下町の晩餐【後編】
「義姉上、この林檎酒にはどんな食べ物が合うのですか?」
アルフレートは手にしている林檎酒の壜と木のゴブレットを軽く揺らす。
どこのセルドでもだいたい、保証金を払うことで飲み物でも食べ物でも持ち帰りができるのだという。ちなみに自宅から鍋や皿、あるいは瓶などを持ってくれば保証金も必要がない。
このあたりの屋台は隅から隅まで知っていると豪語するアルフレートは、大目に保証金を払うことでゴブレットまで借りてきたらしい。ルティアにラッパ飲みはさせられないという気遣いなのだ。
見た目の無骨な印象で誤解されることが多いのだが、細かいところによく気が付く弟だ。
「あの林檎酒はわずかに甘さのあるさわやかな酸味が特徴でしたから、肉類にも合いますし、チーズにも合いますね。ハーブを使ったソーセージ、それから、揚げ物系にもいいです。口の中をさっぱりさせてくれますから……」
ルティアは楽し気に周囲を見回す。
このあたりは食べ物のセルドばかりが集まった一角だ。
「海の物には合わないのか?」
「合いますよ。まろやかな酸味というのはだいたいどんな食べ物にも合いますし、林檎のあの香りはたんぱくな魚介と一緒になったら素晴らしいと思います。なので、何種類か選べたらいいですね」
弾むような足取りのルティアは楽しげな様子でセルドの店先をのぞいてゆく。
「ナディルさま、見てくださいませ、あそこのセルドでは出来立てをいただけるみたいです」
ルティアが指さしたセルドの店先では、細長く作られた簡易コンロの上でジュージューと音を立てる串焼きが何本も並んでいる。
「では、一本買ってきましょう」
「……良いのですか?」
「もちろんです」
慣れているアルフレートは私が何か言う前にさっと身をひるがえした。
◆◆◆◆◆
「……一本ではなかったのか」
リロの葉を四角く切って形づくった使い捨ての皿の上には四本の串が並んでいる。
「どれも、一本ずつですよ?」
アルフレートは不思議そうな表情でナディルを見る。
「右から、ソリ、ササミ、手羽、モモです」
正直、ナディルにはあまり区別がつかない。
「部位が違うのですね?」
ルティアはにこやかな笑顔でアルフレートの手元をのぞきこんだ。
「はい。一番人気なのはモモですね。あそこのセルドは甘辛いタレでこんがり焼くのが特徴なんです。……お熱いうちにどうぞ」
「…待て、アルフレート」
「大丈夫ですよ、兄上。……私が毒見をしてもいいんですが、私が口をつけたものを義姉上に食べさせるのはちょっとどうかと思いますので……」
「温かいうちに皆で一口ずついただきましょう。……気になるようでしたら、まずナディル様が召し上がって、それから私が一口いただいて、それでアルで……いえ、アルが食べてくださればよいと思うのです。残り物で申し訳ありませんが、これからたくさん食べる予定があるので今からおなかをいっぱいにするわけにもいきませんし……」
「わかりました。確かにそれがいいでしょうね」
ナディルが何か口を挟むより先に、二人は互いににこにこと笑いながら合意してしまう。こうなると何となく強くは反対しづらい。それに、ルティアが提案した方法が一番合理的でもある。
「どうぞ、兄上」
ずいっと皿を目の前に差し出され、最初の串を手にした。
漂ってくるタレの香りはそれだけで食欲をそそる。
「歯ごたえがあるな」
タレの甘辛い味わいと炭に燻された独特の味わいとが口の中に広がった。
「ソリは筋肉なんですよ」
ルティアがこっそり、というような様子で声をひそめて言うのが何だかとても可愛らしい。
「……なるほど」
脂身のない引き締まった肉質は噛むほどに味わいが深くなる。
「兄上、こちらも」
手渡されたのは木製のゴブレットだ。
「ああ」
