幸福のリボン
「うーん……」
居間のソファーコーナーで金の髪の少女が腕を組んで難しい顔をしていた。
「妃殿下、そのようにリボンを広げてどうなさいました?」
リリアは、あまりにもかわいらしい渋面に思わず笑みを浮かべて問う。
彼女が仕える王太子妃アルティリエは、先頃、十三歳の誕生日を迎えた。すでに結婚しているせいだからなのか、年齢以上に大人びたところのある少女が常にない様子で考え込んでいる様子は非常に可愛らしく、見る者の微笑みを誘う。
「うん……どのリボンにしようか悩んでいるの」
ローテーブルだけではなく、座っているソファの一部にまで侵食して広げられているのは、アルティリエが髪を結うのに使っているリボンだ。
いつもならば、すべてきちんとアイロンをかけてきれいに巻き取って並べてあるそれが、今日は所狭しと広げられ、テーブルやソファを埋めている。
「本日用のリボンでございますか?」
今日のアルティリエは、編み込んだサイドの髪を百合を形作ったエナメルの髪留めで留めてから垂らしている。もしかしたら、髪飾りのモチーフが百合であることが気に入らなかったのかもしれない。
「髪飾りがお気に召しませんでしたか?」
王家の花はロゼフィリアであり、百合はフェルディスの花だ。アルティリエはフェルディスとはほとんど縁がない。
「ううん。そんなことはないわ」
うーん、とアルティリエは再び悩みながら、いろいろなリボンを手に取って眺めたり、目をつむって何やら想像しては、首を傾げたりうなづいたりしている。
たかがリボンと言うなかれ、ただシンプルに一色で染めただけのものもあれば、先染めしてからわざわざ太さまで指定して織らせたものもある。どれをとってもなかなか高価なものであり、アルティリエの持ち物の中には値段がつけられないような品がいくつかある。
(例えば、そこの……妃殿下のお手元近くにある冬用の白いリボンとか……)
地は光沢のある白のシルクタフタ。そこにビーズ刺繍で雪の結晶を刺繍してある。この刺繍は、刺繍の名手として知られるアルデリア伯爵夫人に特別に刺していただいたものだ。
雪の結晶はとても好まれるモチーフなので冬になれば皆がこぞってこの模様の装身具や衣類を身につける。誰もが工夫を凝らしているのだが、アルティリエのためのこの品は白地に白糸と透明のビーズで刺すという地味さで、一見したところただの白いリボンにしか見えない。が、光をあてると刺繍がまるでダイヤモンドダストのようにきらきらときらめくのだ。
(ビーズって言っていますけれど……確かにビーズには違わないんですけれど、これ、実はダイヤモンドのビーズなんですよね……)
職人がカッティングの練習の為に作ったという小さなダイヤモンドのビーズをふんだんに使ってある。
(作らせたのが王太子殿下でなければ、どこのバカがそんなもの作るんだって言うところだわ)
当然ながら、リボンとは思えないような……リリアにしてみればおよそ作らせた人間の正気を疑うような値段の代物となっているのだが、もちろんアルティリエはそんなことはまったく知らない。
(しかも、王太子殿下がリボンだとしかおっしゃらないから……まさか、いくら宝飾品で有名なリーフィッドのお血筋の妃殿下であっても、あのビーズがダイヤだとは思いますまい……)
