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妃殿下の菓子職人 後編

「気楽にしてね」


 人形のようだとよく言われるお姫様は、あたしとアリッサに優しく微笑んだ。

 確かにお人形のように綺麗で整った容姿をされている。

 でも、この瞳をみれば、もう誰もお姫様を人形だなんて思えないだろう。

 御領主様と同じ青の……でも、キラキラと輝く瞳。

 容姿ももちろんだったが、この瞳こそがお姫様を最も強く印象付ける。


(なんて、可愛らしい……)


 あたしは、ただ、あたしの新しい主になるお姫様に見惚れていた。

 アリッサもだ。

 血はつながっていないものの、奥方様……公爵夫人も美しい方だと思ったが、お姫様はそのとりまく空気が違っていた。

 そのおかげで、あたし達は、王太子殿下の御前だということをそれほど意識せずに済んだ。

 あたし達を引き合わせた三番目の若君はとっくにもう御前を下がっていて、何か粗相をしても誰もかばってくれない状態だったのにも関わらず、あたしは、こんな方が本当にいらっしゃるのだと、ただただお姫様に見惚れることしかできなかった。


「姫さん、普通、この場で気楽になんてできるわけねから」


 横から口を出したのは、フィル=リンと名乗ったこの宮の家令見習いだった。年の頃は、王太子殿下と同じくらい……家令というにはまだ年若すぎるが、その口調からすると昨日今日になったというわけではないらしい。

 あたしはやっと意識を現実に向ける。

 謁見室からティールームに場所を移したが、もちろん、あたし達が同席できるわけではない。

 王太子殿下とお姫様が席についてお茶を待つ傍ら、あたし達が片膝をついて控えているという形だ。


「え、ああ、そうね。殿下がいらっしゃるのでは、楽になんてならないのね」


 納得、とお姫様はうなづかれる。

 確かにその通りではあったけれど、それを口に出せるのはきっと目の前のお姫様だけなのだろう。

 フィル=リンの顔色が目に見えて青ざめた。

 王太子殿下が不機嫌そうにじろりと彼を見ると、フィル=リンは俺は悪くないと声にすることなく言い募り、必死で首を横に振った。もちろん、王太子殿下はそれを冷ややかに一瞥して捨てた。


 

「ルティア」


 そして、殿下はその名を口にされる。

 お姫様の名前は、私でも知っている。

 アルティリエ=ルティアーヌ……聖書の冒頭の一節からとられたその名。

 その意味するところは、『光の中で輝く光』。

 それは転じて女神をあらわし、名前としては最上級の格を持つ。

 王侯貴族でないとつけないような名前だけれど、筆頭公爵と王女殿下との間に生まれ、すでに王太子妃であられる方のお名前なのだからまったく問題ないのだろう。平民は絶対につけられない。

 でも、お姫様にはぴったりなお名前だと思う。

 王太子殿下はその名前を愛称で、とても優しく口にされる。


「はい?」


 お姫様はにこっと笑みを浮かべて王太子殿下を見あげる。

 王太子殿下はその笑顔につられるように笑みを返し、それから少し困った表情をなさった。


 

「……ルティア」


 さっきとは微妙に違った……心底困っているという声音だった。


 あたしはそれほど王太子殿下の事を知っているわけではないけれど、うちのご領主様と大変仲が悪いことは知っている。そして、とても厳しい方であるということも。

 そんな方が、こんな表情をなさるとは思ってもいなかった。

 そんな殿下を見て、くすくすとおかしげにお姫様は笑った。


「安心なさって。殿下を追い出したりしませんから!」

「……ああ」

「私は殿下が一緒に居てくださったほうが安心で気楽にしていられるのに、どういうわけか誰も同意してくれないの」


 あたし達の方を見てほぉっと溜息をつく様子もまた大変に可愛らしく、思わず同意をしてさしあげたくなってしまうのだが、生憎、王太子殿下と同席していて気楽にできるほど場慣れしているわけでも、肝が太いわけでもなかった。


