春にして君を想い
「麻耶ちゃんがいなくなって、もう1年になるのね……」
「そうだな……」
旦那が、麻耶ちゃんが自分で持ち込んで置いていったペティナイフをぼんやりと眺めて、それからふっとガス前に視線を動かす。
いつも火の前で何かつくっている子だった。
手際がよくて、お客さんに対する気遣いがすごく上手くて、麻耶ちゃんがいる日だけを狙ってくるお客さんはたくさんいた。
鈍い麻耶ちゃんは何も気づいてなくて、麻耶ちゃんをのぞいたスタッフでトトカルチョしていたくらいだ。
「こないだ神崎さんが言ってたですよ。こんなことなら、もっと早くにはっきりと気持ちを伝えて置けばよかったって」
そんなことを言ってる八巻くんだって、ちょっとイイと思ってたことを私は知っている。
「あー、神崎さんね……結構、露骨だったのにね」
「和泉、劇的なまでに鈍かったですもんね」
「麻耶ちゃん、仕事好きすぎたからねぇ」
麻耶ちゃん……和泉麻耶ちゃんは、以前、私が務めていたフルーツタルト屋さんの後輩だった。
物静かなタイプの子であまりおしゃべりな方ではない。でも、すごい聞き上手で、たぶん店のほとんどの子が何かしら麻耶ちゃんに相談していた。
だから、麻耶ちゃんがチーフになるのはごく自然な成り行きで、人員が入れ替わったとしても、麻耶ちゃんのチームはいつもチームワークが良いことで有名だった。
「和泉のつくったプリンうまかったっすよね」
「あー、生キャラメルもうまかったよな」
「いや、麻耶ちゃんの得意はやっぱパイでしょ。アップルパイは絶品だから!」
アップルパイは家でも作れる代表的なお菓子だ。だいたい手作りお菓子って言ったら、ホットケーキ→クッキー→アップルパイって感じの流れで作るだろうってくらいに簡単にできる。冷凍パイシートを買ってくれば、更にお手軽だ。
つまり、それくらいありふれていてポピュラーなのだ。
でも、麻耶ちゃんのアップルパイは一味違った。
同じ材料で、同じレシピでつくっているはずなのに、何かが違ってた。
たぶん、それが私と麻耶ちゃんの差で、私がいつもどうしても麻耶ちゃんにはかなわないと思うセンスだった。
お菓子づくり、というか、つまるところ、料理はセンスなのだと思う。
口惜しいけど、麻耶ちゃんは、そういうセンスのある子だった。
「……決めた。この子、マヤって名づけるわ。いいでしょ?」
私は少しふくらんだおなかを撫でながら、旦那に宣言する。
男だったら、ちょっとアレだけど、まあいい。
「いいよ」
旦那は何かを思い出すような表情で小さくうなづいた。
(……忘れないから)
麻耶ちゃんが、『このまま結婚もしないで、子供も産まないで、何も残さないで死んでくかと思うと泣きたくなる時がある』とベロンベロンに酔って泣いたことがあった。
あの時は何もいえなかったけれど、でも、今なら言える。
(何も残さないなんてことないよ)
麻耶ちゃんの残したレシピのいくつかは今ではうちの定番のメニューだ。
(それに……)
私はマヤと名づけるこの子に、あなたとの思い出を話そう。
それから、あなたの名前をもらったこの子に、あなたのつくった料理を教えるから。
(早く、生まれておいで)
麻耶ちゃんの好きだった春がもうすぐ来るから。
あなたは、春に生まれておいで。
私は心の中で語りかけるようにつぶやいて、ふくらんだおなかをまた撫でた。