夢の中の夢
※ 確定とは限らない未来のワンシーンがあります。
そういうものが苦手な方はご覧にならないでください。
『夢の中の夢』
その日、お茶の時間にシオン猊下がいらしたのは、公務でお出かけになられたギヒニアからのお土産をもってきてくれたからだった。
「では、北部のギヒニアには温泉があるのですね?」
「ええ。ギヒニアの山間部にはいくつも温泉があって、北公の別荘もありますし、ギヒニアの温泉は傷にきくと言われていて、王家の設立した治療院があります。湯治客のための長期滞在宿もあり、僕も近くの聖堂にしばらく滞在したことがあります」
シオン猊下は王都大司教になる前はギヒニア大司教だったそうで、今でも時折ギヒニアに出張されることがあるのだという。
「温泉に入られました?」
「ええ。ギヒニアは温泉の街でもあります。義姉上は無理だと思いますが、公共の大浴場もいくつかあって誰でも入れるのですよ」
「公共の大浴場ですか?」
「はい。滞在施設は併設されておりませんが、入湯料を払えば旅の者でも入れる湯です」
(なるほど。きっと銭湯とか立ち寄り温泉みたいな施設ですね)
「王家が設立した治療院は聖堂が運営しているのですが、そこの温泉もなかなかのものです。機会があれば義姉上もぜひ。王家の者がギヒニアを訪れる際は、治療院を視察するついでにそこの温泉を利用するのが慣例なのです」
「まあ! 機会があれば、ナディル様にぜひ連れて行って下されるようにお願いしてみます」
「…………さすがの兄上も義姉上のおねだりとあらば無碍にはしないと思いますが、断られても落ち込まないでくださいね。兄上はおそらく、湯治とか休暇とか骨休めって言葉の本当の意味を知らないと思いますので」
「大丈夫です。殿下が働き虫なことは存じております」
シオン猊下の冗談めかした物言いに私は笑った。
多分この時、私は『温泉』にすごく心惹かれてしまったのだと思う。
だからこそ、あんな夢を見たのだ。
*******
(…………はて? これはいったい?)
目を覚ましたら、なぜか畳の部屋にいた。
(夢、なのかしら?)
もしかしたらまだ目は覚めていないのかもしれない。
(過去の……麻耶だったときの、記憶? ううん、違う)
それは即座に否定できた。だって、これが過去の記憶ではない証拠に私の手は小さい。
(傷のない綺麗な白い手……整えられた指先に、美しく塗られた爪……)
これはアルティリエの手だ。
……しかもだ。
私はぐぎぎぎぎぎ、とまるで油の切れたロボットのようなぎこちなさで横を向く。
「いかがした?」
(な、なんで殿下がーーーーーーっ)
なぜか、ナディル殿下がいる。
それも、浴衣なんか着て。
(意外に似合ってるというか……違和感、あんまりないです)
別にこれは妻の欲目ってわけじゃないと思う。
「いえ……何をしてらっしゃいますの? 殿下」
「いや、おもしろいティーセットだと思って」
興味津々と言った様子でお茶セットの入った茶櫃を開け、茶筒を手に取ったり急須に顔を近づけて眺めたりしている。
(ああ、うん。……過去の記憶っていうより、夢ですよね、これ)
畳の部屋に塗りの卓、周囲を見回せば完全に和室である。と、いうことはここはあちら……和泉麻耶が暮らしていた日本なのだろう。
ならば、ここにいる私がアルティリエなのもおかしければ、ナディル殿下がいるのもおかしい。
なので、これは間違いなく夢なのだ。
(でも、何か楽しいかも)
殿下と一緒なことが嬉しいし、私には馴染みがあるこの空間に殿下がいるのが面白かった。
この際、せっかくなので少しくらい夢の中を楽しんでもいいかもしれない。
どうせ己の夢の中なのだ。多少のことは自由になるだろう。
「これ、グリーンティー専用のティーセットなんです」
お淹れしますね、と私は急須を手に取った。
*******
(それにしても、ここがどこなのかが謎ですよね)
とりあえず、自分の部屋ではない。
(旅行とかで来た場所とか?)
