捨てられた聖女の告白 ~闇に堕ちた元聖女は王国の破滅を望む~
伯爵家の嫡男であるヒューゴには、まだ婚約者がいない。
というのも、まだしっくり来る相手と出会えていないからだ。父が持ってくる縁談には応じているものの、顔合わせをした後に断ってばかりいる。
父からは「成人するまでには相手を決めるように」と毎日のように急かされているし、いい加減に相手を決めなければいけないのに。
「ヒューゴ様。私と一曲踊っていただけませんか?」
目を爛々とさせながら、一人の女子生徒がダンスに誘ってきた。
今日は、ヒューゴが通っている学園の卒業パーティーが開催されている。
特定のパートナーがいない男女は、こうやって一人でいる異性に声をかけてダンスに誘うのだ。
「すまない。さっき踊ったばかりで、疲れているんだ」
とりあえず、当たり障りのないことを言って断った。
彼女は恐らく、ヒューゴの家柄や地位や外見にしか興味がない。
もちろん、実際にそう言われたわけではないが、ぎらぎらとした野心丸出しの目がそう物語っていた。
「そうですか……残念ですわ」
「本当に申し訳ない。でも、君はとても魅力的だから、きっと他の男たちが放っておかないよ」
「まあ、ヒューゴ様ったら……それでは、失礼しますね」
角が立たないようにリップサービスをすると、彼女は満更でもない様子で去っていった。
(やっぱり、寄ってくるのは肩書きにしか興味がない女ばかりだな……)
そう思い、小さく嘆息した途端。ふと、見覚えのある女子生徒の姿が目に飛び込んでくる。
彼女の名はベルタ。ヒューゴの同級生だ。ヒューゴは、以前から彼女のことが気になっていた。
ちょうど肩に付くくらいの、翠緑の艷やかな髪。頭の両サイドには、恐らく今日のために用意したであろう白薔薇の髪飾りを付けていた。
ただし、顔は見えないのだが。そう、彼女はどういうわけか常に仮面をつけているのだ。
仮面舞踏会よろしく顔を隠しているベルタは、ヒューゴの視線に気づくと軽く会釈をしてきた。
どうやら、見つめていたことがばれてしまったようだ。なんだか気恥ずかくて、ヒューゴは反射的に視線をそらしてしまう。
(……でも、せっかくの機会だから話しかけてみるか)
そう思い直すと、ヒューゴはベルタのそばまで歩み寄る。
「やあ、ベルタ」
「ごきげんよう、ヒューゴ様」
仮面の下から覗く美しい緋色の瞳に、ヒューゴは思わずドキリとする。
(他の皆は気味悪がっているけれど、何故か惹きつけられてしまうんだよな)
彼女は平民の身でありながら、王侯貴族や富裕層の子弟が集まる名門『王立エクレール魔法学園』に入学した。
ヒューゴが知る限り、欠席もほとんどなく成績優秀で真面目。奇妙な仮面を被っていることを除けば、模範的な生徒である。
「君も、一人かい?」
「ええ」
どうやら、ベルタにはパートナーがいないようだ。だから、本来ならダンスに誘うのが筋だろう。
けれど──
「もしよかったら、バルコニーに出て少し話さないかい?」
気づけば、ヒューゴはそう誘っていた。
ダンスをするよりも、純粋に彼女自身のことについてもっと知りたい──その欲求が勝ったのだ。
「私なんかでよければ、ぜひ」
にっこり微笑むと、ベルタはそう返してくれた。
ヒューゴとベルタは、ダンスに夢中になっている他の生徒たちを横目にバルコニーに出ることにした。
「そういえば、こうやって二人でお話しするのは初めてですよね」
柔らかな夜風に髪をなびかせながら、ベルタがそう言った。
野外授業で同じ班になった時など、たまに話すことはあったのだが……確かに、こうやって二人きりで話すのは初めてだ。
ヒューゴは「そうだね」と頷くと、ふと以前から気になっていたことを質問してみる。
「その……君は、どうしていつも仮面をつけているんだい?」
「それは……」
尋ねた瞬間、ベルタは戸惑ったように目を瞬かせる。
しまった。いくらなんでも、いきなり踏み込みすぎたか。せめて、もう少し打ち解けてからのほうが良かったかもしれない。
しかし、ヒューゴはどうしても気になって仕方がなかった。彼女のような才女が、何故素顔を隠しているのか。
この奇妙な仮面さえつけていなければ、きっと就職先も引く手数多だったろうに。
「ご、ごめん……。もちろん、話したくなかったら無理に話さなくても大丈夫だからね」
慌てて付け加えると、ベルタは首を横に振った。
「ああ、いえ……今まで、この仮面のことについて聞いてくる人なんて一人もいなかったもので。ちょっと、驚いただけです」
「そうだったのか」
