、からになったマグを握りしめ、ブラーミャを見ている。皮肉っぽい笑みだ。ブラーミャは、困った顔になっている。

「殿下……?」

「ブラーミャ、あなたには、わかったのではありませんか? もうひとつ、可能性があることを」

 ブラーミャは顔をしかめる。「ええ、まあ」

「なに? それはなんだ、ソフィア、ブラーミャ」

 エリュトロンが問うた。だが、どちらの女性も、口を噤んでいる。ソフィアが目顔で促し、ブラーミャがいう。「第一夫人が、第二夫人と第三夫人を排除しようとした……ですか?」

 ソフィアが頷き、エリュトロンとアンドレイアスは、ぽかんと口を開ける。






 ブラーミャは目を伏せ、もごもごという。

「第一夫人が考えついたことではなくて、そのご実家が手をまわしたということもありえますよね」

「ブラーミャ、あなたが話してくれますか? わたしと同じことを考えているようですから」

 ブラーミャは肩をすくめ、諦めたみたいな顔で、静かに喋った。

「わたしには、皆さんよりも分があったのだと思います。だって、実際に、夫人達を見ていますし、お茶会も経験していますから。だから、エリュトロン殿下のおっしゃることには、実際とはかなり乖離があると感じています」

「乖離……とは? ブラーミャ?」


「その前に、第一夫人も得をするということを、お話しします。……王は、前の第三夫人が亡くなられてから、相当気弱になってしまわれました。それ以前から、お優しいかたでしたし、王としてすごすのは負担が多いのだと思います。一時、禅譲するとも仰せだったと、殿下もおっしゃっていましたね? それくらい、神経を尖らせて、とても疲れてしまっているかたなのです」

「あ、ああ、それはガラから聴いて、俺もわかっているつもりだが」

「ガラさまは、直にご覧になったのでもなく、お母上から聴いたことをお話しなさった訳ですから」

 ブラーミャはそういって、息を吐いた。「王はお疲れですし、様々なことを心配しておいでです。そんな折りに、王太子にはなれないであろう王子が傷害された。王は、疑いを持っておいでの筈です。もしや、第二夫人が、自分の養い子を王太子にしようと画策したのか? 自分が子を持てないから、せめて養い子を王太子にしようと、競う相手を減らすつもりだったのか。それとも、第三夫人が自作自演で同情をひこうとしたのか? 前の第三夫人が怪我をした時には毎日一緒に居たから、王子が怪我をしたら毎日来てくれると考えたのだろうか……そんなふうに、日々、不安や、疑いの心と、戦っておいででしょう」

 ブラーミャの声が沈む。

「王は善良で、お優しいかたです。そして、きちんと物事を順序立てて考えられるかたでもある。第一夫人を疑いはしません。位が高く、おまけに王子を得た彼女は、黙って待っていればいいだけです。ほかの夫人の子どもを害しても、なにも得はありません。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()としているのでなければ」




 黙り込んでいたエリュトロンは、ぎゅっと眉を寄せた。そういう表情が、ソフィアによく似ている。流石に、兄妹だ。

「ブラーミャ、悪いが、くわしく説明してくれ。俺は賢くないんだ。かみ砕いてほしい」

「エリュトロン殿下、これは賢いとか賢くないとかの話ではないのです。ああ、なんといったらよいのか……たしかに、以前の王の妻達は、よくいいあらそっていましたし、時には掴み合って喧嘩することもありました。ですが、いがみあっていたのではありません」

「なに?」

「そう……裏表なく、率直な付き合いをしていたのです」

「わたしとアルケは、よく喧嘩をします」ソフィアが笑うような声を出した。「エリュトロン殿下とアイオン殿下も、何度、喧嘩しましたか? わたしは、おふたりが剣をとって、ガラや侍女達が慌てて間にはいった場面を、一度目にしたことがあります。でも、おふたりは仲が悪いとはいいようがない」

