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君という謎のかたち


 幼い頃、世界の全てが不思議に満ちていた。



「ねえ、ラナ、なんでそらはあおいの?」

「それは、母女神様の目の色を映しているからです」

 乳母は優しく笑って言った。

(めがみさまのあおいめをどうやってうつすの?……そもそも、めがみさまってなに?)


「ねえ、ロイ、なんでふゆはさむいの?」

「それは、母女神様が御子の死を嘆いているからです」

(みこってだれ?なんでめがみがなげくとさむくなるの?)


「ねえ、ロルカ、めがみさまってなんなの?」

「あー、すいません、公子。俺は腕っぷしには自信があるんですが、学がないもんで。母女神はルティア正教のえらーい女神だってことしかわからんです」

「ルティアせいきょうってなに?」

「母女神を信じる教えですな」

「しんじるとなにがあるの?」

「……俺みてえな学のねえ人間は、ただ、信じるだけですよ」

(なんで、じつざいしないそんざいのふたしかなものをしんじられるんだろう?)


 舌足らずな口調で周囲を質問攻めにする幼児に手を焼いたのは、家人よりも母親だった。

 気難しい夫の世話をしながら所領を正しく差配し、多くの使用人たちを使って家政にあたっていた彼女には、三歳になったばかりの幼児の疑問を解決することよりも大切なことがたくさんあった。

 それでなくとも、生まれたばかりの二人目の子供はまだ乳児で、目が離せない。

 よって、彼……ナディル=エセルバートには、家庭教師が与えられた。

 大学に在学中の伯爵家の次男坊は、わずか十八歳で正式に騎士の叙勲を受けた位を持つという変り種だったが、正しい知識を持ち、偏った宗教観を持たない彼の教えは、後々までにナディルに多大な影響を与えた。




「まあ、殿下にも、そんなかわいらしい時代があったのですね」


 目の前の彼を見て何を想像したのか、ただそこに存在するだけで可愛らしい彼の妃……アルティリエは、ほぉと小さな溜め息をついた。


「いや。たぶん、まったく可愛くなかった。……答えにくいような質問ばかり並べていたような気がするし、質問攻めにして侍女を泣かせたこともある」


 彼がかわいらしかった時などどれだけさかのぼっても存在しないだろう。強いて言うならば、まだ物言えぬ乳児の時であれば多少はかわいげがあったかもしれない。少なくとも彼は、物心ついて以降、『かわいい」などと評されたことは一度もなかった。


「……いったいどんな質問をすれば泣くようなことに?」


 不思議そうに首を傾げる。


「誰もが当たり前のように抱く普通の疑問だが……たとえば、空がなぜ青いのか、とか、雪がなぜ降るのか、とか……あと、宗教というものに懐疑的で、その関係の質問は随分と答えにくかっただろう」

「……三歳児、だったんですよね?」

「ああ」

「ナディルさまらしい、と申し上げるべきなのでしょうね」


 くすくすとおかしげにアルティリエは笑う。

 柔らかな笑みは愛らしく、彼女が笑むだけで周囲が華やぐような気がする。


「きっと、私が問われたら困ってしまって、泣く事になったかもしれません」


 美しく整えられた指先が、テーブルの上のプレートから小さめの焼き菓子をつまむ。


「殿下、これはサツマ……ではなく、ロシュタ芋のタルト、こちらがカボチャのタルトです。どちらも自然な甘みがおいしいです」

「……ロシュタ芋?」

「はい。北部のロシュタという村で栽培されているお芋です」

「なぜ、そんな田舎の村で栽培されている芋がここに?」


 素朴な疑問だった。


「新しく入った侍女のマーゴの故郷なのです。マーゴのところに送られてきたものを分けてもらったのです」


 小さなカップのような焼き菓子の表面に見える蜜色の層が芋なのだろう、と見当をつけたものの、芋という野菜をナディルはあまり好んでいない。もそもそとした口触りもどうかと思うし、口の中にいつまでも残っている感じがする。

(いや、そもそも野菜をあまり好んだ覚えがないな)

 だが、アルティリエは、健康の為にといって何かと彼に野菜をとらさせようとしている。

 食事のときもそうだし、こうして、お茶菓子に使っても食べさせようとしていた。

(別に、好まないからといって食べられないというわけではないのだが)