ベルタの話しぶりから察するに、どうやら聞かれること自体は別に不快ではないらしい。
彼女は一呼吸置くと、やがて決心したように口を開いた。
「それでは、お話ししましょう。私がこの仮面をつけている理由を。少し、長い話になりますけど……大丈夫ですか?」
「ああ、構わないよ」
背後では、陽気な音楽に合わせて生徒たちが踊っている。
ベルタはそんな彼らとは対称的に、声のトーンを落として語り始めた。
「私は貴族でもなんでもない、ごく一般的な家庭に生まれ育ちました。平民である私がエクレール魔法学園に通うことができたのは、過去に聖女として覚醒したからなんです。ヒューゴ様も、それはご存知ですよね」
「当時、まだ小さかったけれど大ニュースになったのを覚えているよ。確か、七歳の時に聖女の力が発現したんだっけ……」
「ええ。……覚醒した翌日、王都の教会の大神官様が『託宣が下った』と大慌てで家を訪ねてきた時のことは今でもはっきりと覚えています。両親は大喜びしていました。神様に聖女として選ばれることは、とても名誉なことなのだと──当時、まだその凄さを理解できていない幼い私に熱心に説明してくれました」
そう言って、ベルタは遠い目をしながら夜空を見上げる。その横顔は、どこか寂しげだった。
「それから間もなくして、私は王都の教会に聖女見習いとして勤めることになりました。学校に行きながらだったので両立が大変でしたが、その頃には既に私も聖女の自覚が生まれていたので、それを苦に思ったことはありませんでした」
なるほど。きっと、ベルタは神に選ばれた特別な存在として日頃から意識を高く持っていたのだろう。
ヒューゴは感心すると、再びベルタの話に聞き入った。
「教会に勤めて三年ほど経った頃のことでした。教会に、私が王太子殿下の──シャルル様の婚約者に選ばれたという知らせが届きました。それからというものの、私は聖女見習いとしての修行だけではなく未来の王妃としての教養も身につけるようになりました。当時の私は、とにかく必死でした。『せっかくシャルル様の婚約者に選ばれたのだから、頑張らないと。シャルル様の隣に立っても恥ずかしくない淑女にならないと』って……毎日、そんなことばかり考えていました」
「凄い努力家なんだね、君は。僕だったら、きっと途中で音を上げていたと思うよ」
「ふふっ、ありがとうございます。自分で言うのもなんですが、私、結構真面目なんですよ。だから、手を抜くことができなくて……」
ヒューゴが褒めると、ベルタは気恥ずかしそうに笑った。
「シャルル王太子殿下と顔合わせをしてから、私の聖女としての自覚はますます高まりました。だから、私はそれまで以上に努力を重ねるようになったんです。殿下への憧れもあったお陰かもしれませんが、私の聖女としての力は日に日に強くなっていきました。でも──」
突然、ベルタの声音が低くなる。
「ある少女が現れたことで、私の努力は全て水の泡になりました」
「どういうことだ? もしかして、君が聖女の力を失ったのと何か関係あるのかい?」
「ああ、そっか。そうでしたね。世間では、そういうことになっているんでしたっけ。……私、本当は力を失ってなんかいないんですよ。ヒューゴ様」
「え……?」
自分の認識とベルタの話に食い違いがあることに、ヒューゴは激しく動揺した。
「あの異世界から来たナツミという少女──彼女が真の聖女として認められたから、私は捨てられたんです。つまり、お役御免になったというわけですね。でも、まあ……そうなったのも当然かもしれません。だって、彼女、私なんかとは比べ物にならないほど強大な魔力を持っているんですもの。ええと……なんでしたっけ。確か、チートでしたっけ。彼女が元いた世界では、あの力のことをそう呼んでいると聞きましたけれど」
「真の聖女って……」
ヒューゴは首を傾げる。聖女とは本来、神の思し召しによって決まるものだ。
人間たちが、自分たちの都合でころころ変えていいものではない。
「それを彼女が得意げに語り始めた時は、流石に腸が煮えくり返りました。『この世界に転移した時に、何故かすごい力を授かっちゃったみたいで。なんか、色々奪うような形になっちゃって本当にごめんね』と。……本当に申し訳ないと思っているなら、わざわざそんなことを本人の目の前で言わなくてもいいのに」
「ナツミって、王太子殿下の現婚約者のことかい? ということは、彼女が異世界から来た人間だという話は本当だったのか……?」
「ええ」
ヒューゴの問いかけに対して、ベルタはゆっくり頷く。