「あ……」

 エリュトロンは口を半開きにする。


「勿論、喧嘩をして、本当に仲が悪くなることもあるでしょう。本当に仲が悪いからいがみあうことも。ですが、わたしの知っているあの三人は、そういうのではありません。子ども達は皆、わかっていたと思います」

 ブラーミャは小さく、肩をすくめる。「そういうのとは、本当に、違うのです」

「しかし、仲が好いのなら、どうして喧嘩ばかりしていたんだ?」

「考えてもみてください、殿下」

 ソフィアがいう。「反対のこともいえますよ。王の妻として、寧ろ仲好くしていることを周囲に見せるのが、当人達にとっては得な筈。でも、三人はそうはしなかった。本音で付き合いすることを選んだのです。三人とも、王を深く愛しているからこそ、そうしたのでしょう。とりつくろい、夫人であることに固執するのではなく、素直に率直に、王の為になるように、自分の意見や気持ちを隠さなかった。そして、子ども達はそれを理解したからこそ、今の第一夫人よりも第二夫人を選んだのでしょう」

 ソフィアの言葉に、しかしエリュトロンは小首を傾げる。ブラーミャがもどかしげにささやいた。

「殿下、命じられたので申しますが、そのまま素直に言葉をうけとれば宜しいと思います。第二夫人も第三夫人も、王を深く愛しておいでで、王に対して嘘を吐くようなことはありえません」

「どういう意味だ?」

「おふたりは、喧嘩をして、陛下に仲好くするようにと咎められると、わたくし達は仲が悪くなどありません、とおっしゃいます。言葉を額面通りにうけとってくれればいいのです」

 エリュトロンは、今度は大口を開いた。






「喧嘩をせずに居るのが仲の好い証と考えるのは、少し浅はかではないでしょうか。喧嘩をしたから即ち仲が悪いのだ、というのも。たしかに、仲が悪いために喧嘩する人間は居ます。が、仲が好いからこそ、忌憚なく意見をいいあえるということも、あるでしょう。一概にはいえないことであって、それは、喧嘩の内容を見ればわかるものではありませんか?」

 ブラーミャは手をもむ。

「おふたりは、そして、亡くなった前の第三夫人は、たしかに、よく喧嘩しておいででした。宮廷の人間は、夫人同士で王をとりあって喧嘩していると思い込んでいたのです。或いは、自分の子が優遇されるように、ほかの夫人よりも少しでもよい立場になろうとしている、と。残念ですが、これまではそういうもめごとが多かったですから。だからわからなかったのでしょう。わたしは子どもでしたから、三人の話す内容をきちんと聴いていました。大人になればなるほど、自分の経験やなにかで勝手に判断して、言葉をしっかりと聴かないと、本で読んだことがございます」

「あ……ああ、ブラーミャ、三人は何故、喧嘩を?」

「王のお体のことや、お優しい王がきちんと休めるようにどうしたらいいか……一番多くお話しになっていたのは、子ども達の養育についてです。三人は、母の出自など関係なく、年長者の、前の第三夫人の王子が王太子になるのがよいと、そう考えておいででした。それで、どう育てるかをよく相談しておいでだったのです。前の第三夫人は、ご自分のお子ですから、きっと甘やかしたいでしょうに、王太子にする為だからととても厳しく躾けておいでで、おふたりは幾らなんでも厳しすぎるとおっしゃっていたんです。わたし達がきらわれ役になるから、あなたは生みの母として、甘やかしておいでなさいと、そんなふうに、今の第二夫人が……今の第三夫人も、子どもの時分に母に甘えさせてあげることも必要なのだから、そのようになさい、一番王のことを案じているあなたの気持ちは、いわなくとも王子には伝わるから、と……」

 ブラーミャは声を詰まらせ、ちょっと顔を背けた。

「……今の第三夫人が、葬儀に参列しなかったのは、それだけ酷く傷付いていたのでしょう。とりみだして泣き叫べば、王子や王女らしく我慢している故人の子がつられるかもしれない。それを危惧して、避けたのだと思います。それとも、単純に、盟友が亡くなって、葬儀に参加する程の元気もなかったのかもしれませんね。おふたりは本当に、実の姉妹のように、いいえ、実の姉妹よりも仲睦まじくしておいででした。率直に、素直に、正直に、話し合っていたから、お互いに声が大きくなることもあったし、意見が対立すれば喧嘩にもなったのです」

