妻を人質に取られているんだ!
電車の中。窓の外の空はやや赤みがかり、仕事終わりだろうか、乗客の中にちらほらスーツ姿が見受けられる。
高校生に中年、親子もいれば老人もいる。幅広い年代、性別、様々な立場の人間が一堂に会する時間帯、電車内というのはある意味特殊な空間だ。
そしてそう、多種多様。中には変わり者もいる。
「ああ、わかった! やる! やるから待て!」
先程から挙動不審であった一人の男が、もはや叫びに近い声量でそう言うなり、席から立ち上がり、車両の中央に立った。
車内に緊張が走ったが、そう警戒するものでもない。
男の手にあるのはスマートフォン。つまり、幻覚と会話しているわけではない。
無論、車内での通話はご遠慮願いたいところ。そんな風に怪訝な顔をする者がちらほら。今はまだそれに留めているというのだが。
……と、ここで男がスマホをポイッと自分が座っていた座席の上に投げた。
一体どういうつもりなのか。あの男は何だ。と、乗客たちの頭の中に湧いた疑問は男の次の行動により、さらに大きく広がっていく。
男はなんと、おもむろに服を脱ぎだしたのだ。
乗客は呆気にとられるばかりで、注意をしようなどという気は起きなかったようだ。
できたことといえば「ひぃ!」や「きゃあ!」「うおっ」と悲鳴を上げることと母親がサッと子供の目を覆うことぐらい。
動けず、視線も逸らせず。男はテキパキと、そして靴と靴下だけを残すという、お手本のような変態へと変貌を遂げたのであった。
「お、おい君ぃ!」
と、ここで初老の男が座席から腰を浮かせ男を指さす。他人に説教したい、お年頃だ。突然のことで面食らったものの、機は逃さず。不快感を露わにして怒鳴る。
「服を――」
と、言いかけたところで男が手のひらをバッと向け、制す。そしてもう片方の手を伸ばし、先程放り投げたスマホを掴んだ。
「脱いだぞ……これで、これでいいんだな!?」
と、ここで乗客、何か妙だと思い始めたようで、ザワザワしだした。
何かが起きている。いや、起きているのは知っているが、それは男が突然服を脱いだというその表面的な話ではない。
彼が持つ電話のその向こう。その相手。
今の彼の口振りは一体なんだ? 指示? 脅迫? 何者? と、電話の相手が見えるわけでもないのに目を凝らす。
が、その目を彼が「そんな!」「できない!」と右へ左へと体を振り、陰茎がペチペチと右向き、左向く度に視界にいれまいと反射的に逸らす。
しかし、舞台俳優のような彼の大げさな振る舞いと声に、自然とまた目が引き付けられてしまう。
と、ここで老女が座席から立ち上がり、舞台上に出る。
手には自身が着ていたカーディガン。それを彼の腰に巻きつけようというのだろう。
「あらあら困った人ね。でもこれくらい、私が昔した苦労に比べればね」と、年の功。さすが経験値が違う。暴れる陰茎にも動じず、猫を捕獲するように構えたカーディガンを近づけていく。
「そんな! 一番近くの女性に……? クソッ!」
と、彼と老女が目が合ったその瞬間、彼は老女の肩を掴み座席へ座らせると、自身も座席の上に飛び乗り、両足で老女の太ももを挟むようにしてきっちりロック。
そして、老女の顔の前に持っていった陰茎を凄まじい勢いでシゴき始めた。
その迫力たるや4DX。これには老女、目をまあるく見開いた。
「ひやああああぁぁぁぁぁ!」と老女の悲鳴。
「うっ、くぅ!」という男の苦悶混じる喘ぎ。
さすがにこの暴挙は許せんと男たちが立ち上がる。しかし
「ああ、やってるさ! だから妻には手を出すな! 頼む!」
彼のその言葉に男たちは動きを止めた。
まさかその電話の向こうでは……。
その思考の答え合わせをするかのように、彼が乗客に向かって言う。
「妻を! あふっ! 妻を人質に取られているんだぁ! ああぁ! 邪魔を、うくぅ! 頼むから邪魔をしないでくれぇ!」
喘ぎ混じりの懇願。いや、そんなことが現実に? だがもし本当なら? ここで邪魔をして、その結果、命を……。その責任を取れるのか? あとで訴えられたら? 関わるだけ損。
自己保身。芽生えた恐怖が足に絡みつき、乗客たちは動きを止めた。
さらに畳み掛けるように彼は言う。
「妻には! ああ! 妻のおなかの中には赤ちゃんが! うぅ! 娘なんだぁ! あぉう! 娘、娘! うぅう!」
娘、娘と連呼し、シゴく様は大変態であるが、その頬を伝う涙はウミガメの産卵や鮭の川上りのような、命の輝きを感じなくもなかった。どよめく乗客たち。揺れる車内。両手が塞がっているため、腰を振ってバランスを取りながら、なおも懸命に己のモノをシゴき続ける彼。
そして……生命が迸った。
白濁。液の中にある膨大な命の種は放物線を描き、幸運なことに老女の顔を逸れ、その背にある窓に届いた。
はぁはぁと、息を切らす男。老女もまるで一戦交えたかのようにぜぇぜぇ息を切らす。叫び疲れたからか、あるいは夕日がそう見せたのか、その顔は紅潮しどこか色めいて見えた。
「ああ、出した……出したぞ……」
男はそっと座席から降り、再び車両の中央へ。
これで終わったか?