さわやかな酸味が濃いタレの味をほどよく緩和し、次の一口への期待が高まる。
「……どうですか?」
「悪くないとは思うが……だが、私は、君ほど繊細な舌をしていないから……」
ルティアも食べてみると良い、と串を手渡した。
私もだが、王宮とは違って手袋をしていない。その生の……日焼けをしていない手に串を手渡すと、指先が軽く触れあった。
成人してからは外で手袋を外すことはほとんどない。そのせいか、ただそれだけのことが何だかくすぐったく感じられてルティアの方に視線をやった。
ルティアも同じように感じたのか、私の方に視線を向けていた。
そして、互いに目を見合わせて小さく笑う。
何か理由があるわけではない……何でもないそんな一瞬だけのことが、柔らかくてふわふわした何とも言い難い感情を心の中に生み出す。
それを何と呼ぶべきなのか、己にはよくわからない。
愛おしさに似ているような気もしたけれど、もっと掴みどころがないようなものにも感じられた。
「いただきます」
ルティアは笑みを浮かたまま、私が手渡した串に上手に噛り付く。
「……おいしい~」
どこか幼げに見えるその表情に頬が緩んだ。
視線を感じてアルフレートを見れば、もの言いたげににやにやと笑っている。
「ルティア」
アルフレートのそのにやにやした顔をあっさりと流し、林檎酒の入ったゴブレットを差し出す。
「ありがとうございます。……どうぞ、アル」
「いただきます、義姉上」
ルティアは先にアルフレートに串を渡してから、私が差し出したゴブレットを手にした。
木製の素朴なゴブレットは見た目はちょっと不格好ではあったけれど、意外に冷たいものをいれるのにも適している。氷をいれているわけではないが冷たさが逃げないのだ。木製だから、簡易な断熱効果があるのだろう。
ルティアは一口林檎酒を口にし、少し首を傾げた。
「ルティア?」
「……いえ、おいしいのですけれど、林檎の味がとんでしまうかな、と……私には少しタレが濃いようです」
「ああ、確かに」
それから、タレをたっぷりと塗りふんわりめに焼いてあるササミ、やや焦がし気味に焼いた手羽、表面をカリっと焦がしたジューシィなモモ……と、私たちは同じことを三回繰り返して味を確かめる。
「串焼き自体でとてもおいしいのですけれど、林檎酒よりもたぶん麦酒とかのほうが合うような気がします」
「……そうかもしれません」
確かに、というようにアルフレートが深くうなづく。
「……では、林檎酒に合わせるのだったら君ならどんな味付けの串焼きにする?」
「たぶん、セルドには向きませんけれど、塩胡椒でさっぱり仕上げます。胡椒は高価ですからセルドでは使えませんでしょう?」
「そうだな」
輸入ルートが確立したこと、そして国内の一部地域で栽培が成功したことで徐々に一般家庭でも胡椒が使えるようになってきた。とはいえ、それでも、気軽に使えるほど安価でもない。
「セルドでいただくのでしたら値付けも大事だと思うのです」
「ああ、そうだな」
「では義姉上、値段のことを考えないのでしたら、どんな串焼きに仕上げますか?」
アルフレートが興味深そうにたずねた。
「まずは白ワインでモモ肉を洗います。それから軽く塩胡椒をふって、皮をこんがり、中は中心がわずかにレア部分が残るようにふっくらと焼きたいです。お好みでそれに檸檬を絞っていただきます。白ワインではなく林檎酒を使っても良いですね」
「酒で洗うことに意味があるのか?」
「はい。お酒でお肉を洗うと臭みが消えますし、お肉が柔らかくなります。……もちろん、肉自体の質にもよりますけど」
「ほう」
「林檎酒だと仕上がりにほんのりさわやかな香りがしておいしいと思うのです」
味を想像しようとして断念した。それほど食べることに興味のなかった身なので、明確に味というものを思い出したり、想像したりすることが難しいのだ。
