あふれんばかりの愛しさを
「おはよう、ルティア」
穏やかな声が響いた。
「おはようございます、ナディルさま」
私もそれに応えて、あいさつを口にし、いつものテーブルのいつもの椅子に座る。
二人しか使わないのだからとナディル様が作らせた丈夫な樫のテーブルは、フルコースの皿を一度には乗せることができない。でも、少し身を乗り出して手を伸ばせば互いに触れる事ができるちょうど良いサイズだと私は思う。
「今日は負けました」
そう言うと、ナディル様はわずかな笑みを浮かべる。
「……ああ。私の勝ちだったな」
私たちはこっそりとどちらが先に朝の挨拶をするかを競っていた。
それは毎朝のささやかな……ちょっとした遊戯のような習慣で、朝の小さな楽しみの一つだった。
いつもと変わらないやりとりだったけれど、私はナディル様のその声音にわずかな不機嫌の気配を聞き取る。
私に対してという感じはしないし、本当にごくわずかなのだけれど、着実に夫婦としての時間を積み重ねてきた私にはわかる。
(とりあえずは、おいしい朝食でご機嫌が直るくらいのようだけど……)
でも、いつも通りの無表情と見せかけながらも、わずかに眉根が寄っているような気がする────つまり、ナディル様が考えを巡らさねばならないような問題があるということなのだろう。
下手をしたら、朝食が終わって私と一緒の時間が終わった次の瞬間には、また不機嫌がぶり返しそうな感じがしている。
(何かあったのかしら?)
朝、私が目を覚ましたとき、寝台の中にいたのは私一人だけだった。
隣はまったく乱れていなかったから、ナディル様は昨夜は寝台を使わなかったのだと思う。
(たぶん、徹夜ですね)
ナディル様は一晩徹夜したくらいでは問題としないし、まったく変わらない。
(さて、どうやって聞いたらいいのかしら?)
すべてを知りたいとまでは思わないけれど、ナディル様の不機嫌の原因は知っておきたい。でも、何で不機嫌なんですか、なんて聞けるわけがない。
「……どうした? ルティア」
少し思い悩んだ私を見て、ナディル様が小さく首を傾げた。
何だか可愛らしさがある仕草なので、無表情なナディル様がそれをするとギャップがあっておかしい。見るたびに頬が緩んでしまいそうになるのを耐えて、何でもないというように私は首を横に振る。
ナディル様の最側近のフィル=リンに言わせれば、これは私がよくする仕草がナディル様にうつったものらしい。
(……私がよくする仕草だという認識はないのですけれど、でも、フィルが言うのならそうなのかもしれません)
無意識に仕草がうつるくらい、私とナディル様の距離が近しいものになったのだったら、それはすごく嬉しいことだと思う。
「……私には言えないことか?」
ナディル様の眉根がきゅっと寄る。
誤解したナディル様は、さっきよりずっとずっと顰めっ面になってしまった。
「いいえ。……ナディル様が何か難しいことを考えてらっしゃったので、私がそれを聞いて良いのか、ちょっと考えてしまっただけなのです」
私はさっさと白状する。
思わせぶりなフリをして誤解されるのは本意ではないし、ここは正面から聞いた方がいいかもしれない。
「……私、か?」
「はい」
私は深くうなづいて、それから、ここのところがちょっと寄っていました、と自分の眉間を指さす。
ナディル様は少しだけ気にした様子で、己の眉間を伸ばすように触れた。
「……昨夜は寝台を使っていなかったようなので、徹夜だったのかなと思って少し心配していたのもあります」
「今日が聖ヴェローナの祝日だということを忘れていたのだ……」
「……それが、ナディル様が眠らなかったことと何の関係があるのですか?」
聖ヴェローナというのは、正教における聖人の一人だ。
