下町の晩餐【中編】
「まずは、食前酒といきましょう。ちょうど葡萄酒や果実酒の新酒が出たばかりです。王都にはさまざまな地域のものが集まりますから、飲み比べるのも楽しいでしょう。……義姉上は、林檎酒を水で割ったものなどがおすすめです」
アルフレートが案内したのは酒類を売る屋台だった。こういった屋台のことを王都の下町ではセルドと呼ぶ。元々の意味は、彼らが商品を並べている台のことを指すのだが、それが転じて今では屋台を意味するようになった。
「ここは季節の果実酒の中でも林檎酒だけを扱っている珍しいセルドです」
「季節の果実酒、ですか?」
「酒とは言いますが、果実酒ですから……」
酒、というところで少し躊躇った様子を見せたアルティリエだったが、屋台の前に子供たちが何人か並んでいるのを見て、そういうものなのかと納得した。
花冠前の子供に酒を飲ませることはマナー違反だ。
更に言うならば、女性の飲酒はあまりほめられたものではないとされているのだが、果実酒だけは大目にみられている。
「わが国では酒と言えば葡萄酒か麦酒をさしますが、地域によっては林檎などの果実でも酒をつくるんですよ。葡萄酒も果実酒ですがこれは別枠で、それ以外の果実で造る酒のうち酒精が強くないものを果実酒と言っています」
その中でも、林檎酒は子供も飲んで良いとされるくらいに酒精が弱いものだという。
林檎酒だけのセルドだというわりには、台の上には何本もの広口の壜が並べられていた。
ランプの光に照らし出された硝子ビンには赤から黄色まで色とりどりの液体が満たされていて、かすかに漂う甘い林檎の香りが不思議と心を浮き立たせた。
硝子器は一般家庭でも使われているとはいえ、まだまだ高価なものだ。この壜ほどの大きさのものともなればかなりの値になるだろう。このような屋台で使うには不釣り合いだった。
(……でも、きっと質が違うんだろうな)
王宮で使っているようなレベルのものでなければ……使用はできるが、気泡が入るなどして正規の商品としてはハネられたものなどは安価で求めることもできると聞く。おそらくはそういった類のものなのだろう。
壺や樽などを使っているセルドも多いから、この硝子の壜は随分と頑張って使っているに違いない。
「きれいな色……」
アルティリエは、さまざまな色合いの液体に感嘆の溜め息を漏らした。
この色は硝子の壜でなければ見ることができない。下手な看板をかけるよりも、この壜のほうがよっぽど宣伝になる。
「果実の自然な色合いです。昨今では美しい色にするためにこの原酒に混ぜ物をするところもあるようですが、この屋台ではそういうものは扱わないんです」
「混ぜ物を……?」
「はい」
「林檎酒にもいろいろありましてね。これは赤姫という甘い林檎から作っているのでやや甘めで、こっちは碧青という青林檎から作っているもので、少し酸味が強いです」
十数本はあろうかという壜の中から、アルフレートは飲んだことがあるものについて説明してくれる。
(さすが、食いしん坊なアル殿下)
食いしん坊仲間であると密かに認識しているアルティリエにとって、これはとても信頼のおける口コミだ。
「北の……ロートリアの姫林檎から作っているものはあるか?」
ナディルは所在なげに立っていた老爺に声をかけた。
ナディルだけ、あるいはアルフレートだけであればさほど目立たないかもしれないが、今はアルティリエがいる。気配を殺して周囲に埋没することは不可能だったし、となると、彼らはどこからどうみても高位の貴族のお忍びにしか見えないので、店主もどうしていいかわからなかったのだろう。
「へえ、これでございます」
老爺は、ナディルの言葉に一回り大きな壜を示した。
「ロートリアの姫林檎というのは珍しい種類なんですか?」
「いや、ロートリアは林檎の産地で有名だからさほど珍しいわけではないが……」
王太子妃の……そなたの直轄領なのだ、とナディルは耳元で囁いた。
「……私の」
アルティリエは軽く目を見開いて、そしてにっこりと笑った。
「それは素敵です」
嬉しそうにナディルに笑みかけるその様子に、ナディルもまた笑みを漏らす。
己の意図をきちんと理解してくれることが嬉しかったし、そうでなくとも、アルティリエが喜んでくれることが嬉しかったのだ。
「綺麗な色ですね……」
ほぉ……とアルティリエが感嘆のため息を漏らす。
ナディルがアルティリエのために選んだ林檎酒は赤みがかった美しい琥珀色をしていた。