ただわかっているのは、ルティアが作るものならば必ず美味であろうということ。
ルティアに対する絶対的な信頼が、それはきっと素晴らしい料理に違いないと確信させる。
「なるほど……」
「皮はやはりタレですね。ニンニクを使った甘じょっぱいものか、ピリカラにして外側をカリカリ、内側はしっとりめに仕上げるのがいいです。……それから、レバーは新鮮なものをワインで洗い、少しワインに漬けておいてからタレでふっくらと中がレアめに焼き上げるのが好みです」
「ルティアは、皮や内臓も大丈夫なのか?」
「はい。……他の生き物の命をいただいているのですもの。隅々まで無駄にせずにおいしくいただきませんと!」
ぐっと小さな拳を握り締める様子には何だか頼もしさを感じる。
「それは良い心がけだな」
「別に特別なことではないと思います。……それに、皮も内臓も普通に美味しいですし!」
「いや、レバーを嫌う人間は多いだろう?」
「独特の臭みが嫌だという方がいらっしゃいますね。でも、新鮮なものならば臭みもありませんし、工夫次第でいくらでも気にならなくなります。……そうですね。ミニトマトの中をくりぬいてレバーぺースト詰めてチーズ焼きにしてみたりとか……。とはいえ、セルドで販売することを考えたらちょっと難しいかとも思います。手の込んだものよりは工程の少ない簡易に作れるものの方が良いでしょうし……」
「目新しさは必要だと思うが……」
それには工夫がいるだろうと暗に示唆する。
「そこが腕の見せ所というか……タレとか、食感とかでわかりやすく違いをアピールするべきです。そういう意味では、つくねなんかが個性が出せるし、一度にたくさん作れるから良さげですね」
「つくねとはどういうものですか?」
アルフレートは興味津々だ。
「えーと……すり身を団子状や棒状に成形して串にさして焼いたものです。余ったところを全部使えますし、軟骨と一緒に叩いてても面白い歯ざわりになりますし、皮と一緒に叩けば味わいがまったくかわります」
「いろいろと自由なのだな」
「基本、お料理は自由ですよ。食べ合わせがダメなものとかは避けるべきですけど……ああ、一つだけ、絶対的な不文律がありますけど……」
ルティアは至極真面目な顔で私とアルフレートの顔を見た。
「それは……?」
アルフレートがわずかに息をのむ。
「食材を無駄にしないこと! 食べられないものを作るのは食材に対する冒涜です」
「冒涜と言うのは大袈裟じゃないか?」
「「大袈裟ではありません」」
なぜか、ルティアだけでなくアルフレートからも突っ込みが入った。
「ナディル様、そのままで食べるよりもおいしくするのが料理なんです。そのままのほうが良いのであれば料理などする必要はありません。そのようなものを作るのは冒涜でしかありません」
「兄上、甘いです。いいですか、世の中には腐りかけた素材を濃い味付けでごまかしたり、下拵えを手抜きして口にできないようなものを作り出したり、レシピ通りに作らずに勝手に工夫をしたあげく、およそ食べ物とは思えないものを作り出したりする輩がいるのですよ!」
「……おまえたち、随分と気が合っているな」
「それは……食いしん坊同士ですので」
「それに、義姉上は私の料理の師ですので」
少し照れ臭そうな表情でルティアが笑い、自身でも料理をするアルフレートは、ルティアに深い敬意をにじませた視線を向ける。
「ありがとうございます。でも、アルで……アルは充分上手なので、教えることなんてありませんの」
「いやいやいや、義姉上にはまったく及びません。……義姉上が作る串焼きをぜひ食べてみたいです」
「ナディルさまが良いとおっしゃいましたら、作ってみたいですね」