「では、王に酒を勧めたというのは?」

「わたしには、それが事実とは思えません。王が彼女を避けていたのが証拠です。彼女のいいだしたことが原因で王が荒れ、彼女が怪我をしたのなら、王はもう少し見舞ったでしょう。第三夫人は王が居ないと不機嫌になります。でも……王自らがお酒をすごし、それを咎められて怪我をさせてしまったなら、王の性格からして、こわがらせると考えて第三夫人を避けるようになる。常日頃から、ご自分が大柄でいかめしいお顔なのを気にされて、ご婦人がたには必要以上に近付かないようなかたです。愛しい妻が、自分が原因で怪我をしたら、しかもそれが、注意されても聴かずにお酒をすごした結果であったなら、はずかしさのあまり足はとおのきます」

 ブラーミャは肩をすくめた。

「勿論、これはわたしの印象です。ですが、往々にして、大人よりも子どものほうが、余計な知識なくそのままをうけとれるもの。幼い日に見たお三方は、決して、憎しみ合いいがみ合っている間柄には見えませんでした。仲は好いけれど、だからこそ正直に話す、そういう間柄に思えました。エリュトロン殿下、お考えください。ガラさまは、殿下へ嘘を吐くでしょうか? 殿下を愛していればこそ、きらわれるかもしれなくても、いわなくてはならないことはいうのではないでしょうか」

 ちょっと息を整えて、ブラーミャは、小さくいった。「それだけではありません。王を支え、愛し、全力で善き母であろうとしている、素晴らしいかた達です。だからこそありえないのです。どんな理由があっても、あのおふたりが、ご自分の愛する王の血を分けた子どもを傷付けるなんて、考えられません」




「だが」

 エリュトロンは、拍子抜けしたみたいに、息を吐いた。

「だが、ああ、ブラーミャ。証拠はない。いや、君の印象はきっと間違いではないだろう。俺なんかと違って、ひとの心をわかっている。だが、それは証拠にならない。人間の心は、とりだして眺めてみることはできないんだ。物的な証拠、誰がどう見てもわかるものがなければならない。それがなければ、第二夫人と第三夫人を、王は避け続けるだろう。仲好くするように注意していたというんだから、王はふたりがいがみ合っていると思っているようだし」

「かたいものを身につけている人間なら、大勢居たでしょう」

「だから、剣や杖は、幾らかは、形状があわないと、持ち主も容疑を外れている。傷の状態に合致するような杖などを持っているものは、反対に、機会がないのだ」

「指環はどうです?」

()()()?」

 エリュトロンはぽかんとし、ブラーミャは少しだけ、眉間に皺を寄せ、手をわずかにあげた。アンドレイアスが、中途半端で邪魔くさい位置にある、と常々思っている、針金のように細く、頼りない指環を、彼女は示す。ブラーミャのその指環には、宝石ははまっておらず、本当に針金のようだった。

「指環です。父がそうしているのを見たことがあるのですが、位を戴いているかたは、取引やなにかでつかえる印章を、そのまま指環にしていることがございます。とてもかたい石に彫ったものを、宝石をはめるように土台にはめたり、或いは、金などの変質しにくい金属ですべてつくってしまったり。印章というのは、取引につかうものであって、すぐに変形するようなやわらかいものではありません。寧ろ、かたく、欠けにくい、丈夫な素材をつかってつくられます。石であっても、普通の石よりももっとずっとかたい印材を」

「じゃ……じゃあ……犯人はそれで、王子を殴ったのか?」

「蓋然性は高いと思います」

 ブラーミャはいってから、顔をしかめた。自分の手を見る。「……エリュトロン殿下はご存じでしょうか? このところ、指の根元まで持っていかない、関節の辺りでとどめる、小さくて細い指環が、帝都ではやっているのを?」

