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しろぎつね  作者: 前河涼介
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フライング・ディスク

 土曜の朝、姉妹は狐にフェイクレザー製のハーネスを着けてやる。狐は毛が押さえつけられる感じが気に食わないようで、鼻先で肩の辺りに触れようとして右に左に体をよじっている。

 姉がタウンページで駅向こうの下町に動物病院があるのを見つけた。歩いて行ける距離だ。狐のハーネスに赤いリードを繋ぎ、姉妹の間に狐を挟む並び。狐は気取ったみたいに頭を高くして、時々両隣の姉妹の顔を見上げながら歩いた。リードは始終姉が握っていた。妹は手袋をしないでコートのポケットに手を突っこんでいた。あるいは姉がリードの先を指に巻いて「運命の赤い糸」とジョークを言ったせいかもしれない。

 動物病院では狐は大人しくしていた。医師の前に来ると素直に口も開けるし、触っても全く動じない。針を刺されてもへっちゃらだ。医学講義用の人体模型のように無反応だった。

 角刈りの似合う中年の獣医師は何となくやりにくそうな感じだった。狐がそんなふうだったせいもあるし、その白いキツネと器量好しの姉妹とにどんな接点があるのか見当がつかなかったからかもしれない。

 獣医師は一通りの診察を終えて事務椅子に座り、エキノコックスの寄生はなさそうだと言った。血清検査の結果が出るまで一時間かかるから、それからまた来てくれと言う。「それにしても、珍しいね、キツネなんて。プードルかチワワだったらずいぶん納得がいきそうだけど」

「駅からついてきたんですよ」と妹。姉妹は並んで丸椅子に座っている。

「連れ帰ったんじゃなくて、勝手に?」と医師。

「うん」

「そりゃあ忠犬ハチ公だね」

「キツネはどんな食べ物が好きなんですか」と姉。横へ垂らしたその手に狐が額を当てている。

「食生活はイヌと同じで構わないよ。食べちゃいけないものも同じ。私の知り合いの飼いギツネはゆで卵が大好きだって」

「イヌってゆで卵食べるんだ」

「結構好きじゃないかな。ただ消化のことを考えると加熱はした方がいいね。卵焼きでも、目玉焼きでも、とろとろよりは、ぼそぼその方がいい」獣医師は問診表に目を通す間を持たせるくらいにさっくり答えた。

「ふうん」と妹。

「保護センターにはまだ言ってないのね。紹介してあげるべきなんだけど、しかし弱っているわけでもないし、いやに懐いているからね……」


 姉妹は診察料を払って外に出る。姉に手袋を借りて今度は妹がリードを引く。南へ向かって大きな公園に入る。敷地が林に囲まれていて、出入口には大なり小なりきちんと閉まる門があり、一面の芝生にレンガ敷きの歩道が走っていて、その道が交わるところに花壇や彫刻がある。周囲のベンチに人が座っている。そんな公園だ。

 飼い主を連れて散歩している飼い犬もいた。喧嘩を吹っ掛けているのかお近づきになろうとしているのか、まだ人間同士が挨拶するには遠すぎるくらいの距離で向かいから小型犬がしこたま吠えかかってくる。けれど狐が例の気取ったふうで静かに見返すと、相手は次第に威勢を失って吠える間隔が長くなり、終いには黙って飼い主の脚の陰に隠れてしまう。妹がそれを見て「おまえ、やくざか何かなの?」と訊いたが、狐は耳をちょっとそっちへ向けただけで他にこれといった反応を示さない。

 茶色く乾いた芝生の原っぱに来て、姉は鞄から小さなフリスビーを出して飛ばす。投げざまに狐に向って何か言おうとする。しかしやめる。フリスビーだけが遠ざかっていく。狐は自分が取りに行くべきかどうか迷って、方々へ体を向き変えながら足踏みしたままだった。結局姉が遠くに落ちたディスクを自分で拾いに行って、そこから妹に向って投げた。見本を見せたわけだ。それで妹に投げ返すように言って、次は狐に向って投げる。今度は狐もディスクを追いかけて、リードを引きずったまま高く跳躍して空中で捕えた。狐は妹のところまで咥えていって撫でてもらう。