亡き夫の無実を証明するために夫を陥れた敵に己が身を委ね、その証拠を得ると大司教に訴えて出てその罪無きことを見事に証した。が、彼女は敵に身を委ねたことを恥じ、その身を神に捧げたという。
彼女の亡骸が葬られた場所に真っ白い薔薇が咲いたことから白薔薇は誠の愛の証だと言われ、求婚の時に白薔薇を捧げると断られないというジンクスがあるとも聞いた。
(……確か花言葉みたいなのがあるんですよね)
あちらの世界と似ていて面白いな、と思った覚えがある。
「……聖ヴェローナの日には、夫が妻に日頃の感謝を込めて贈り物をするというのが最近の流行なのだそうだ」
ナディル様の言葉は少しだけ歯切れが悪い。
「……それが?」
「……私は流行に疎いものだから何も準備をしていなくて……何を贈ろうかと考えていた」
やや逸らすように目線が下がる。
「……もしや、それで徹夜、ですか?」
「…………ああ」
私は、吹き出しそうになるのを堪えてそっと口元に手をやる。
(何て……)
何て可愛い人なんだろう、と思う。
十五歳も年上の男の人に対して思うことではないのかもしれないけれど、でも、今、この瞬間、私はナディル様をとても可愛いと思う。
胸の裡がぽかぽかするような温かい気持ちがあふれだしそうだ。
「……ルティア?」
ナディル様が伺うように私の方を見た。
「……バカですね、ナディルさまは」
笑いながら言う私に、ナディル様は戸惑った表情を向ける。
そんなところも可愛いと思う。
「……私をバカというのは君くらいだ」
どこか拗ねているかのようだ。
(……どうしよう)
この人が好きだ、と思う。
私の中に広がって、ぱんぱんに詰まっていて、今にもあふれそうなこの気持ちをどうすればいいのかわからない。
「ナディルさま」
あふれんばかりの愛おしさをこめて、私はその名を呼ぶ。
私だけが呼ぶ、特別で大切なその名前を。
「……ああ」
何を言われるのかとやや身構えている様子に頬が緩む。
「ナディルさま。私はどんな贈り物よりも、こうしてナディルさまと過ごす時間が一番貴重だと思っています」
私のその言葉に、ナディル様は何度か目をしばたたかせた。
それからゆっくりとその言葉を咀嚼するような様子で考え、額に手をあてて深く息をつく。
「……ルティア……」
「はい」
何を言っていいかわからない、というような口調で名を呼ばれてそれに応える。
ナディル様は言葉が見つからないのか、何度も首を振った。
私は静かに口を開く。
「……ナディルさまと一緒にいるのが一番嬉しいのです。ですから、そんなことで徹夜などしないでください」
贈り物を下さる、というのでしたらナディル様の時間を下さいませ、と言うと、ナディル様は無言で頷いた。
「……それと……」
この際だから、言いたいことは言っておくべきだろうと思って言葉を継ぐ。
「それと?」
まだあるのか? という表情でナディル様が私を見るから、私はその目をまっすぐと見上げる。ちゃんと目を合わせてくれるのがナディル様の良いところだ。
「……昨日のような寒い夜に、私を一人で眠らせないでくださいませ。……夫婦なんですから」
聖ヴェローナの日は愛し合う夫婦の祝日であることを思い出した私は、淋しいと訴えるだけでなく一言付け加えた。
ナディル様は、今度は下を向いて顔に手を当ててさっきよりももっと深く息をつき、小さく唸った。
(何を唸ることがあるんでしょうか?)
そして、顔をあげたナディル様は少し疲れたような表情で言った。
「…………君はもう少し言葉選びを気をつけなさい」
「…………はい」
良くわからないままうなづく。
「いや……私の心が汚いだけだな。……ルティアはそのままで良い」
首を傾げる私に、ナディルさまは一人納得したようにうなづいた。
そんな私たちを見てフィル=リンが腹を抱えて笑っていたことを私は知らない。
そしてその後、フィルがナディル様に思いっきり仕返しをされたことも私は知らないことになっている。