「そうなのか? ガラはそういった装飾品に興味を持たないし、侍女達は指環をほとんど身につけないから、知らなかったな。ああ、本当だ、半端な位置にはめている……」

 エリュトロンに自分の手を見せてから、ブラーミャははずかしげにそれをひっこめた。

「これらは、それぞれ、場所によって意味があるのだそうです。ひとによっていうことが違うのですけれど、どの指のどの関節なら、幸運が訪れるとか、同じ指の同じ関節でも、指環の材質やつかっている宝石をかえれば効果がかわるとか、要するにおまじないです……わたし、これをつけていると、作業をする時にものを傷付けてしまうことがあるのです。この指環で、薬材をまぜる為のすりばちに、ひっかき傷をつくってしまいました」

 ブラーミャは指環をはめた手を、もう片方の手で覆い隠すようにする。「普段は根元までおしこんでいる指環でも、少し位置をずらして、この辺り……第二関節と第一関節の間にしておく。拳をつくって、これで殴れば、ただ手で殴るよりももっとずっと大きな傷をつくれるでしょう。それに、殺傷能力が低くとも、よかったのではありませんか。第二夫人と第三夫人を窮地に陥れるのが目的だとすれば、ですが」

「な……成程」

「小さな印章なら、血で汚れても、綺麗にするのに時間はかかりません。それに印章なら、そこまでしっかりとは調べられない。家の大切なものですから。もしかすれば、今からでも、調べればなにかが出るかもしれませんね」
















「ブラーミャのいうとおりだった。無事、事件は解決したそうだよ」


 ひと月ほどして、ガラとの剣術の稽古で顔に傷をつくったエリュトロンがやってきた。例の国の、王子が襲われた事件の、顛末を話しにだ。

 ブラーミャやソフィアの推測通り、今の第二・第三夫人と、亡くなった前の第三夫人とは、姉妹のような間柄だった。かりに喧嘩をしても修復できる関係性である、と、三人は認識していたらしい。三人は少々気の弱い王を、支え続けていた。三人ともが王を深く愛しているし、王が優しくて、国の為に全力を傾けていると知っていたからだ。


「驚いたことに、前の第三夫人が亡くなるきっかけになった襲撃事件も、今の第一夫人一派の起こしたことだった。今の第一夫人の生家と、それと強くつながっている幾つかの家だ。前の第三夫人が王を庇うのを見越して、彼女を排除するのが目的でな。別の貴族が首謀者だと思われていたが、違ったらしい」

「是正されたのですか?」

「これからされる、とのことだ。小さいが歴史のある国、手続きは帝国に増してややこしい」

 エリュトロンは頭を掻き、しかめ面になる。常から、自分が求められている、もろもろの儀礼的な行動を、思い出したらしい。


 前の第三夫人が亡くなったあと、今の第三夫人はしばらく食事も咽を通らない程塞ぎ込み、泣いてすごした。葬儀に参って、子ども達を動揺させてはと、遠慮したそうだ。

 王の哀しみようは尋常ではなく、そう得意でもない酒を、哀しみを忘れる為に浴びるように呑むようになった。第三夫人はそれを咎め、辞めさせる為に自らの部屋へ長く留め置いたらしい。王の飲酒を辞めさせたのに、酒を勧めたということになったのは、王の威厳を損なわないようにと第三夫人がすすんで泥を被ったからだ。

 その辺りはブラーミャの推測から外れていたが、第三夫人が、わたくしに会う時間があるのでしたらその分お仕事を、といって、彼女は王が見舞に来るのを制限していたらしい。玉座を降りたがっている王が、政務以外に時間を割くのを、きらったのだろう。とおざかればとおざかるほど、王の仕事が億劫になるだろう、と。


 今の第一夫人一派は、第二・第三夫人の仲が「好くない」と周囲には思われていることを利用して、第一夫人の地位を安定させようとした。ついでに、第一夫人以外のうんだ王子達を、追い落とそうともしていた。