私の妃はおとなしい、と言われているが、食べ物の話になるととても饒舌だ。どんな時よりも表情を輝かせ、目もキラキラしている。限られた人間の前でしか見せないそんな表情につい頬が緩む。
「もちろん、かまわない。……その時はシオンも呼ぼうか」
「シオン猊下は串焼きとか召し上がります?」
「大丈夫です。私もシオンも義姉上の作ったものでしたら、石でも食べますよ」
冗談ばっかり、とルティアは笑ったが、たぶんアルフレートは本気だっただろう。
ルティアがこんな風に過ごしていること、そして、弟たちとも仲良く楽しげにしている様子をこうして傍らで見ることができるのが嬉しかった。
(……もしかしたら)
ふと、思う。
こういう何気ない一瞬を積み重ねていけることこそが『幸せ』というものなのかもしれない。
◆◆◆◆◆
「……だいぶ、おなかもいっぱいになってきましたね」
アルフレートの勧める屋台をいくつか食べ進めた私たちは、ちょっとした広場で休息をとっていた。
こうしてあいている空間があると、座って食べられるように廃材などで手作りしたと思しきテーブルやイス、あるいは木箱を利用した台等が置いてあり、自由に利用することができる。
「そうだな」
とは口ではいうものの、私やアルフレートにはまだまだ余裕がある。ルティアと私たちとでは食べる絶対量が違う。元々、ルティアはそれほど多く食べる方ではない。
「こっちもそろそろ終わりですね」
アルフレートは、木箱の台に置いていたもうあまり入っていない壜を持ち上げて軽く揺すった。
「串焼きにはじまり、チーズソースをかけた揚げ芋、それから、焼きエビ、貝の蒸し焼き、焼きソーセージ、甘いソースで煮込んだ肉と千切りの青菜を包んだパティ、塊肉の煮込みのクレープ包み、それから、鹿肉の壺煮シチュー等々、いろいろ食べてまいりましたけれど、どれがこの林檎酒に最も合っていたと思います?」
「……単体で食べるなら私は塊肉のクレープ包みが一番好みだったのだが、あれは麦酒か赤ワインの方が合うだろうな」
「私もそう思います」
ルティアはこくりとうなづき、アルフレートを見る。
「私は串焼きがイチオシですが、同じくあれも麦酒の方が合いそうですよね。……林檎酒にあっていたというのなら、貝の蒸し焼きだと思います。貝の蒸し焼きだけで食べるよりも林檎酒と一緒に食べたほうがずっと引き立つと思いました」
「そうなんです!」
我が意を得たり、とでも言うようにルティアはにっこりと笑って続けた。
「貝の蒸し焼きだけで食べていてもおいしいのですけれど、林檎酒と一緒に食べるとそれ以上の違うおいしさに気づかされます。……たぶん、あの蒸し焼きが蒸す時に林檎酒を使っています。ほんのり香りがしていましたもの。……そのせいでより、合うと感じるのです。……マリアージュとでも言いましょうか」
「まりあーじゅ?」
「えーと、飲み物と料理の素敵な組み合わせとでも言うような意味ですね」
「なるほど」
「なので、ナディル様、あの貝の蒸し焼きをもう一度買ってくださいませ」
その白皙の頬がほんのりと朱に染まっている。
「ああ」
「それで、もう一度あのおじいさんのところに戻って、おじいさんに食べてもらうのです。……あと、おじいさんの林檎酒をこの回の蒸し焼きの屋台のお兄さんに飲んでもらいます」
食べ物や飲み物のセルドをやっているのですから、多少なりとも味には関心があると思うのです。
「それで?」
「それでお互いの良さを分かったら、提携したらどうかと薦めてみてください。どちらのセルドもそれほど良い位置ではありませんでしたから、可能なら移動して隣同士に並ぶことができたら尚良いですね」
ルティアはにこにこと機嫌が良さげだった。心なしか、少し語尾が拙い感じがする。
(……酔ったのだろうか? この酒とは名ばかりの果汁のような酒で?)