それを冷たい水で割ってもらい、ナディルが一口毒見をしてから手渡す。
ナディルが毒見をしたことにアルフレートが二度見したが、ナディルは弟が何をそんなに驚いているのかがわからなかった。
ありがとうございます、と受け取ったアルティリエは、疑問を持つこともなく口をつける。
口の中に、さわやかな林檎の甘酸っぱさが広がり、それから甘さをおびたアルコールの香りが鼻を抜けた。やや酸味が強いような気もするが、それが逆におなかの減り具合を教えてくれるし、さらに食欲がわく。
(食前酒にはぴったりだわ)
この林檎の香りが合うような食べ物が食べたい、とごく自然に思う。
「おいしい……」
(まろやかな味のチーズたっぷりのガレットとか……あとはあっさり、さっぱり系統の鶏の煮込みとか……)
自分だったら何の料理を作るだろう?と考えながら、味わいながらゆっくりと喉にすべらせる。
「ありがとうございます」
店主である老爺が、しわくちゃの顔をほころばせた。
「うちのセルドでは、混ぜ物はいっさいしておりません」
アルフレートが告げたことを老爺は繰り返した。
きっとそれほどに混ぜ物をしている屋台は多く、だからこそはそれに憤りを感じているのだろう。
「混ぜているところでは、何を混ぜるているんですか?」
「原酒を嵩増しするために砂糖水や安くて酒精の強い芋酒を混ぜたり、あとは色をつけるために赤蕪の煮汁を混ぜたり……いろいろありますんで」
「味が変わってしまうのでは?」
「はい。ですから、うちの屋台では混ぜ物なしってのが自慢なんで……それから、割っている冷たい水は水屋から買っとります」
老爺は、そのせいでほかの屋台よりもどうしても値段が高くなってしまうのだと少しだけ困ったような表情をした。
「みずや?」
聞きなれない言葉にアルティリエは首を傾げる。
「王都では上水道が発達しています。もちろん水道水は飲用しても差し支えないのですが、もっとおいしい水があるんですよ、義姉上。……そういう水は有料なんです」
「まあ……」
(ミネラルウォーター的なものがもうあるんですね)
「ここの爺さんは、いろんな水屋を訪ね歩いて自分のところの酒に一番合う水を何種類か買っているんです」
「何種類も?」
「林檎の産地や種類で味が違うように、合う水も違うんだとか……」
「すごく、こだわっているのね」
「……いや、そんなえらそうなもんじゃあなくて、せっかくのうまい酒なんでできるだけうまく飲んでほしいってだけなんですわ」
老爺は頭をかいた。
「素敵なこだわりです。それを面倒だと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、私はそういうこだわりが嬉しいタイプなので……どうぞこれからもできるだけ続けてくださいませ」
口の中に広がるさわやかな酸味と甘味を楽しみながら、アルティリエは柔らかな笑みをみせる。
「義姉上、そんなわけで爺さんのこのセルドの酒は他よりちょっと値が高いのです、そのせいでなかなか繁盛しないんですが、どうしたら良いと思いますか?」
「良いものがそれに見合う値段がするのは仕方がないことなのですが……そうも言ってられない場合もありますものね……」
アルティリエは少しだけ首を傾げた。
「やはり値段を下げないと無理なんでしょうか?」
下々の事情にそれなりに通じているアルフレートだったが、知っているというだけで、それをどうしたらいいかということはさっぱりだった。
「いいえ。値段を下げるのはだめです。……今でも苦しいのでしょう?」
(これだけ設備投資をしているのですから)
アルティリエが手にしている硝子の杯も壜も、下町のセルドには値段のはるものだろう。
「へえ」
「ならば、なおさら下げてはだめです。安売り合戦というのは良いことなんか一つもありませんから」
値段というのは適正であるべきです、とアルティリエは真面目な表情で言った。
「もちろん、いろいろな営業努力は必要ですが安易な値下げは良いものではないです。これからも末永く商売を続けられる適正な価格でなければ」
「……ですが、なかなか売れないと、水もせっかくの酒も廃棄しなきゃいけないことにもなるんで……」
それならば多少赤字になったとしてでも売ってしまった方がいいと老爺は苦しい心境を述べた。