乗客一同に緊張と安堵が入り混じった表情が浮かぶ。
しかし、男の舞台はまだ終わらない。
「できない! それは、できない! うう! クソォ!」
男は泣いた。多いに泣いた。そうだ、ここは悲劇の舞台。
男にとって、そして乗客にとって。
盛大な放屁が第二部開幕の合図。
萎えた陰茎から荒々しい大河を連想させる放尿。
そして男の慟哭。
「あああああああぁぁぁぁぁ! あああああああああぁぁぁ!」
神よ、なぜですか。なぜ私にこのような試練を。
顔を上に向け、車内照明、その光を見つめ泣きじゃくる男。
神は世界を飲み込む大洪水を起こした。
ノアは方舟を作り、それを逃れた。
方舟の中は動物たちでいっぱいだった。
糞尿を垂れ流し、さぞや臭かったであろう。
ここは方舟。男がもたらした大便は緊張や不安からか、やや水気を帯び、まるで土砂のように床に降り注ぎ、湯気を上げ、車内を強烈な悪臭で満たした。
悲鳴を上げる口を自ら塞ぎ、乗客たちは恐れおののく。
……と、ここでようやく終幕。
電車が駅に到着し、男は脱いだ衣服を、がばっと抱えると誰よりも早く外に飛び出した。
ホームにいた人々のものだろう悲鳴が聞こえ、そして「妻が! 人質に!」と弁解の叫びがした。
乗客たちは残された悪臭から逃れようと慌ただしく外へ出た。
不快感に満ちたその顔には疑念の色。
あの男、本当に妻を人質に取られていたのか?
あれはただの変態。いや、策士。己の欲望を見事に垂れ流したのだから。
しかし、男が線路に飛び出し走り去った今、謎は謎のまま。
観客は各々、余韻に浸りながら家に持ち帰り考察を楽しむのだ。
『ふふっ、声が明るい。どうやら上手くいったみたいね』
「ああ、見事なものだったよ。まさかあそこまでするとはね。
しかし、君が立てた作戦は完璧だったな。
いや、ホントすごいよ。変声機を使っての一人二役で見事手玉に。彼は違和感を抱く間もなかったようだ」
電車から降りた俺は駅のホーム、柱に背をつけ、電話相手を「君こそ大した役者だよ」と褒め称えた。
『当然でしょ? 私の夫だもの。考えは読めるわよ』
「ふーん。しかし、あそこまでやるほど妻想いの男が、よく不倫なんてしたものだね」
『大事なものは後々気づくものなのよ。それで動画は撮れたの?』
「ああ、バッチリさ。ドキュメンタリーのカメラマンにでもなった気分だったよ」
『上出来。じゃあ、あとで送ってね。まあ、他にも撮ってた人がいたでしょうから、どの道、ネットに拡散はされるでしょうけど』
「彼も終わりだね。怖いなぁ、女の復讐は」
『ふふふ、あなたも気をつけることね』
「ああ……でもこっちの復讐はどうしよう? あの男のように俺が人質に取られたって言っても、アイツが、俺の妻が同じことをしてくれるとは思えないよ」
『それなら平気よ。あなたが彼と同じことをすればいいんだもの』
「ああ……いや、へ? それどういうこと?」
『だってそうじゃない? 自分の夫があんな痴態を晒したら妻も赤っ恥。友達や家族に顔向けできないわ。その点は私が保証するわよ』
「ああ、まあ、それはそうかもしれないけど……」
『見てたんだし、手順はわかるわよね? 彼ができたんだもの。あなたにできないはずはないわ。
あ、ほら音。電車が来たんじゃない? 主役になってきなさいよ』
彼女がそう言うならできる気がしたし、それであの男と不倫した自分の妻への復讐になるなら……と俺は思ったが、しかし、その一方で、どこか違和感もあった。どうにも洗脳と言うか手玉に取られているような気が。
彼女にとって、夫の不倫相手のその夫もまた復讐の対象なのではないか?
しかし、俺はもう舞台の上へ。
己の妻の不倫相手であるあの男への対抗心とそして解放への羨望。
……そう、あの男のあの顔。恍惚として、そして輝いて見えていたのだ。
欲のままに、我儘に。不倫。それができる性格さえも羨ましく思える。
……そうか、俺が真に嫉妬していたのはそれなのか。
今、俺を突き動かすのは本能。理性は一旦座席に置き、神が作ったそのままの姿へ。
俺は通話相手のいないスマホを耳に当てた。
「妻を、妻を人質に取られているんだ!」