「彼女がこの世界に転移してきたのは、今から三年前。その頃には既に私のエクレール魔法学園への入学は決まっていましたから、一先ず入学が取り消されることはありませんでしたが……王太子殿下からは、婚約の解消とともに聖女としての解職を言い渡されました。そして、口止め料なのか知りませんが、その後すぐに『ナツミの力はこの国にとって必要なんだ。どうか、わかってくれ』と大金を積まれました。でも、謹んで受け取りを拒否させていただきました。……お金でどうにかなる問題ではありませんでしたから」
ベルタは抑揚のない声でそう言った。
「一時期は、真実を白日の下に晒すことも考えました。でも、結局できませんでした。私が勝手な真似をすれば、家族に被害が及びかねなかったからです。それに、豹変した王太子殿下から『牢屋にぶち込まれたくないなら、あの話は墓場まで持っていけ』と脅迫されていましたし……」
「脅迫……? あの温厚な王太子殿下が……?」
「はい」
にわかには信じ難かったが、ヒューゴはそのままベルタの話に耳を傾ける。
「入学式を目前に控えたある日。突然、頭の中に誰かの声が響きました。それが、神の声だと気づくのにそう時間はかかりませんでした。直感でわかったので。神は私にこう告げました。『何故、聖女としての責務を全うしないのですか。私はあなたを見込んで力を授けたのですよ。神に背いた罰を受けなさい』と。次の瞬間、私は顔面に激痛を感じ──気づけば、この世のものとは思えないほど醜く、かつ恐ろしい顔へと変貌していたのです。それ以来、私は素顔を隠すために仮面を被るようになりました」
ヒューゴはごくりと固唾を呑んだ。
今の話が本当なら、この仮面の下には……。
「それからというものの、私は毎日泣いて過ごしました。何故、自分だけがこんな目に遭わなければいけないのか──運命をひたすら呪いました。でも、暫くして転機が訪れたんです」
「転機……?」
「はい。ある時、私は人里に迷い込んだコウモリ型の魔物に襲われました。その際、不意を突かれたため少し血を吸われてしまいましたが……無事倒してなんとか事なきを得ました。そして、戦闘を終えた後、ふと魔物の死体に視線を移すと──」
ベルタの声が徐々に明るくなっていく。
その様がなんだか狂気じみていて、ヒューゴは少し後ずさってしまった。
「顔が醜く変形していたんです。これ、どういうことかわかりますか? ヒューゴ様」
「え……?」
質問を受け、ヒューゴは思いあぐねる。
敵はコウモリ型の魔物で、吸血を得意とする。そして、その魔物は彼女の血を吸った。
ということは──
「君の血を吸ったから、魔物の顔が変形したのか……?」
「ご名答。流石、ヒューゴ様です。そう、あの魔物は私という罪人に流れる穢れた血を吸ったせいで顔が醜く変形してしまったんですよ」
「……!」
「でも、それだけじゃなかったんです。もしやと思った私は、すぐに持っていた手鏡で自分の顔を確認してみました。そしたら、ほんの少しだけ顔がマシになっていたんです」
「なっ……」
「どうやら、私の血を飲んだ者は、私と同じように醜く恐ろしい顔に変形してしまうようなんです。しかも、不思議なことに魔物に血を飲ませる度に私の顔はだんだん元の顔に戻っていくみたいで……」
ヒューゴは嬉々とした様子で語るベルタが恐ろしくなった。
けれど、何故か話に聞き入ってしまう。
「も、もしかして……人間に飲ませたりとかは……」
尋ねると、ベルタは小さく笑う。
「ふふっ、そんなことしていませんよ。……今はまだ、ね」
今はまだ──と、やっと聞こえるか聞こえないかほどの声でベルタがそう付け加えたのを聞いて、ヒューゴは戦慄した。
ふと、視界の端にシャルル王太子とナツミの姿が映る。
さっきまでダンスに夢中になっていた生徒たちは、いつの間にか踊るのを止めて二人に注目していた。
どうやら、王太子がこれから何か大事な話をするらしい。
「皆も知っての通り、私とナツミは三年前から婚約している。それで──予定より少し早いが、卒業後すぐに婚礼の儀を執り行うことにした。この場を借りて、そのことを報告させてもらう」
その発表と同時に、会場内に拍手が巻き起こる。
ベルタとしては、きっと複雑だろう。そう思い、彼女のほうに視線を戻すと。
「あら、結婚ですって。おめでたいですわね」
ベルタが感情のこもっていない声でそう言うので、ヒューゴはどう反応したらいいかわからなかった。
「皆のお陰で今日を迎えられたことを感謝する。──それでは、乾杯!」
グラス片手に王太子がそう言った。
その声と同時に、生徒たちは自身が持っているグラスを高く掲げる。
──乾杯!