「いいえ……それをしたら、その値段が適正価格だと思う人が出てしまいます。その値段でなければ買わないと……そう思われるのは怖いことです」
「そうですが……」
「安くしていいのは理由がある時だけです」
「理由、ですか?」
「例えば、王都の祝祭の日とか……それも、ただ安くするのはだめです。今は、一杯いくらですか?」
「40ディーです」
「じゃあ、三杯一緒に買ったら10ディーひいて110ディーにするとかですね。……普通の日には絶対に値下げをしたらだめですよ。祝祭の日だけ。それもまとめ買いをした時だけ安くします」
アルティリエはよほど林檎酒を気に入ったのか、ちびちびと飲みながら真剣にアドバイスをしている。
空になった杯を残念そうに見たので、ナディルは新しい杯ととりかえてやった。
「……ルティア、なぜ祝祭の日だけなのだ?」
「普通の日に理由もなく値下げをしたら、それが本当の値段なのだと思う人間が出かねないからです。だから、安くするときはことさら強調して言わなければいけません」
「何と言うのだ?」
「祝祭日でまとめ買いをしてくれているから特別に安くするんだと」
「ですが義姉上、祝祭日だったら他の店も安売りをするかもしれませんよ」
「そうですね。……だから、安売りというのはあんまり意味がないんです。安さだけで買う人というのはそれ以上安くされればおしまいですから。でも、値段だけが理由じゃなくて半分くらい買うつもりになっていれば多少なりとも値引きをしているということは買うための後押しになります」
「そうですね」
アルフレートは素直に感心した様子でうなづく。
「それに、祝祭日だけの値引きならば、お祭り気分で少しだけお財布のひももゆるくなっているところに、今だけの値引きという限定感もあって、よりお得な気分になりますから……」
「なるほど、さらに財布のひもが緩くなるというわけか」
ナディルも深い相槌をうった。
「はい。……それに、この林檎酒にはほかにはまねできない素晴らしいところがあります」
「それは?」
老爺は身を乗り出した。
目の前のやや幼げなお姫様は、見た目こそ幼いが随分と商売の機微を理解している。世間知らずが多い貴族のお姫さまとは思えなかった。彼女の言葉ならば信じてもいい……その提案ならばやってみる価値があると思えるほどだった。
「味です。この味は他にはまねできません。それを利点とすればいいんです」
「どういうことだ?」
ナディルは首を傾げる。
「ここには、ほかにもたくさんのセルドがありますよね。いい匂いがたくさんするので、食べ物のセルドも多いのでしょう?その中から、この味とひきたてあうようなそんな食べ物を見つけて、そのセルドと提携すればいいと思うんです」
「ていけい?」
「例えば、そこの食べ物を買ってこちらに来たら3ディー割引してあげるとか、ですね」
「それではこのセルドばかりが損をするではないか」
「こちらからそちらのセルドに行ったときは、そこのセルドが割引をするんですよ」
そうすればお互い様です。とアルティリエは言う。
「お互いがお互いの店を宣伝しあうことになりますよね。そうしたら今より売り上げは伸びるんじゃないかしら?」
「ここより安い店が提携をもちかけてきたときは?」
「セルドの店主同士の信頼関係というものがあると思いますが、だからこそまねできない『味』を基準にするのですよ。……ここのお酒の味にぴったりと合うものをみつけるんです。味は正直なものです。混ぜ物をした味はそれなりですから」
アルティリエは何を心配しているんだろうという表情で首を傾げる。
「さあ、アル殿下、ナディル様、行きますよ」
するりとナディルの腕から滑り降り、しっかりと地面に降り立ったアルティリエは二人ににっこりと笑った。
「え?」
「……ルティア?」
「おじいさん、私、おじいさんの林檎酒にぴったりの食べ物をみつけてきますね」
「姫さま……」
どれほど身をやつしていても、アルティリエは身分の高い貴族の姫君にしか見えない。
ましてや、ナディルやアルフレートの態度からすればなおさらだ。
その貴族の姫君が、自分のために何かをしてくれるということが老爺には信じられなかった。
「私、おじいさんのこの林檎酒がとても気に入りました。セルドの経営方針も素晴らしいと思うのです。だから、おせっかいとは思いますがちょっとだけ応援させてくださいね」
そして、己に向けられたその柔らかなその微笑を、老爺は生涯忘れることはなかった。