夢に出てくるくらい印象深かったのなら、すぐに思い出せなそうなものだけど、まったく思い出せない。
私は首をひねりながら、ポットを引き寄せた。
麻耶の記憶の中では、すぐにお湯が沸かせるケトルが主流になっていたけれど、どうやらここはちょっとレトロな魔法瓶のポットを採用しているらしい。
(実家、とかでもないしなぁ……)
思い当たる場所はないのだが、強いて言うならば、どこかの温泉宿といった風情だ。
茶碗を温め、そのお湯を急須に戻して、だいたい1分程度。
白い薄手の茶碗に注ぐとふわりとさわやかな香りが立ち上った。
「いい香り……」
濃い黄緑色は新緑を思わせる。
丁寧に淹れたお茶を、私はナディル殿下に差し出した。
「どうぞ、殿下」
「ああ……」
殿下は、意識の半分くらいを魔法瓶のポットにもっていかれながらも、茶碗を手にする。
私は殿下の方にポットを寄せてあげた。
お茶を飲んだらいくらでも弄り回せばいいと思う……ただし、壊さない程度に。
「……香りが、違うのな」
「はい。グリーンティーとは言っても産地などにより千差万別です。……これは、煎茶ですね」
どこのお茶にせよ、ダーディニアで飲むグリーンティーとは全然違うだろう。
「殿下、よろしければ、こちらのお菓子をお召し上がりください」
「菓子?」
「はい。このフィルムに包まれたものです」
私はどうぞ、と目の前にお饅頭の置かれた皿を置く。
「……これか?」
「はい。おまんじゅうです。中には餡……えーと、以前にお召し上がりいただいたパンケーキサンドにも使った豆を甘く煮たフィリングが入っております」
「ああ……」
私が言ったものが何なのかに思い当たった殿下はわかった、という表情でまんじゅうのフィルムをぎこちない手つきで開いた。
「これは?」
「ゴミはゴミ箱に捨てちゃってください」
何だか名残惜し気にごみを捨てた殿下は、じっくりと眺めながら温泉饅頭を口に運んだ。
「……甘い」
「お菓子ですから。……このお茶と一緒に召し上がるとちょうど良いと思います」
餡子と緑茶は鉄板の組み合わせだと思う。ダーディニアでいただくように、餡子と豆茶や餡子と紅茶も悪くないけれど、やっぱり餡子には緑茶だ。できれば緑茶は濃い目にいれたい。
甘さ控えめの餡子を味わい、渋さの中に甘みのあるお茶で餡子の余韻を楽しみ、再び餡子を口にして今度はお茶の渋さとの味のハーモニーを楽しむ。
(これこそ、最高のマリアージュだと思うのです!)
最初にお茶で口を湿してから、温泉饅頭に口を付けた。
皮にも餡にも黒糖がふんだんに使われているのだろう。黒糖独特の甘さが口の中に広がる。
薄皮に包まれた餡は丁寧に作ったこし餡で、口の中でなめらかに溶けた。
(私、餡はつぶ派ですけど、黒糖を使っている場合はこし餡もおいしいです)
きっと心の声を殿下が聞いていたら「君はおいしいもの派だろう」とか言うような気がする。正しいけど。
「殿下、お気に召しました?」
「ああ」
「では、戻ったら研究してみますね。材料はほぼ何とかなりますし……あとは黒糖が手に入れば完璧なんですけれど」
目が覚めても覚えていられれば良いのだけれど。
「黒糖……」
「はい。私、王宮では見たことがないのです」
「どのような材料なのだ?」
「サトウキビの搾り汁を煮詰めて作った甘味料です。黒っぽい板状の塊をしていたり、あるいは粒状に砕かれていたりと形はさまざまです」
黒糖の見た目も味わいも、作り手によって違う。
でも、たぶん黒糖に類するものはまだ見ていないはずだ。
「サトウキビの搾り汁を煮詰めると甘味料が作れるのか?」
「はい。それで、絞った後のごみは畑の肥料になるそうです」
「……ふむ」
ナディル殿下は興味深いという表情になる。
「でも、不思議ですね」
「何がだ?」
「私の夢の中に殿下がいらっしゃることがです。夢の中なのに、すごく殿下らしいです」
「……これは君の夢なのか?」
「……さあ……もしかしたら殿下の夢なのかも……でも、私の夢である確率の方が高そうです」
「なぜだ?」
「どうやら、ここが温泉旅館っぽいからです」
「オンセンリョカン」
「そうです。……見てください。このページ、ここの旅館らしいですよ」
部屋に館内案内と共に置いてあった雑誌の付箋がついているページを開いて見せる。
(私、ここの旅館泊まったことないけど……でも、何で夢に出てきたかわかった!)