二人を祝福すると、彼らは各々グラスに入っている飲み物を飲み始める。
だが、次の瞬間──突然、至る所から悲鳴が上がった。
「きゃああああああああああ!!」
「な、なんだ!? うわああああああああ!!」
瞬く間に、会場内は阿鼻叫喚の嵐となる。何事かと思い、ヒューゴは目を見張った。
すると、一人の女子生徒が王太子とナツミを指さして言った。
「あ……あ……王太子殿下とナツミ様の顔が……!!」
どうやら、彼女は二人の近くにいたため、一部始終を目撃していたようだ。
混乱の中、ヒューゴは中に入って王太子とナツミの状況を確認する。
二人は、どういうわけかその場でうずくまっているようだった。床には、彼らが落としたと思しきグラスの破片が散らばっている。
「い、痛い……顔が焼けるように痛い……誰か、助け……」
「あ……あぁ……私の……顔……どうなって……るの……?」
二人は両手で顔を覆いながら、床を転げ回って悶え苦しんでいる。
ふとヒューゴがベルタのほうに視線を戻すと──なんと、彼女は仮面を外していた。
だが、その素顔はベルタが言っていたように醜くはなく、むしろ美しいと言っても過言ではないほどだった。
その美貌に、どこか冷酷さを感じる笑顔がよく似合っている。
「ベルタ……?」
バルコニーに戻ったヒューゴは、恐る恐る彼女の名を呼ぶ。
「何やら、中が騒がしいですね。一体何があったんでしょう?」
「ああ、その……王太子殿下とナツミ様が倒れていたよ。僕も、何が起こったのかはよくわからなかったけど……」
「へぇ……そうなんですね」
ベルタは動揺する素振りすら見せずにそう返した。
「あの、ヒューゴ様。話を戻しますけれど……さっきの話は信じなくていいですよ」
「え?」
「この通り、私の顔はなんともありませんから」
「で、でも……」
「『実は全部作り話でした』と言ったとしても、誰も真偽を確認する術はありません。何故なら、私はこの三年間ずっと人前では仮面をつけていて誰にも素顔を見せたことがないのですから」
そう言って、ベルタはにっこり微笑む。
ベルタが語った過去。顔を手で覆いながらうずくまる王太子とナツミ。床に散らばるグラスの破片。
──二人の身に何が起こったのかは、普段は鈍感なヒューゴでも想像にかたくなかった。
「もしかしたら、お二人は毒でも盛られたのかもしれませんね。お可哀想に」
パニックに陥っている生徒たちを遠巻きにして眺めながら、ベルタはそう言った。
いや、二人の飲み物に混入していたのは毒物ではない。
恐らく、彼女の──
「ああ……そうかもしれないな。本当に、大変なことになったね」
ヒューゴは、ほぼ棒読みでベルタと同じように表向きだけは二人の身に降り掛かった災難に同情する。
本来ならば、ベルタを咎めるべきなのかもしれない。けれど、ヒューゴは彼女を責める気にはなれなかった。
何故なら、仮に自分が彼女と同じ立場だったとしても、きっと同じように報復を望んだだろうから。
恐らく、王室は──いや、この国はもう終わりだ。
あんな状態でナツミが今後まともに聖女の代わりを務められるとは到底思えないし、ベルタもたとえ謝罪を受けたとしても絶対に力を貸さないからだ。
今なら、なぜ神が被害者であるベルタに罰を与えたのかわかる気がする。
神は見抜いていたのだ。そう、聖女ベルタの心の中に存在する『闇』の部分を。
聖女たるもの、たとえどんな理不尽な目に遭ったとしても人を憎んではならない。きっと、そのルールを破ったからベルタは罰を受けたのだろう。
だが、結果的にベルタはその罰を一時的に受けるだけで済んでしまった。逃げ道が残されていただけではなく、復讐の手段すら与えられたのは神のご慈悲か、あるいは何か意図があったのか──ヒューゴには知る由もない。
「こんな時に言うのもなんだけど……もしよかったら、僕と一緒に踊らないかい?」
「……ええ、喜んで。ヒューゴ様と踊れるなんて光栄ですわ」
ベルタは恭しくスカートの裾を両手で摘んで頭を下げると、嬉しそうに差し出されたヒューゴの手を取った。
満天の星の下で見る彼女の緋色の瞳は、一段と美しい。
(ああ、そうか……僕はこの目にずっと魅了されていたのか)
それがベルタの持つ聖女の能力のうちの一つなのか、それとも純粋に恋心から来るものなのかはわからない。
しかし、たとえ能力による魅了だったとしても、ヒューゴは不思議と悪い気はしなかった。
ヒューゴとベルタは、生徒たちの悲鳴に合わせて夢中で踊り続ける。
そう、まるで陽気な音楽に合わせて踊るかのように。