攻略の行方
エピローグの少し前の殿下とフィル
「あー、何読んでるんですか、殿下」
時刻は既に零時を回っている。
日中があまりにも暑い為、夜のほうが作業効率が良いといって残業続きのナディルだったがいい加減に休んでもらわないと部下が大迷惑である。
本人は超人かもしれないが、俺たちはタダの人間なのだとフィル=リンは声を大にして言いたい。
もちろん、一言だって本人に言うことなどできないのだが。
「ルティアの気に入っている読本だよ。これが、なかなか侮れない」
ペラリと見せた薄い冊子は、普段、ナディルが好んでいる書籍類とはまったく趣を異にしている。さほど品質は良くない紙とインクを使い、薄い表紙で簡易に綴っただけの『読本』と呼ばれる娯楽本だ。
「何読んでるんです?」
「空の瞳という……何だろうな、恋愛冒険政治謀略後宮小説とでも言うような……」
ナディルは少し首を傾げる。
「あー、いいです。わかりました。何となく。……んなもん、読む暇あったら、ちっとは睡眠とれや」
このまま寝台に叩き込みたい、とフィル=リンは思う。
どう考えても働きすぎなのだ。
かといって部下に任せていないというわけではない。
ナディルは何もかも自分で抱え込むタイプの上司ではない。
むしろ、できる人間には仕事をどんどん放り投げる。
(一国の君主、というのはそれだけ激務だということだ)
特に、今の情勢は一触即発とまでは言わないが、かなり厳しい状況だ。
エサルカルのクーデターは結局失敗に終わったものの、その傷跡は深い。そして、一時は敵対したその国に対し、無条件で援助をするわけにはいかない。
「何をいう。私とルティアは15歳も年齢差があるのだぞ。親子でもおかしくないのだ。愛することは簡単だが、愛されることには努力がいる。私は努力を惜しむつもりはない」
「……そんな女向けのベタ甘な、いつか王子様が的恋愛小説読みながらそんなこと言っても、まったくサマにならねーから!」
本人大真面目な顔で、心底そういっているのはわかっているが、微妙に滑稽である。
「何を言う。これは私の大事な教科書なのだ」
「は?教科書?これで何が学べるって?」
「12歳の女の子の夢見る求婚の作法」
「はいぃ?」
求婚って誰にだよ、とか突っ込む気はなかった。この目の前の男が望むのはただ一人しかいないのである。それはもう充分すぎるほどわかっている。
(姫さんはとっくにあんたの嫁なんですけど)
「私はあまり情趣を解す男ではない。人よりちょっと優れているといえるのは頭脳くらいなものだ。だとすれば、ちゃんと情報を収集し、こうして分析をして、あれの好みをできるだけ理解し、それに近づくようにすればいいのだ」
ふと見れば、机の上には小山のようにその同じ装丁の薄い本が積まれている。
しかも、何やらラインをひいたり栞をはさんだりしてある。
何やら表をつくって真剣に分析なんかしているようだ。この男が、部下にも任せずに自分自身でここまで真剣に分析する事柄など、そう多くはないだろう。
「なあ、あんた何をはじめんの?戦争でもすんの?」
そこで初めてナディルは笑って言った。
「妻を攻略するのだよ。私ばかりが征服されているのは不公平だからね」