表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

妻を人質に取られているんだ!

作者: 雉白書屋

 電車の中。窓の外の空はやや赤みがかり、仕事終わりだろうか、乗客の中にちらほらスーツ姿が見受けられる。

 高校生に中年、親子もいれば老人もいる。幅広い年代、性別、様々な立場の人間が一堂に会する時間帯、電車内というのはある意味特殊な空間だ。

 そしてそう、多種多様。中には変わり者もいる。


「ああ、わかった! やる! やるから待て!」


 先程から挙動不審であった一人の男が、もはや叫びに近い声量でそう言うなり、席から立ち上がり、車両の中央に立った。

 車内に緊張が走ったが、そう警戒するものでもない。

 男の手にあるのはスマートフォン。つまり、幻覚と会話しているわけではない。

 無論、車内での通話はご遠慮願いたいところ。そんな風に怪訝な顔をする者がちらほら。今はまだそれに留めているというのだが。


 ……と、ここで男がスマホをポイッと自分が座っていた座席の上に投げた。

 一体どういうつもりなのか。あの男は何だ。と、乗客たちの頭の中に湧いた疑問は男の次の行動により、さらに大きく広がっていく。

 

 男はなんと、おもむろに服を脱ぎだしたのだ。

 

 乗客は呆気にとられるばかりで、注意をしようなどという気は起きなかったようだ。

 できたことといえば「ひぃ!」や「きゃあ!」「うおっ」と悲鳴を上げることと母親がサッと子供の目を覆うことぐらい。

 動けず、視線も逸らせず。男はテキパキと、そして靴と靴下だけを残すという、お手本のような変態へと変貌を遂げたのであった。


「お、おい君ぃ!」


 と、ここで初老の男が座席から腰を浮かせ男を指さす。他人に説教したい、お年頃だ。突然のことで面食らったものの、機は逃さず。不快感を露わにして怒鳴る。


「服を――」


 と、言いかけたところで男が手のひらをバッと向け、制す。そしてもう片方の手を伸ばし、先程放り投げたスマホを掴んだ。


「脱いだぞ……これで、これでいいんだな!?」


 と、ここで乗客、何か妙だと思い始めたようで、ザワザワしだした。

 何かが起きている。いや、起きているのは知っているが、それは男が突然服を脱いだというその表面的な話ではない。

 彼が持つ電話のその向こう。その相手。

 今の彼の口振りは一体なんだ? 指示? 脅迫? 何者? と、電話の相手が見えるわけでもないのに目を凝らす。

 が、その目を彼が「そんな!」「できない!」と右へ左へと体を振り、陰茎がペチペチと右向き、左向く度に視界にいれまいと反射的に逸らす。

 しかし、舞台俳優のような彼の大げさな振る舞いと声に、自然とまた目が引き付けられてしまう。


 と、ここで老女が座席から立ち上がり、舞台上に出る。

 手には自身が着ていたカーディガン。それを彼の腰に巻きつけようというのだろう。

「あらあら困った人ね。でもこれくらい、私が昔した苦労に比べればね」と、年の功。さすが経験値が違う。暴れる陰茎にも動じず、猫を捕獲するように構えたカーディガンを近づけていく。


「そんな! 一番近くの女性に……? クソッ!」


 と、彼と老女が目が合ったその瞬間、彼は老女の肩を掴み座席へ座らせると、自身も座席の上に飛び乗り、両足で老女の太ももを挟むようにしてきっちりロック。

 そして、老女の顔の前に持っていった陰茎を凄まじい勢いでシゴき始めた。

 その迫力たるや4DX。これには老女、目をまあるく見開いた。


「ひやああああぁぁぁぁぁ!」と老女の悲鳴。

「うっ、くぅ!」という男の苦悶混じる喘ぎ。

 

 さすがにこの暴挙は許せんと男たちが立ち上がる。しかし


「ああ、やってるさ! だから妻には手を出すな! 頼む!」


 彼のその言葉に男たちは動きを止めた。

 まさかその電話の向こうでは……。

 その思考の答え合わせをするかのように、彼が乗客に向かって言う。


「妻を! あふっ! 妻を人質に取られているんだぁ! ああぁ! 邪魔を、うくぅ! 頼むから邪魔をしないでくれぇ!」


 喘ぎ混じりの懇願。いや、そんなことが現実に? だがもし本当なら? ここで邪魔をして、その結果、命を……。その責任を取れるのか?  あとで訴えられたら? 関わるだけ損。

 自己保身。芽生えた恐怖が足に絡みつき、乗客たちは動きを止めた。

 さらに畳み掛けるように彼は言う。


「妻には! ああ! 妻のおなかの中には赤ちゃんが! うぅ! 娘なんだぁ! あぉう! 娘、娘! うぅう!」


 娘、娘と連呼し、シゴく様は大変態であるが、その頬を伝う涙はウミガメの産卵や鮭の川上りのような、命の輝きを感じなくもなかった。どよめく乗客たち。揺れる車内。両手が塞がっているため、腰を振ってバランスを取りながら、なおも懸命に己のモノをシゴき続ける彼。

 

 そして……生命が迸った。


 白濁。液の中にある膨大な命の種は放物線を描き、幸運なことに老女の顔を逸れ、その背にある窓に届いた。


 はぁはぁと、息を切らす男。老女もまるで一戦交えたかのようにぜぇぜぇ息を切らす。叫び疲れたからか、あるいは夕日がそう見せたのか、その顔は紅潮しどこか色めいて見えた。


「ああ、出した……出したぞ……」


 男はそっと座席から降り、再び車両の中央へ。

 これで終わったか?