彼女の夫である王太子ナディルは、別に高価な品を贈りたいと思ったわけではないのだろうが、アルティリエにふさわしいものを、と考えているらしく、毎回、力が入りすぎる傾向にある。
(これで妃殿下が悪女だったら、国家が傾くところです)
アルティリエはドレスにも宝飾品にもさほど強い関心を持たない少女だ。
美しいものを愛してはいるが、所有欲は強くない。彼女がこのリボンを特別に大切にしているのは、王太子から贈られた品であり、王太子に似合うと言われた品だからだ。
アルティリエが成人したら……つまり、宝飾品を贈ることが解禁になったら、王太子はどれだけのものを贈ってくるのか、今から楽しみなようであり、恐ろしくもあった。
◆◆◆◆◆
「……これ、どう思います?」
アルティリエが手に取ったのは黒と銀の細いストライプのリボンだ。つけると、シャープな印象が強調される。
「すっきりしていて素敵ですが、妃殿下の今日のお召し物でしたらこちらではないでしょうか?」
アルティリエの今日のガウンはほんのりとあわいペールオレンジだ、その地の色に合わせて、リリアが手に取ったのは白地にオレンジのバラが刺繍してあるリボンだった。やや甘めの印象を与えながらも、その刺繍の精緻さが甘すぎない可愛らしさを演出している。
「それはちょっと……」
アルティリエは口ごもった。
「では、こちらはいかがですか?」
ソファの上の一本を手に取って薦める。極薄の黒のシフォンに金糸でスクエアな模様を刺してあるモダンな一品だ。
「……それだったら、男の人がしてもおかしくないかしら?」
「え? 男の方ですか?」
「ええ、そうよ。……やだ、リリア、聞いていなかったのね? あのね、殿下にさしあげようと思っているの。……殿下とお揃いのリボンをしたいの」
「王太子殿下とお揃いですか?」
「ええ」
アルティリエは屈託なく笑った。己の願いが断られるなどとはまったく思っていない笑顔だ。
(……さすが、妃殿下!)
あの王太子にそのようなことを願い出る人間はこれまでにいなかっただろう。
「……それでしたら妃殿下、少し派手ですがこちらがよろしいのでは?」
リリアは、金色の地に濃紺の糸で聖句が縫い取られている品を薦める。
「……派手すぎない?」
「母女神のご加護を願う聖句ですから問題ありません」
口ではそう言ったものの、リリアもいささか派手だと思っている。ましてや、そういうキラキラしさをあまり好まない王太子だからして、断られることが前提だ。
(……でも、もし。……もし、王太子殿下がこれを受けいれるようでしたら、相当、妃殿下にお甘いということになります)
「どうしたの ?リリア」
「いいえ、何でもありません」
リリアは何喰わぬ顔でにっこりと笑った。
◆◆◆◆◆
翌日、リボンに合わせた濃紺のシルクタフタのガウンを纏ったアルティリエは自分が結んだリボンよりもやや幅広の同じリボンを手にして、朝のお茶の時間に赴いた。
わざわざ迎えに行ったリリアは、ナディルがそれを結んでいるばかりか、もともとナディルが使っていただろうリボンを左手に結んでいるアルティリエを見て頬が緩むのを抑えきれなかった。
(あ、これはもう疑いようがありません)
しかも、やや緩みかけていたのを手ずから結びなおしている。
(ご自分のリボンを結ぶだなんて、明らかに自分の物だと言っているのと同じじゃないですか!)