「……姫さんが本気で言ってんのはわかってるけどよ、ナディルがいて気楽にできる人間いねえから。……かわいそうだから、さっさと用件済ませてやれよ」


 いちゃつくのは二人きりでしろ、と、フィル=リンがどこかヤケになったような表情で言う。


「フィル=リン」


 冷ややかな声音。


「じ、事実だろ」


 おそらく、フィル=リンは王太子殿下のご学友の一人なのだろう、とあたしは判断する。若君たちとそのご学友たちの様子にそっくりだった。

 そうでなくば、ここが私的なティールームとはいえ、見習いとはいえ家令と名のつく人間がこれほどまでに親しい口をきくことを許されるはずがない。


「いちゃつくなんて人聞き悪いです、フィル。ちゃんと私、節度はわきまえていますから」

「……今の状態がわきまえてるかどうかはさておき、姫さんがわきまえてるのはわかってんの。わきまえてないの、この人だから」


 フィル=リンの視線は王太子殿下に注がれ……王太子殿下はその視線を真っ向から受け止め、表情をまったく変えずに言った。


「問題ない」

「問題だらけだっての。だいたいだな、あんた、わきまえてるって口にするなら姫さんを膝の上に乗せんな!」


 そう。

 場所を移すにあたって、王太子殿下はお姫様を歩かせなかった。

 当たり前のようにそっと抱き上げて、当たり前のようにこの部屋にお連れになり、そして、あたりまえのように自分の膝の上に座らせた。

 ……ゆったりとした一人用ソファはちゃんと二つ用意されているのに。


「……何が悪いんだ?」


 王太子殿下は真顔だった。

 お姫様は別に足がお悪いわけでも、身体がどこか悪いわけでもない。

 ただ、まだ幼くてお小さいだけだ。


「全部だ、全部!……姫さんも止めろよな!どうしてここくると、箍はずれんだよ、毎回、毎回!」

「ただのスキンシップだ」

「ただのってのは何にかかるんだよ。え。スキンシップっていうにはお前のそれはおかしすぎるんだよ!」

「これでも、ずっと抱きしめていたいのを我慢しているのだが……」

「本気で言ってるのかよ、それ。頼むから、やめてくれよ」

「ずっと腕の中に閉じ込めておければいいのに、と思っているよ。そうすれば誰にも傷つけられることがない」

「ひぃぃぃぃぃぃ……頼む、もう何も言うな。言わないでくれ」


 おそらくは、あたし達がびっくりするくらいの貴族であるだろうフィル=リンは、涙目になりながらがりがりと頭をかきむしっている。

 王太子殿下が口にした言葉に、アリッサとそう年齢が変わらないように見える侍女たちはうっとりとしていた。もちろん、アリッサもだ。

 あたしはその言葉にうっとりするより先に、むずがゆくなる。恥ずかしくて聞いていられない、というやつだ。

 顔がいいってのはトクなもので、王太子殿下が口になさる分には気持ち悪いとか芝居じみているとは思わないのだが、これが他の人間が口にしていたら即座に回れ右で逃出すだろう。