 乗客一同に緊張と安堵が入り混じった表情が浮かぶ。


 しかし、男の舞台はまだ終わらない。


「できない! それは、できない! うう! クソォ!」


 男は泣いた。多いに泣いた。そうだ、ここは悲劇の舞台。

 男にとって、そして乗客にとって。

 盛大な放屁が第二部開幕の合図。

 萎えた陰茎から荒々しい大河を連想させる放尿。

 そして男の慟哭。


「あああああああぁぁぁぁぁ! あああああああああぁぁぁ!」


 神よ、なぜですか。なぜ私にこのような試練を。

 顔を上に向け、車内照明、その光を見つめ泣きじゃくる男。


 神は世界を飲み込む大洪水を起こした。

 ノアは方舟を作り、それを逃れた。

 方舟の中は動物たちでいっぱいだった。

 糞尿を垂れ流し、さぞや臭かったであろう。

 ここは方舟。男がもたらした大便は緊張や不安からか、やや水気を帯び、まるで土砂のように床に降り注ぎ、湯気を上げ、車内を強烈な悪臭で満たした。


 悲鳴を上げる口を自ら塞ぎ、乗客たちは恐れおののく。

 ……と、ここでようやく終幕。

 電車が駅に到着し、男は脱いだ衣服を、がばっと抱えると誰よりも早く外に飛び出した。

 ホームにいた人々のものだろう悲鳴が聞こえ、そして「妻が! 人質に!」と弁解の叫びがした。


 乗客たちは残された悪臭から逃れようと慌ただしく外へ出た。

 不快感に満ちたその顔には疑念の色。


 あの男、本当に妻を人質に取られていたのか?

 

 あれはただの変態。いや、策士。己の欲望を見事に垂れ流したのだから。

 しかし、男が線路に飛び出し走り去った今、謎は謎のまま。

 観客は各々、余韻に浸りながら家に持ち帰り考察を楽しむのだ。






『ふふっ、声が明るい。どうやら上手くいったみたいね』


「ああ、見事なものだったよ。まさかあそこまでするとはね。

しかし、君が立てた作戦は完璧だったな。

いや、ホントすごいよ。変声機を使っての一人二役で見事手玉に。彼は違和感を抱く間もなかったようだ」


 電車から降りた俺は駅のホーム、柱に背をつけ、電話相手を「君こそ大した役者だよ」と褒め称えた。


『当然でしょ? 私の夫だもの。考えは読めるわよ』


「ふーん。しかし、あそこまでやるほど妻想いの男が、よく不倫なんてしたものだね」


『大事なものは後々気づくものなのよ。それで動画は撮れたの?』


「ああ、バッチリさ。ドキュメンタリーのカメラマンにでもなった気分だったよ」


『上出来。じゃあ、あとで送ってね。まあ、他にも撮ってた人がいたでしょうから、どの道、ネットに拡散はされるでしょうけど』


「彼も終わりだね。怖いなぁ、女の復讐は」


『ふふふ、あなたも気をつけることね』


「ああ……でもこっちの復讐はどうしよう? あの男のように俺が人質に取られたって言っても、アイツが、俺の妻が同じことをしてくれるとは思えないよ」


『それなら平気よ。あなたが彼と同じことをすればいいんだもの』


「ああ……いや、へ? それどういうこと?」


『だってそうじゃない? 自分の夫があんな痴態を晒したら妻も赤っ恥。友達や家族に顔向けできないわ。その点は私が保証するわよ』


「ああ、まあ、それはそうかもしれないけど……」


『見てたんだし、手順はわかるわよね? 彼ができたんだもの。あなたにできないはずはないわ。

あ、ほら音。電車が来たんじゃない? 主役になってきなさいよ』


 彼女がそう言うならできる気がしたし、それであの男と不倫した自分の妻への復讐になるなら……と俺は思ったが、しかし、その一方で、どこか違和感もあった。どうにも洗脳と言うか手玉に取られているような気が。

 彼女にとって、夫の不倫相手のその夫もまた復讐の対象なのではないか?

 しかし、俺はもう舞台の上へ。

 己の妻の不倫相手であるあの男への対抗心とそして解放への羨望。

 ……そう、あの男のあの顔。恍惚として、そして輝いて見えていたのだ。

 欲のままに、我儘に。不倫。それができる性格さえも羨ましく思える。

 ……そうか、俺が真に嫉妬していたのはそれなのか。

 今、俺を突き動かすのは本能。理性は一旦座席に置き、神が作ったそのままの姿へ。

 俺は通話相手のいないスマホを耳に当てた。


「妻を、妻を人質に取られているんだ!」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