ほかの女官や侍女たちがいたら、間違いなく互いに同意を求めてこの言葉にしがたい甘酸っぱさを共有しあっただろう。
しかもこれは己の愛用の品を交換したということになる。
(仲の良さのアピールになりますね)
アピールするまでもなく仲が良いことは疑いようがないのだが、アピールをしておかないと余計な横やりが入るのだ。
これはひっそりこっそりいろいろなところに噂を流しておくべき事柄だろう。
「では、殿下、明日はいただいたこのリボンに合わせたガウンにしますね」
「……ああ」
相変わらずナディルは言葉少なだったが、退出時にわざわざ扉まで見送りに来るのだから機嫌は悪くないのだろう。
ナディルはアルティリエと共にいるとき、一般向けの優しい笑顔を浮かべたりはしていないし、わりと無口がちだ。
(でも、妃殿下は今日は上機嫌だとか、笑っていたとおっしゃるんですよね)
アルティリエにしかわからないことがあるらしい。
(そういえばフィル=リンもそう言っていましたっけ……)
ナディルの乳兄弟にして幼馴染。そして一番の腹心である執政官の顔を思い出す。
元王太子妃宮の見習い家令にして、現在は後宮のアルティリエ妃殿下の家令代理たるフィル=リンは、そのいつも半人前みたいな肩書をいいことに後宮のアルティリエが仮住まいしている一角によく顔を出す。
だいたいは、アルティリエが何事もなく過ごしているかの確認なので、毎回、アルティリエに目通り願うわけではなく、リリアたち女官と軽い情報交換だけして退出することが多い。
フィルはよくナディルにとってアルティリエは特別なのだと言っていたが、確かにどの通りだった。
(外見は確かに差がありますけれど……)
会話を交わしているときの二人を見ていると、中身のほうはさほどの差がないのだろう。
◆◆◆◆◆
「ねえ、リリア。ナディルさま、お似合いだったと思いませんか? このリボンはやはりナディルさまのほうがお似合いだわ」
アルティリエは、ナディルのものよりもちょっと幅の狭い、己の髪を結んでいるリボンにそっと触れる。
「リボンの金では、妃殿下の艶やかな髪の色に負けてしまいますから仕方がございません」
「そういうのではないのよ……でも、ナディルさまもリボンをお気に召したみたいで、今度は禁色のリボンを作らせようって……作らせるっていうあたりがナディルさまらしいのだけれど」
そういう贅沢がそれを作る者たちの生活を支えているのだと知っているから、アルティリエは度をこさない限り何も言わない。
(妃殿下、気に入ったのはリボンではないと思いますよ)
ナディルが気に入ったのは『揃いの』リボンだ。
揃いのリボンの色が禁色となれば贈った人間は明らかだ。身の回りの物……それも常日頃使うだろう品を贈り、揃いで身に着ける……それはアルティリエがナディルだけのものであるということを殊更強く感じさせるだろう。
(相当どころか、デロデロにお甘いのですね……)
リリアが想定していた以上に……どころか、数段上をいく甘さである。
「妃殿下」
「……はい?」
「殿下は王太子の禁色と、国王の禁色、どちらのリボンを作らせると思います?」
「んー、どちらかしら……どちらの色でも私の髪色ならば似あうと言ってくださったから……両方かも。ストライプや市松……スクエアでも両方使えるでしょう。……でも、国王陛下の金色は縦糸と横糸の色を変えるから難しいかも」
(……後で、この情報をフィル=リンに教えてあげましょう)
それと引き換えに何の情報を引き出すか……リリアは、アルティリエに笑顔を向けながら、強気の算段をはじめた。
◆◆◆◆◆
執務室に戻ってきたナディルの常にない上機嫌な様子に、そこにいた側近たちはまずは何か異常事態があったのだと考えた。
心なしか足取りは軽やかだし、わずかな留守中に机の上に山と積まれた書類函を見ても舌打ちもしなければため息もつかず、嫌な顔もしなかった。
(おかしい……)
(絶対に、おかしい……)
誰一人として言葉にはしなかったが、その心は皆疑いようもなく同じである。
残念なことに、こういう時に自分から率先して地雷原に突入していくフィル=リンは留守にしている。
(……あれ?)