「ナディルさま、フィルをあんまりいじめたらかわいそうです」

「本音だよ。フィルをいじめるために言っているわけではない」

「知ってますけど。……でも、からかう気がないわけではありませんよね?」


 ふわふわと笑うお姫様はサラリと王太子殿下の甘いお言葉を流し、フィル=リンに助け舟をだしてやる。

 その様子をみれば、お姫様はいろんな事情を全部わかっているのだろうと理解できる。

 年齢以上にずっと大人な方らしい。


「まあね……ルティアは、うっとりとしてくれないのか?」

「くすぐったいとは思いますけど、もう慣れました。……ダメですよ、ナディル様。いつも言われていたら慣れてしまうんですから」


 効き目がありません、と笑う。

 その表情は、無邪気なようであり、すべてを知り尽くしているかのようでもある。


「……それは残念だ。でも仕方があるまい。どうしても口から出てしまうのだ。私的な場であるのだから、多少のことは許してほしい」


 王太子妃宮というのは、いわば王太子殿下の後宮であり、当然、そこはプライベートスペースだ。

 この場にいるのは、あたしも含め、私的な人員ばかりである。


「別にかまいません。嬉しく思いますから」

「ルティアが少しでも嬉しく思ってくれるのなら、それでよい」


 それは仲睦まじい御夫婦の姿だった。

 見た目こそ確かに差はあるのだけれど、当たり前のように寄り添っているお二人の姿は、何だか見ているだけで嬉しくなった。


(お菓子を作りたい……)


 今のこの気分をあらわしたようなふわふわとしたあまーいお菓子が。

 そして、それを召し上がっていただきたい、と思う。


(お二人に……)


 攫われるようにしてお嫁に行ったお姫様は、ちゃんとここで幸せを掴んでいらっしゃる……そう。掴んでいらっしゃるのだ。しっかりとご自身の手で。

 そのことがあたしにもはっきり理解できた。

 このあたしの新しい主となったお姫様は、決して自分の無力さを嘆いたり、男の身勝手をぼやいたりしないだろう。


「あのね、エルダ」


 王太子殿下に微笑みかけていたお姫様が、ふと、私のほうを見た。


「はい」


 名を呼んでくれたことが単純に嬉しい。

 人にもよるのだが、公爵夫人は使用人の名を呼ばない方だったので、余計にそう思うのかもしれない。


「あのね、私、ふわふわのケーキをつくりたいの」

「ふわふわの、ケーキですか?」

「ええ」


 この時、あたしはまだお姫さまの言うケーキというのがどういうものなのか、知らなかった。


「ふわっふわのスポンジにふわっふわのクリームで、最初だからやっぱりイチゴショートがいいと思うの。やっぱりケーキの基本だもの」


 意味不明の単語の羅列で、何を言われているのかわからなかった。


「それは、食べ物なのか?」

「ええ。甘くて口の中でとろけるお菓子です」

「ふむ」

「エルダが来てくれたので、きっと作れます。……楽しみにしていてくださいね」

「ああ」


 目を細めて、それはそれは可愛くて仕方がないという表情で王太子殿下は、腕の中のお姫様をみる。


「口の中いれるとふわっととけて、うっとりするくらい甘くておいしいんですよ」

「そなたと食べるなら、私には何でもおいしく感じられるよ」

「私もです」


 恥ずかしげに、でもはっきりとお姫様はうなづく。


「……でも、ケーキは特別なの」


 そして、はにかんだ表情で付け加える様子に、侍女達も、護衛も、それから、フィル=リンやあたし達の上役のラナ・ハートレーまでもが口元を押さえて身を震わせた。

 もちろん、王太子殿下は言うまでもない。どうしていいかわからない様子で微笑まれ、それから、そっとお姫様を抱きしめた。


「そなたは、私の宝物だ」


 お姫様もそっとその首に手を回す。


「うれしいです」


(……ケーキというお菓子の次だってことを、殿下は突っ込むべきじゃないだろうか?)


 首を傾げているあたしに、そっと抱きしめられているお姫様はにこっと笑い、秘密だというように唇の前に指を一本立てた。

 だから、あたしも笑みを浮かべてうなづいた。







 後に、お姫様が王太子妃殿下ではなく王妃殿下となられ、だいぶたった頃にあたしは聞いた。

 