よほど怪訝な顔をしていたのか、あるいは同じことを考えたのか、アルフレートが私の方に問うような視線を向けた。
「ルティア、そろそろ戻ろうか」
「……え」
満面の笑みだった顔がしょんぼりと沈む。それこそ、見ている方が罪悪感を抱くような萎れた様子だった。
「……また今度来よう」
「……『また』がありますか?」
半ばあきらめている様子でルティアが問う。
そこには、基本的に大概のことを受け流すことに慣れた私が無視できない響きがあった。
(いや、ルティアだからこそ……)
相手が彼女だからこそ無視できないのだと思う。
「ああ。……約束しよう。確かに私たちはなかなかこのような時間をとることはかなわない。だが、必ずまた連れてくる」
「……はい」
約束する、ともう一度繰り返せば、聞き分けのいいルティアはこくりとうなづいた。
手を伸ばせばおとなしく身体を預けてくれる。
最近ではなかなか抱き上げさせてくれなかったので、そんな場合ではないのに少しだけ嬉しかった。
「今日はありがとうございました、アル」
「いえ。どうぞ、後のことはお任せください」
「はい。おじいさんによろしく言って下さいませ」
「もちろんです。……状況が改善されたらまた来ましょう。兄上が連れてきてくれなかったら私がお連れしますよ」
「本当ですか」
ぱあっと表情が華やぐ。
「はい。……駆け落ちと間違えられるかもしれませんが……」
からかうような表情で私を見る。
「まさか」
ルティアはまったくそんなことを考えたことがないのだろう。冗談としてすら受け取らなかった。
「ルティア、必ず連れてくるから、大丈夫だ」
「でも、ナディルさまはお忙しいから、いつになるかわかりませんし……」
「……大丈夫だ。年を越さぬうちに連れてこられるように努力しよう」
「わかりました。楽しみにしています」
ルティアは、どこか幼い印象を与える笑みを浮かべた。
「兄上、来るときはどうぞお言いつけ下さい。また護衛をさせていただきますので」
「……ああ」
腕の中のルティアは、ご機嫌な様子でアルフレートに手を振った。
◆◆◆◆◆
「……何か不思議ですね」
セルドで今日の糧を求める多くの人たちの中をすり抜けながら、帰路をたどる。
この時間帯はどうやら職人やどこかの店の勤め人といった様子の人々が多い。私とルティアを一瞬怪訝そうに見るものの、さほど気にすることもなくセルドへと足を向ける。
「何がだ?」
「……下町の人々の生活を目にすると、私たちが暮らしている王宮がまるでお伽話の世界のように思えるのです」
ルティアの言葉にはどこか批判的な響きがあるから、良い意味ではないのだろう。
「お伽話とはどういう意味だ?」
「地に足がついていないというか……どこか絵空事のような空っぽさがあるような気がするのです」
おかしいですね、私たちはそこで生命を賭けて必死に生きているのに。
静かな呟きと小さな吐息が耳元をくすぐる。
「空っぽなどではないし、絵空事ではないよ、ルティア」
「ええ。……でも、何か違うような気がして……。おかしいですね。私たちは他の場所で生きていくことが許されないのに」
「……そうだな」
私もルティアも、今の自分たち以外になる道はなかった。
特にルティアは生まれた時からすべてを決められていたと言ってもいい。
「……下町で市井の一個人となって暮らしたいと思うか? 今日見てきた人々の中で、セルドで晩餐をしたりして、しっかりと地に足を着けて生きていくような暮らしだ」
融通のきかない私と違い、ルティアなら結構うまくやりそうだった。
多少はお金に困りそうだが、ルティアには技術がある。それほど不自由することなく、稼ぎ出しそうな気がする。
「まさか」
ルティアは首を横に振った。
「なぜだ? 貧しいから、というわけではあるまい?」
「だって、ナディルさまがいませんもの」
即答だった。
「私?」
「……王宮は虚飾と虚栄とに彩られて、とても空虚な場所ではありますけれど、そこがどこであっても、ナディルさまがいてくださる場所が私の生きる場所ですから」
「……でも、君には息苦しいばかりだろう」
「仕方ありません。……私は『エルゼヴェルト』ですから」
ルティアは、『エルゼヴェルト』という単語に、深い意味を持たせた発音をする。
「で、ある以上、私には他の道はありません。でも、良いのです。私にはナディルさまがいますから」
ルティアは、私の胸にすがるように頬を寄せる。まるで己が万能のヒーローであるかのように言われて気恥ずかしさを覚えた
「ナディルさまが居てくだされば、後のことはおまけなのです」
語尾が揺れた。
「それは光栄なことだな」
それに対する返答はなく、腕の中のぬくもりがほんの少し重さを増した。
「眠ったのか? ルティア」
答えはない。
だから、月の名を冠する王宮を見上げ、私は口を開いた。
「……私も、君が腕の中にいるのならあとのことはすべておまけでいい」