ここは麻耶の両親が新婚旅行に来た旅館なのだ。雑誌を見て、何となく思い出した。
(……いつか、来たいと思ってた場所だ)
「リョカンとは?」
「あー、えーと、宿泊施設です。ギヒニアの湯治客のための施設に似ているかもしれません」
(ギヒニアの施設をあんまり知らないけど……)
きっとシオン猊下の土産話のせいでこんな夢を見たのだろう、と気づいた。
(私、そんなに温泉に入りたかったのか……)
我が事ながら、心の中のことはなかなかわからないものらしい。
「なるほど」
「ナディル殿下、今度、ぜひギヒニアの温泉に連れて行ってください」
夢の中なので、気兼ねなく強請ることができる。
「なぜだ? どこか具合でも悪いのか?」
「そうではありませんが、温泉に入りたいのです。温泉にのんびり入って、命の洗濯をしたいのです」
「イノチノセンタク?」
「えーと、うまく言い換えられないんですけど、ようは温泉で心身を癒し、明日への活力にしたい、というところでしょうか……王宮に閉じ込められっぱなしですからね、たまには、外で二人でのんびりこんな風に過ごしたいのです」
「……二人で、か……」
「はい。私たち新婚旅行もしたことないじゃないですか。だから、新婚旅行の代わりでいいです……実際には、たくさんお供がいることはわかっていますけど、王宮より外の方が二人きりになるチャンスはありますものね」
「シンコンリョコウとは、何だ?」
「えーと、結婚したばかりの夫婦が二人で旅に出ることです」
「旅に出ていかがする? それは何の目的があるのだ?」
殿下は思いっきり怪訝そうだった。
夢の中だというのに、いかにも王太子殿下らしくておかしい。
「えーと……夫婦二人きりで見知らぬ地を旅し、初めての共同作業などを経ながら二人の仲を深めてゆくとか?」
自分で言っていて、何か違うような気がしてきた。
いや、新婚旅行ってもっと甘くてふわふわでやわらかな何かっぽい気がするんだけど、それをどうやって殿下に伝えるべきか……。
だが、理詰めの殿下にはその説明で良かったらしい。
「そうか。……では、いつか必ず、そなたをギヒニアに連れてゆこう」
ナディル殿下はかすかに笑みを浮かべて言った。
*******
「陛下、行幸が決まったとお聞きしましたけれど」
「ああ」
夫婦そろっての初めての行幸が決まったとの知らせを受けたのは、昼前だった。
そもそも、過保護すぎる夫のせいでよほどのことがない限り、私はほとんど王都から出ることがない。
(前回、王都を出たのは家出した時だったような……)
年単位で昔のことである。
「それで? どちらになりましたの?」
「ギヒニアだ」
「……ギヒニア? 以前、シオン猊下がいらっしゃったというあのギヒニアですか?」
「ああ」
「楽しみです」
二人そろって王宮を空けることができるというのは、国が治まった証だった。
ましてや、ナディル様が私を外に連れ出すというのは、よほど安全に自信があるのだろう。
「イノチノセンタクをするのだろう?」
「え?」
その言葉に、記憶の底からひっぱりだされる微かなイメージがある。
(……え?)
「いつか必ず連れてゆくと約束したからな」
ナディル様は私の様子に気づいてか気づかないでか、言葉を継ぐ。
(え? あれは夢で……)
「……まあ、夢の中であったが」
そして、向き合っていた書類から顔をあげて私を見た。
「あれは、どちらの夢だったのでしょう……」
私は遠い記憶を辿りながらつぶやく。
「さあ……どちらの夢でも構わない。二人きりであれば同じことだ」
ナディル様が笑った。
「そうですね」
私も笑った。
「新婚旅行なのだ。……せいぜい、新婚らしく仲良くするとしよう」
「……ナディルさま?」
ナディル様はとてもご機嫌だったが、その言葉には何か不穏な響きがあったような気がして、私は首を傾げる。
ナディル様はそんな私の顔を見て、更に楽し気な笑みを重ねた。
*******
「なんで、ぼくはつれていってもらえないの?」
「それは、これが新婚旅行だからだそうです」
「ちがうでしょ、フィル。とーさまとかーさまはもうけっこんしてすごくたってるからしんこんじゃない」
母譲りの金の髪に、父譲りの蒼銀の瞳の幼い少年は、きわめて冷静に指摘する。
(……ほんと、マジでナディルの子だ、これ)
末恐ろしい子供だと、内心、慄きながらもフィル=リンはにこやかな笑みを幼い王子に向けた。
どれほど幼くとも、心の中では『これ』呼ばわりしようとも、目の前にいるのは次代の国王……王太子殿下である。いつも通りに口を開けば不敬罪と言われかねない。
(子供だから、まだいろいろわかってねえしな……)
国王夫妻であれば許される口調も、まだ融通のきかない幼い子供が相手では許されない。
(とはいえ、このあたりで世間ってものを知っておくのも大事か……)
世間というよりは彼の両親の真実と言うべきか。
「あのですね、殿下」
「なに?」
幼い子供は真面目な顔でフィルを見る。
「建前と本音、どっちがしりたいですか?」
変に取り繕うべきではないとフィル=リンは判断した。
この幼さで自覚を求められるのは可哀そうなことだが、すでに立太子された王太子である以上、致し方がない。
「りょうほう」
だが、幼い王子ははっきりとその自覚を示す。
「建前は、万が一のことがあった時に、国王と王太子が共に失われるのを防ぐための別行動です」
「……それで、ほんねは?」
「二人きりを約束したので、子供と言えど邪魔されたくない」
「……やくそく?」
「ええ、夢の中で約束したらしいですよ。新婚旅行にギヒニアに連れて行く、と」
「だから、もう、しんこんじゃない」
まるで手遅れです、とでも宣告するような表情で、フィル=リンは重々しく告げた。
「残念ながら……あなたのお父様とお母様は、一生新婚ですよ」
ちなみにこれは、『ナディル殿下を連れて行ってあげたい現代の場所』というお題で募集したニコニコ静画の企画の結果のイラストを見て書きました。
↓こちらです。良ければご覧になってみてください。
http://seiga.nicovideo.jp/watch/mg321566?ct_now