「妃殿下は、お菓子で例えるならどのくらい陛下をお好きですか?」


 もちろん、からかい半分だ。

 頭の片隅にあの時のケーキが特別だと言っていた言葉があったことは否定しない。

 あたしは、妃殿下にそんなことを聞けるくらいよくしてもらっていたし、妃殿下はご自分と同じようにお菓子を作るあたしに気を許してくださっていた。


「そうね……チョコレートと同じくらい」

「ちょこれーと、ですか?」

「そう。幻のお菓子なの……大好きなのに」


 ほぉと溜息をつかれる。


「二度と食べられないかも」

「妃殿下にも作れないのですか?」


 あたしの知る限り、妃殿下は世界最高の菓子職人だった。

 あたしは妃殿下の忠実な弟子であり、専属職人で……妃殿下はあたしをご自分の手だとおっしゃってくださっていた。

 あたしには、それが誇りだった。


「だって、材料が手に入らないんですもの。そもそも、まだ発見されていないのかも……」

「陛下におねだりすればどのようなものでも手に入るでしょうに」

「私のちょっとした楽しみのためだけに権力の濫用をしてはいけないと思うのよ」


 すごーく心は揺れるんだけど、と妃殿下は笑う。

 既にお子様もいらっしゃるというのに、いつまでたってもどこか少女めいた雰囲気をおもちだった。


「妃殿下は、不思議なお菓子をいっぱいご存知なのですね」

「……夢で、見たのよ」


 どこか遠い眼差しで、妃殿下は言った。


「夢で……」

「そう」


 その遠い眼差しに少しだけあたしは不安になる。

 でも、すぐにその瞳は、今を映し、あたしを見る。


「私が作るお菓子にはね、秘密がいっぱいつまってるの」


 妃殿下は柔らかく微笑った。


「秘密が、お菓子をより甘くするのよ」


 私達の手は秘密を作り出す手なの、といたずらっぽく呟かれたのを、あたしは生涯忘れることはなかった。




 




 製菓技術の革新は、世界帝国となる直前のダーディニアにはじまったと言われている。

 今日にも残るさまざまな菓子……甘酸っぱい林檎のパイ『ド・ラリエ』や一番最初のケーキの名をもつ『ガトル・フレザ』、王妃殿下のクッキーと言われる『クーク・リュヴァ』等、多くのお菓子がその時代に生まれた。

 自身も類稀な菓子職人であったと伝えられるナディル1世の妃アルティリエが考案したそれらの菓子は、彼女の専属菓子職人であったエルダ=マウの養女が菓子店『ラ・リュヴァ・ドーニュ』を開いたことで広く世に広まり、多くの職人達によって伝えられた。


 アルティリエ妃の自筆と伝えられるレシピは、ダーディニア歴史博物館をはじめとする各所に今も幾つか残る。

 つい先頃、専門家の鑑定の結果、王妃の自筆レシピだということが明らかになったダーディエの老舗菓子店『ラ・リュヴァ・ドーニュ』に伝わる同名の『ラ・リュヴァ・ドーニュ』……【王妃の秘密】という意味の名をもつチョコレートケーキもその一つだ。


 ほろ苦いチョコレートスポンジに甘酸っぱいベリーのジャムと甘いチョコレートクリームをはさみ、表面をチョコレートでコーティングしたそのケーキが『ラ・リュヴァ・ドーニュ』の厨房で初めて作られたのは、レシピを書いたアルティリエ妃の没後百五十年あまり後……新大陸でカカオが発見されてから実に二十年以上の月日が経過した後のことである。

 当初マゴットと呼ばれていたその木の実を「カカオ」、そこから作られたその原料を「チョコレート」と呼ぶようになったのは、『ラ・リュヴァ・ドーニュ』の職人達がレシピに従いその名で呼んだからに他ならない。

  

 アルティリエ妃の生きた時代、ダーディニアにはまだチョコレートはおろか、カカオも存在していなかったと言われている。

 なぜ、アルティリエ妃がその存在を知っていたのか、また、どうしてそのレシピを書きえたのか、今の私達に知る術はない。

 絶世の佳人であったといわれる王妃の秘密は、今も私達を魅了してやまない。



(×××年1月21日 帝都新聞文化面コラム「甘いお菓子の甘い秘密」より引用)




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