 思惑は、大筋で、ブラーミャの考えたのと同じだった。第三夫人の子どもが怪我をすれば、子を持っていない第二夫人が疑われる。そして、このところ王と距離ができていた第三夫人も疑われる。

 第三夫人の子どもは最初からもののかずにいれていなかったらしいが、亡くなった前の第三夫人の子どもは別だ。聡明で、亡き母は王の一番愛したひとだった。おまけに、家柄のいい第二夫人という後ろ盾もある。法に則って、王太子になってもおかしくない存在である。だから、その後ろ盾を排除したかった。


 計画を立てたのは第一夫人の父で、実行したのは別の家の、子どもだった。子どもといっても、もう十五にもなり、体は充分大きい。だが、それくらいの年齢の子どもが、お茶会が退屈になって庭をうろついても、誰も咎めない。位を戴いている貴族と違い、その跡取りなら、めしつかい達がその動向を気にすることもあまりなかった。

 実行犯は、ブラーミャの推測通り、かたく丈夫な印章で、王子の後頭部を殴ったそうだ。王子を庭石へ凭れるように倒れさせ、庭石を血で汚して、現場を偽装した。印章と手は庭にある池で洗い、お茶会の席へ戻った――。

 印章を調べてもなにも出なかったが、事件が起こってすぐの印影を調べると、かすかに変色していたという。印章の溝に、血が残っていたのだ。その変色の仕方が、印泥に血がまざった為だ、とわかり、その印章を所有している家の者が調べられて、ことの顛末が明らかになった。











「子どもにかようなことをさせるなど、非道極まりない。王は大変憤っていて、計画を立てた人間も、子どもに命じた親も、厳しく処分されるとのことだ」

「第一夫人はどうなるのです?」

「実行段階では知らなかったらしいが、その後父親からしらされた。いいふくめられて口を噤んでいたらしいから、王はそれを自分に対する裏切り行為だとして、間もなく離縁する予定だそうだ」

 エリュトロンは肩をすくめる。「このことで、考えさせられた。俺はなんと幸運だったんだろう。ガラのような、正直で、聡明で、俺に対しては一切の裏表のない女性を、婚約者にできたのだから」

「我が家はその点で、かなりめぐまれているかと。わたしにもアンドレイアスさまという素敵なかたがいらっしゃいますし、アルケには辺境伯が居る。皇太子殿下にも、先頃、素晴らしいかたが婚約者に決まりました」

「ああ、本当に、我が家はこういったごたごたからは無縁でいられそうで、安心する。それに俺は、ブラーミャのおかげで、人間の複雑な心理を少し知れた。だが、考えればわかることでもあったんだ。俺だって、ガラのことを愛しているから、彼女に対しては率直でありたい」

 エリュトロンはにっこりする。

「といっても、俺は俗物だから、彼女には思い切り見栄を張ってしまうけどな。それで、剣術で負けて、怪我をしている訳だ」

 そういって、第三皇子は豪快に笑った。






 帰り際、エリュトロンはああ、といって、妹を振り返る。「忘れていた。ソフィア、ブラーミャにいい縁談を用意してやれないだろうか。俺はそういうのはわからんのだが、お前なら、彼女にぴったりの青年を思い付くのでは?」

「あら、何故、急に彼女の縁談の話なのですか」

「彼女がしていた指環、あれ、よい結婚相手を求める位置だそうだ。だからなにか考えてやってくれ。俺もできうる限り、協力するから、なんでもいいなさい」

 エリュトロンはそういって、微笑みながら、ソフィアの寝室を出て行った。

 病で伏せっている妹に、縁談の手配を頼むエリュトロンに、アンドレイアスは呆れる。けれど、文句をいう前に、ソフィアが微笑んでいるのに気付いて、口を噤んだ。どうやら彼女は、ブラーミャの相手をさがすという仕事は、やぶさかではないらしい。

 ブラーミャやソフィアでも、間違っていることはある。好きな相手に率直で、正直でありたい、嘘を吐きたくない、というのは、それはそうだろう。だが、きらわれないように口を噤んでおく、という知恵だって、あるのだ。






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