レイモンドはそれに気づいてしまった。
そして、不幸なことに気づいたからには問わずにはいられない。
「……あの、殿下」
「……何だ」
おずおずと呼びかける彼に、ナディルは通常運転である冷ややかな眼差しを向ける。
側近には優しい王太子殿下として接する必要もなければ、愛想を振りまく必要もまったくないと思っているのだ。
心を許されているのだと思うほど練れていないレイモンドとしては毎回、少し怯んでしまう。
「……先ほどまでとはリボンが違いますが」
リボンを代えるという状況はやや色めいたものが多い。
髪を解くということがイコールそのまま夜の閨を連想させるからだ。
「……ルティアがお揃いのリボンがしたいとねだるのでな」
ナディルは己の幼い妻を『ルティア』という自分だけの名で呼ぶ。
その響きがとても柔らかで、どこか甘いことを誰もが知っている。
幼い妃殿下こそ、ナディル殿下にとって唯一の人であるのだ。
「それは、それは……。お似合いですよ、殿下」
微笑ましい様子を思い描いて、レイモンドは生温い笑みを浮かべた。
ナディルの上機嫌が異常事態に属するものではないことがわかって皆もほっと一安心をする。
「……元のリボンはどうなさいましたか?」
「ああ……」
ふっとナディルは思い出し笑いを浮かべ、そして言った。
「ルティアに結んできた」
「へえ、妃殿下に……え? 妃殿下にですか?」
「ああ。……あれの手首にな」
くすりと小さく笑う。
なぜかぞくり、と背筋が震えた。
「……こういうのも独占欲というべきなのだろうか?」
呟かれたその言葉に、誰も返す言葉を持たない。
おそらく、ナディルも誰かの返答を求めていたわけではないだろう。
「あれが揃いのリボンを好むようだから幾つか作らせる。良い工房を選定させるように」
「は、はい」
声が裏返る。
「……工房、ですか?」
「ああ。趣向を凝らしたものを作らせたい。何だったらフィルに丸投げしておけ。以前、ルティアのためのものを作らせたとき、フィルがいくつか工房を選んでいたから」
「かしこまりました」
世界帝国となったダーディニアにおいて、貴族階級の婚約は揃いのリボンを衆目のある中で互いに結び合うことで成立すると定められた。
幾つもの国や領土を併合した帝国において共通の法の制定は急務であり、特に厳格な相続規定のあるダーディニアにおいて、婚姻とそれに先立つ婚約の法制化は重要視されていた。
この婚約の作法の始まりはナディル陛下とアルティリエ妃に由来するものと言われているが、それを証する逸話などは現代に伝わっておらず、現在の帝国において、すでにその習慣は現行法としては明文化されていない。
だが、仲睦まじかったと伝えられるお二人にあやかり、今ではその習慣は一般市民の間にも広がった。
かくいう筆者も、妻に結婚を申し込む際には己のできる範囲で趣向を凝らした揃いのリボンを用意した。
宝石を縫い付けるような高級で特別なリボンを用意することはできなかったが、妻は笑顔で受け取ってくれ、身に着けてくれた。
私が求婚したあの日から四半世紀以上の月日が過ぎ、私たちの結婚生活は、ナディル陛下とアルティリエ妃のそれを追い越した。
仲睦まじいと今も言い伝えられる国王夫妻にあやかれたかはわからないが、妻はいまも色あせたあのリボンを大切にしまってくれているし、私は、私のリボンを身に着けてくれた妻を目にした瞬間の喜びと、私の手首にリボンを結んだ妻の震える指先を今も覚えている。
不思議なことだが、どんなにひどい喧嘩をした時でも、そのことを思い出すと心が和らぐ。
婚姻の届け出をした時ではなく、あの瞬間こそが、私に夫婦の……夫としての自覚を植え付けてくれたような気がする。
今も残るスクラップブックカードや肖像画の中で並ぶナディル陛下とアルティリエ妃は、ほとんど揃いのリボンを身に着けて描かれている。
気難しいところがあったと伝えられているナディル陛下の単体の肖像画やカードは、どこか冷ややかな印象を覚える者が多いのだが、アルティリエ妃と並んでいるものはいつも柔らかな表情をしているように見える。
そして、どの肖像画やカードにおいても、アルティリエ妃は常に傍らの夫に微笑みかけている。
後世の私たちは、若く美しい王妃のその輝くような笑みに、夫婦にとっての幸福とは何かを考えさせられ、あるいは、教えられるのである。
(×××年7月16日 帝都新聞文化面コラム「リボンが結ぶ夫婦の絆」より引用)