「本物の毛皮みたいだな」と妹は改めて毛並みに感心している。エキノコックスの疑いがほぼ晴れたから触ってもよろしいということらしい。「こういうマフラーあるよね?」

「うちに? えーと、飲み物買ってくるけど何がいい?」

「ココア。バンホーテンの」妹が手を挙げて注文する。

「あったらね」姉は応える。

 妹と狐だけが残される。妹は狐に合図してディスクを軽く投げる。狐がそれを追いかけて妹のところに咥えて持ってくる。それを何度か繰り返す。

「ねえ、こんなの追っかけて楽しいの?」と狐が戻ってきたところで妹は訊いた。しゃがんで狐の口から取ったディスクを太陽の光に翳す。狐の涎がついていないか確かめているのだ。幸いディスクの表にも裏にも液体の光沢はない。「結構上手いことやるのね」

 妹はディスクを裏返しに芝の上に置いて腰を下ろし、三角座りになってポケットから携帯電話を取り出す。画面を見て小さい溜息を1つ漏らし、それからしばらく黙って画面をスクロールする。時折何か文字を打ち込む。狐は芝生の上に伏せて目を開けたままじっとしている。狐からその画面は見えない。あえて気にかけていないようにも見えるし、全然興味がないみたいにも見える。

 やがて妹は携帯電話を元のポケットに戻して周りを見渡した。姉がどこにいるのか確かめたようだ。でも目の届く範囲にはいない。妹は片手を狐の首筋に回して顎や耳の周りを鼻先から尻尾の方へ向かって何度も撫でた。

「私には自分が本当の愛を知らない人間のように思えるの」妹は呟いた。

 狐は蚊でも払うように耳の先を少しだけぴくんと動かした。

「おまえにはこんなこと言ってもわからないよね。ね?」

 狐はじっと目を開けている。黄色い虹彩。反応はない。

 妹は自分の膝の上に顎を置いて脛の前で腕を組んだ。それから今までよりも小さな声で続けた。

「それって恋愛のことね。親の愛だとかは別として。私はたぶん選ぶことに慣れ過ぎてしまったのよ。私を好きだという人たちの中から選ぶの。選んで、あるいは、選ぶ前に違うと感じたら次に行くの。次の人が待っているから。それは傲慢? 優しさではなく? 優しさだとしても、そう、優しさに過ぎない。そうしているうちに私は私が本当に愛すべきものに触れる機会を失っているんじゃないかな。だって、彼らが私に捧げるほどの気持ちや感情を私は誰かに対して抱いたことがないんだ。飢えや、渇きのような。ねえ、聞いてる?」

 狐は両方の耳を連動して素早く前後に振った。反応はそれだけだった。巨大な白パンのように芝生の上に伏せている。それだけ。

「私思うの。愛なんか奇跡のようなものだって。互いが互いを同じように愛せるなんて。だからね、人は不幸でいなけりゃならないの。そういう宿命なのよ。おまえはいいね。そんなふうに考えずに済むんだから」

 妹はそう言ってまた狐の体を額から背中まで撫でようとした。

 でも狐はするりと立ち上がって四つ足でぴょんと跳ね、そのままはためく旗のように芝の上を向こうへ駆けていった。妹から十分距離を取ったところで、ディスクを投げろと言うように一声吠えた。体格相応の犬のような、しかし幾分音程の高い鳴き声。

 妹は足元をちょっと探してディスクを取り、慎重に角度を決めて投げた。右に緩やかなカーブを描いて飛んでいく。狐が待っているところよりもずっと遠くへ飛んでいくコースだが、狐は素早く走り出して、ほとんど真後ろから追いついてディスクが地面に触れる前にキャッチした。


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