 食べるのを嫌う様子をみせると、アルティリエがさまざまに工夫をこらして何とか彼にそれをとらせようとする様子が愛らしくて、つい心にもない好き嫌いを口にしたりもする。


「ゆでてつぶしたものを裏ごししてあります。クリームで伸ばしてあるから滑らかなので、ナディルさまのお嫌いな、もそもそした感じはないと思いますよ」

(不思議なのは、好まない理由など口にしたことがないのに、ルティアがそれを心得ていることだ)

「……そうか」

「どうぞ、召し上がってくださいませ」


 そう言って、アルティリエは毒見だというように、菓子を口に運ぶ。

 やわらかくほころぶその表情に、ナディルの頬も緩んだ。……おそらく、己が思っている十分の一も表情筋は動いていないことはわかっていたが。


「……ああ」


 口の中を紅茶で湿してから、焼き菓子を口に運んだ。

(これは……)

 砂糖のものではない、自然な甘さが口に広がる。ナディルの知る芋とはまったく違った滑らかな舌触りで、ほんのわずかだけバターが香った。


「さつ……いえ、ロシュタ芋は甘いのです。なので、ほとんどお砂糖を使っておりません。丁寧に裏ごしして、癖のない蜂蜜を少し。それから、クリームをいれています」

「ほう」

「あのね、ナディルさま。このお芋は、すごく繁殖力が強いのです。しかも、痩せた土地でも育ちます……村では、このお芋のおかげで、どんなに不作の年も飢え知らずなんだとか……」


 アルティリエの瞳がまっすぐと彼を見た。碧の奥に青がきらめくその瞳は、エルゼヴェルトだけが持つ奇跡の色だ。


「……ルティア?」

「前に、申し上げましたでしょう?痩せた土地でも育つ作物をみつけたら、皆にも教えたい、と」


 くすり、と目の前の幼い少女が微笑った。


「……ああ」


 ナディルはゾクリと背筋を走る戦きに身を震わせる。

 幼い妃の、その言葉を忘れていたわけではなかった。

 だが、さほど時もおかずにそれが実現されるなど思ってもいなかった。


「種芋も確保してあります。……どうぞ、役立ててくださいませ」


 背筋を貫く快さに、息を吐く。

(……面白い)

 ただ幼いというだけで片付けられない少女の真価を、彼は未だ計り切れていない。


「……アルティリエ」


 その名を、紡ぐ。


「はい」


 手を伸ばした。


「……殿下?」


 おっとりとしたところのあるアルティリエは、まったく無警戒だ。

(……私の、ただ一人の妃)

 頬に触れ、それから、そっとひと撫でする。


「あの、くすぐったいです……」


 触れていたそのぬくもりから、手を離すのが惜しかった。


「……母女神など、信じたことはなかったのだがな」


 口の中で小さく呟いた。

 神と言う無形の不確かなものを信じる心をずっと不思議に思ってきた。

 だが、目の前の少女を、彼の唯一の妃と定めたのが神であるというのならば、生まれてはじめて、心からの感謝を捧げても良い、と思う。


「何かおっしゃいました?」

「……いや、何も」


 ナディルが二つ目の菓子に手を伸ばすと、アルティリエはとても嬉しそうに笑った。

(……ルティアは、なぜこんなにも嬉しそうなのだろう)


 幼い頃と違い、今の彼はさまざまな智慧を得、『世界』を識っている。

 もはや、不思議に満ちていた世界はどこにもない。


(なのに、目の前の妃がなぜ笑っているのかがわからない)


 他国の簒奪者の考えは手に取るようにわかっても、アルティリエの心を計ることも想像することもできない。

 それが面白くて、妙におかしかった。


(……私は、楽しいのかもしれない)


 目の前に、少女のかたちをした謎がある。

 常に、彼の予測を軽々と飛び越えてしまうような謎だ。

 

「殿下、どうぞ」


 白い指先が、つまんだ菓子を口元に差し出した。

 断られるなんて思ってもいない満面の笑顔が彼に向けられている。


(……ああ)


 この謎は、そう簡単に解けることがあるまい。

 だからこそきっと、ナディルは焦がれ、追い求めるに違いない。


(でも、それも案外悪くない)



「……殿下?」


 そして、信じきっているその瞳を裏切ることは、彼にはできなかった。






君という謎のかたち FIN


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